第138話 母さんを殺した人でなしが
人のいない商店街を抜けて駅へと駆ける。
走りながらスマートフォンの時計を見やる。十時二分になっちまったが、急いで向かえば十時四十分くらいには学校に到着できるかもしれない。
「透矢っ、早く!」
「わかってるよ!」
前を走る上月は足が速い。運動神経の学校ナンバーワンの脚力は、俺を軽々と突き放す速さだ。
さらに無尽蔵のスタミナを蓄えているのか、速さが少しも衰えないぞ。あいつの身体はどうなっているんだ!?
俺は足なんて速くないし、体力も人並みだから息が早くも上がっている。朝っぱらの全力疾走はかなりの重労働だ。
駅のロータリーに差し掛かったところで体力が尽きてしまった。膝に手をついて息を切らすと、上月が見かねて戻ってきた。
「ちょっと、だいじょうぶ?」
「すまん。ちょっと、休ませてくれ」
駅に電車は止まっていたが、その電車は下りの電車だから俺たちの乗る電車ではない。上りの電車はまだ到着していないから、少し休んでも問題はないはずだ。
「運動してないから体力が落ちるのよ。ゲームばっかしてないで少しは運動しなさい」
上月に呆れられてしまったけど、運動神経の塊のようなお前といっしょにしてほしくないんだがな。しかし運動していないから体力が落ちているのは事実だ。
肩で何度か息をして呼吸を整える。息はまだ荒いが、体力がかなり回復してきた。
「悪い。もうだいじょうぶだ」
身体を上げて、ずり落ちてしまった鞄を肩にかけなおす。
向こうの踏み切りで警報音が鳴りはじめた。上りの電車の到着を知らせる矢印のランプが点灯している。
また走らないといけないか。そう思いながら視点を駅へと戻すと、あり得ない光景が目に飛び込んできた。
ロータリーのそばにバスの待合所が設置されている。待合所の屋根を日よけにして休憩しているひとりの男がいた。
その男は灰色のスーツを左腕にかけて、布製の紺色の扇でぱたぱたと身体を扇いでいる。
「透矢?」
となりで上月が訝しがるが、そんなことに意識は向かない。
四十代と思わしき男は痩せ型で、頬が少しこけていた。髪型は中年男特有の髪を後ろに流すスタイルで、風貌はその辺にいるサラリーマンとさして違いがない。
駅に到着した上りの電車を男は意味もなく眺めていた。そして振り返って俺と目が合った。
「おやっ」
男の口が間抜けな形に開く。間延びした声が聞こえて、男が右手の扇をぱたりと閉じる。
「透矢、なのか?」
男が年甲斐もない無邪気な笑顔で待合所から出てきた。椅子の背もたれに立てかけている鞄をとることも忘れて。
俺の頭が真っ白になる。思考が急停止して、目まいのような不快な感覚が唐突にやってきた。今日も身体が汗ばむほど蒸し暑いのに、身体の内側から冷たい風が吹き付けていた。
――親父!
「ああ、やっぱり透矢だ。ひどいじゃないか。家にいきなり押しかけたら悪いと思って、携帯電話に何度も電話したんだぞ」
そいつは視線をわずかに反らして話をはじめる。
「それにしても、制服なんか着て、これから部活かい? 久しぶりに会うから、どこかでご飯でも食べたかったが、今日は出直した方がいいかな」
母さんを殺した人でなしが何かほざいていやがる。
「おや、となりのきみは、もしや透矢のガールフレンドかい? こんな可愛い子をガールフレンドにするなんて、お前も隅に――」
「透矢っ!」
気づいたら俺は、固くにぎりしめた拳を前に突き出していた。上月の悲鳴が遠くに聞こえる。
わざとらしい仕草で詮索していた親父――八神竜也は後ろの待合所まで殴り飛ばされた。
親父が左の頬をおさえて呻く。
「とっ、透矢! 父さんに何をするんだっ。いきなりっ。痛いじゃないか!」
「うるせえ! てめえみてえなくそ野郎がっ、気安く名前で呼ぶんじゃねえっ!」
俺は喉が枯れそうな声で叫んだ。落ち着いた呼吸は急に荒々しくなり、全身を巡る血液から沸騰したような熱さを感じる。
この男は、過労でたおれた母さんを見殺しにした男だ。
葬式で母さんの遺影を見ていたときから――いや母さんがたおれる前から、俺がこの手で殺してやろうと何度も思っていた。
こいつのせいで俺たちはずっと寂しい思いをして、挙句に母さんは死んでいったんだ。こいつのいない病室で、ひとりで涙を流しながら。
絶対に、許さねえっ。母さんの悲しみを、俺の憎しみをてめえの身体に刻んでやる!
俺が一歩を踏み出すと、左手がぐいっと後ろに引き込まれた。上月が抱きつくように俺の手を抑えていた。
「やめなさい! 何してんのよ、あんたはっ」
「はなせっ! このくそ野郎をぶっ殺してやるんだよ!」
怒りにまかせて上月を引き離すが、上月は全身の力でしがみつくから、なかなか引き離せない。
俺の頭にさらなる苛立ちが募っていく。
「邪魔すんじゃねえよ! いいから離せっ!」
「ダメよっ! 今のあんたを離したらっ、大変なことになるでしょ!」
左腕で強引に引き離すが、上月も一歩も引き下がらない。女のくせになんて力してやがるっ。
「いい加減に――」
俺は右手で上月の肩を押し出した。左腕がするりと抜けて、上月がその場で尻餅をつく。
これで邪魔者はいなくなった。そこの待合所でふるえているくそ野郎に正義の鉄槌を下してやるっ。
そう思ったとき、俺の前を素早い何かが過ぎった。後ろで尻餅をついていたはずの上月だった。
上月が俺の真正面に立つ。その直後、俺の左の頬に衝撃が走り、顔が右側へと吹き飛ばされた。上月が俺にビンタをしたのだ。
「少しは冷静になりなさい!」
上月のぴしゃりと言い放った言葉が俺の頭に響いた。
後ろの道路から車の走る音が聞こえてくる。気づくとロータリーに人の姿があって、そのうちの数人が俺を恐る恐る見ていた。
頭に上っていた血が急に下降していくのがわかった。頬の痛みと衝撃が俺の怒りを鎮めてくれたのだ。
だが落ち着きを取り戻した心に残ったのは、気まずさとやり場のない気持ちだけだった。
「ふざけやがってっ」
俺は肩にかけていた鞄を地面に叩きつけた。踵を返して上月に背を向けた。
「透矢! ちょっと、どこに行くのよっ」
「うるせえな。むかついたから学校をさぼるんだよ」
「さぼるって、文化祭はどうするのよ!」
俺は両手をポケットに突っ込んで前を歩く。背後で上月がどんな顔をしているのか、とても見る気になれない。
今から学校に行って模擬店の手伝いをしないといけないはずだが、そんなものはもうどうでもいい。
衝動的な激情は鎮まったが、言葉にできない虚無感がすべてのやる気を急速に奪っていく。こんな気持ちになるのは初めてだった。
俺はすべてを放棄して駅を後にした。




