第九十九話 退屈嫌いのお姫様
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
ドレス姿の少女は靴も履かず、白色の靴下を汚しながら城の廊下を走っていた。
「いたぞ! こっちだ!」
「まったく、あのお方はいつもいつも……!」
帝都に住む者なら一度は聞いたことがあるだろう、“脱走姫”の名を。
皇女ノヴァ=フォン=ファルバート。
齢14にして202回、皇城からの脱走を試みる(成功率0%)。
彼女は体が弱く、療養のため常に自室へ閉じ込められていた。
遊び盛りの年頃である彼女は不変の生活に耐え切れず、咳き込みながらも自由を求めて脱走を繰り返す。
そしていつも、彼女はある男に止められる。
「――そこまでです。皇女様」
女子トイレの窓から出た先で、濃い青髪の男が行方を遮った。
彼の名はシンファ。親衛隊の一人にして、遊縛流魔術の使い手だ。右の頬に♪の刺青があるのが特徴である。
「ど……どいて、くれませんか……シンファ……」
「もうおやめください。苦しそうではありませんか。
おとなしく部屋に戻りましょう」
ノヴァはゆっくり息を整え、説得を試みる。
「シンファ。通してくれなければ、貴方が歓楽街に入り浸っていることをお父様に報告しますよ」
歓楽街とは酒屋や接待付きの飲食店、興行場等々が集う盛り場を指す。
帝都にある歓楽街は性的サービスを主にした店が多いため、高潔の象徴である騎士は原則立ち入ってはいけないのだ。
諸々の事情により、シンファ=ラドルムは顔を青くした。
「――どこでそんな話を……」
「希少な宝石を差し上げたらグレンが教えてくれました」
「あのレア馬鹿……!」
シンファは口の軽い同僚に怒りを向けた後、顔色をリセットさせる。
「いいですか皇女様。男は適度に女性と触れ合わないと心が獣になっていくのです」
「そうなのですか?」
「ええ。女性と触れ合わず、七回目の夜を迎えると心だけでなく体まで狼に変身してしまうのです」
「そんな……! なんて酷い……」
シンファはノヴァの世間知らずさを利用し、説得を続ける。
「私は己を獣にしないため、仕方なく歓楽街に行ったのです。いわば不可抗力です。
私に罪は無いので父君に報告しても無駄です」
「ではお父様がお母様の居ない時にメイドの方々と触れ合っているのは……」
「そうですね、それも不可抗力です。
皇女様、そのことは母君には絶対に言ってはいけませんよ」
シンファは何とかノヴァを説得し、ノヴァを連れて彼女の部屋の扉の前まで戻る。
扉の前にはシンファと同じ白の隊服を着たオレンジ髪の男が立っている。
「おお! 皇女様を見つけたか! さすがだな! シンファ!」
オレンジの長髪を紐で一つに束ね、後ろ髪を垂れ流した男だ。
筋肉はシンファより一回り大きいが白の隊服が上手い具合に威圧感を緩和している。
彼の名はグレン。彼もまた親衛隊の一人である。
「……グレン。お前には後で説教してやる」
「なんと! お前が怒るとは希少だな! 中々のレアだ!
レアは素晴らしい! もっと怒れシンファ! もっと希少性を高めるんだぁ!!」
元気はつらつに言葉を紡ぐグレン。
シンファはバカらしくなり、頭に昇った血液を下ろした。
「もういい。どけ」
グレンが扉の前から身を退け、シンファが扉を開く。
「……ソナタはもっと優しかったです」
「アレはアホと言うのですよ、皇女様」
シンファは扉を押さえながらノヴァが部屋に入るのを待つ。
「薬はちゃんと飲んでください。体が治ればいくらでも外に出れるのですから……」
ノヴァが部屋に入ると扉は閉ざされた。
ノヴァは名残惜しそうに扉を暫く見つめたあと、ドレス姿のままベッドに飛び込む。
「……はぁ」
ノヴァは窓から差し込む陽光が気になり、立ち上がってカーテンに手をかける。
ふと、空を飛ぶ鳥が目に入ってノヴァは手を止めた。
(わたくしを、この部屋から連れ出してくれる王子様は……居ないのでしょうか)
鳥に向かって手を伸ばす。だがその手は窓に止められた。
「この部屋は――退屈です」
窮屈そうに呟いて、ノヴァはカーテンを閉めた。
いつか、どこかの誰かが、このカーテンを開けてくれると信じて――






