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第149話 上月の後悔

 予想だにしていなかった親父の襲来と、上月の反論に考えを狂わされて、帰宅してからも気持ちを整理することができなかった。


『あなたの意思をちゃんと伝えて、あの人を心から反省させないといけないのよ』


 上月から具申された言葉が心の奥底に深く突き刺さっている。俺はロビーに鞄を放り投げて、ソファに寝転がった。


 親父を許すことは絶対にできない。顔を見ただけで殴りたくなるほど嫌いだから、会話することすら苦痛に感じるくらいだ。


 けれど、俺の――いや母さんの意思をあいつに伝えなければ、あいつに何度も付きまとわれて、俺が嫌な思いをするという上月の意見はもっともだった。


 上月は俺の家族の問題に巻き込まれている被害者だ。だから俺には、あいつの意見を聞き入れる義務がある。


 上月だけじゃない。上月のおじさんとおばさんにだって俺は世話になりっぱなしだ。


 ふたりともいい人だから、俺を邪険に扱ったりしない。けれど本心では、俺の家族の問題に巻き込まれて迷惑しているはずなんだ。


 山野や弓坂のことが気がかりだけど、今の問題に目を背けるわけにはいかないよな。


 今日は朝から木田と喧嘩になるし、山野と弓坂の恋愛で頭を悩まされるし、踏んだり蹴ったりの一日だった。


 俺は疲労とストレスで重くなった身体を起こして、母さんの仏壇へと向かった。


 母さんの仏壇は和室の奥に置いてある。普段から和室をつかう用途は他にないので、和室には物が何も置かれていない。


 仏壇の上には、母さんの遺影が飾られている。三十歳前後に撮った、比較的に若い頃の写真だ。


 仏壇の棚から一本の蝋燭ろうそくを出して、蝋燭立てに設置する。百円ライターで火をつけて、三本の線香に火を灯す。


 母さんが生きていたら、今の俺を見てなんと言うのだろうか。あんなやつは無視しろと言うのか。それとも上月と同じように俺の愚行をたしなめたのだろうか。


 ひとり残された俺は、どんな判断を下せばいいのか。母さんに線香をあげても答えは出なかった。



  * * *



 シャワーを浴びる前にマンションのエントランスへと降りて、親父がいるかどうか確かめに行ったが、親父の姿は既になかった。


 上月の言葉に俺は突き動かされたが、親父は諦めてホテルへと引き返したようだ。


 あいつの携帯電話の番号を知っているから、連絡をとろうと思えばいつでもとることができる。だから俺は別段気に留めることもなく自分の部屋へと引き返した。


 眠れない夜が明けて、翌日は九時すぎに起床した。


 振替休日の二連休はだれかと遊ぶ予定がなかったので、寝巻きのパジャマから着替える気もなく、そのまま昼まで目的もなくすごした。


 親父はきっと今日か明日にでもまたやってくるから、そのときに会話をすればいい。


 面会するときには、上月に立ち会ってもらった方がいいかもしれない。俺がぶち切れて発狂しないように。


 山野と弓坂のことは、雪村から話を聞くことでまずは対策をとろうと思う。彼女の電話番号は、彼女と同中だった桂を経由すれば聞き出すことができるはずだ。


 桂に無料通話アプリでメッセージを飛ばすと、やけに神妙な返答が返ってきた。こいつにも迷惑をかけちまったんだなと思い知らされた。


 桂は雪村の電話番号を知らなかったが、同中の友達からすぐに聞き出してくれた。あいつにこれほど明敏な行動力があったなんて、意外だったな。


 桂に礼と昨日のことを詫びて、俺はメッセージのやり取りを中断した。


 雪村の電話番号は無事に取得できた。昼間は山野とデートしているかもしれないから、夕方あたりに電話をかけてみよう。


 次は親父のことだ。上月に立ち会いをお願いしなければならない。


 壁掛け時計を見上げると、十一時二十分をすぎていた。あいつはとっくに起床しているだろう。


 スマートフォンの画面にあいつの電話番号を表示して、緑色の通話ボタンを押した。


 呼び出し音が受話口から聞こえてきて、それが十秒くらい鳴ったころに電話をとる音が聞こえた。


「もしもし」


 当たり障りのない言葉で挨拶してみるが、上月からの返答はないな。


 いつもなら先制攻撃とばかりに不機嫌そうな言葉を投げかけてくるんだが。


 昨日のことで怒らせちまったのだろうか。それなら、ちゃんと謝っておかなければいけないか。


「急に呼び出して、すまん。あの、昨日のことで、その――」

『ごめんね』


 スマートフォンの受話口から聞こえたのは、上月の謝罪だった。なんでお前が謝るんだよ。


『あたし、部外者なのに、あんたにすごく差し出がましいことを言った。昨日からずっと後悔してた』


 お前はそんなことを考えていたんだな。なんだかんだ言って、お前は真面目なやつなんだな。


『透矢と、透矢のお父さんの問題は、一回話しただけで解決できるような問題じゃないのに、あたしは、わかったようなことを言って……』


 今日の上月はかなり元気がない。日光を浴びれずにしおれてしまった花みたいな気の弱さだ。


 このまま放っておいたら、あいつはどんどん自分を責めつづけてしまう。俺はかける言葉を数秒間考えて、上月に言った。


「お前が昨日言った言葉は、全部正しい。それにお前は、この前から俺と親父の問題に巻き込まれているんだから、部外者なんかじゃない。差し出がましくなんかない」


 上月は泣いているのか、すすり泣くような音が受話口から聞こえてくる。胸がしめつけられる。


「俺はあいつが嫌いだから、ずっと毛嫌いしてきた。だけど、ちゃんと話をしないといけないって、本当は思っていたんだ」


 本心ではあんなやつと話をするつもりなんてなかったんだが、それは心の奥底に封印する。


「あいつを許すつもりはないし、俺から積極的に会おうとも思わない。だが、そのうちにあいつがまたあらわれたら、今度はちゃんと向き合って、話をつけようと思う」


 話なんてできればしたくないが、仕方ない。


「それで悪いんだが、そのときはお前が立ち会ってくれないか? 俺はあいつを見ると冷静でいられなくなっちまうから、俺の言動をとなりで監視してほしいんだよ」


 上月は俺の頬をひっぱたいて制止してくれるから、こいつがそばにいてくれるととても心強いんだ。


 受話口の向こうの上月は、俺の言葉を黙って聞いていた。そして嗚咽が少し治まったときに、


『これから、うちに行ってもいい?』


 涙の混じった声でそう言った。


「あ、ああ。いいぞ。掃除してないから、あんまりきれいじゃないけど」

『うん』

「仏壇のまわりだけは昨日少し掃除したから、母さんに線香でもあげてくれ」

『うん』


 それから二、三回の会話をやりとりして、俺は通話を切った。


 俺は上月に迷惑をかけてばかりいると思っていたけど、あいつが俺のことをあんなに心配してくれていたなんて、知らなかったな。


 文化祭のときから、あいつには迷惑をかけてばかりだ。


 これからお昼ごはんでも食べるから、あいつがまだお昼を摂っていなかったら、今日くらいは奢ってやろうかな。そんなことを考えて俺はクローゼットへと向かった。


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