後日談:1010(6)
我々の住んでいるマンションのコンシェルジュから連絡あったのは予定されている入院の前日だった。
もうすぐ入院だろうと私が入院セットをボストンバッグにまとめ終わったときだった。一応健康体なのだがなんだかんだでバッグは満杯だ。退院する時には今はお腹の中にある大きなものも手荷物になるのだから思いやられる。
藤織さんの食事のことなど考えるが、まあよくよく考えたら自分で何とかできる人だった。一緒に住むようになって結婚して、私が在宅仕事なので食事についてはわりと私が中心で作っている。
雨の日とか、何かちょっと思い出した時とか、舌が鈍磨することはまだあるものの、私も最近ではそれなりに食べられるものを作っている。私が作らなければ藤織さんが作るまでなんだけど……なるべく楽をしてもらいたいような気がするので。私が作るご飯を食べるほうがもしかしたらよほど楽じゃないのかもしれないという可能性は無視。大体お嬢様お坊ちゃんぞろいなのに、藤織さんだけじゃなく、伽耶子さんも掛井さんも、この家に立ち寄る人間は皆料理が得意というのがまた肩身が狭いというか。
とりあえず入院中は自分で何とかしてもらおうと決意する。よく考えたら妻がいない間にここぞとばかりに友人とご飯を食べにいってもいいわけである……ってだめか、あの人の一番の友人の奥様も今妊娠中だ。
まあいいや最後の独身貴族を適当に満喫していただこう。
とわたしが結論付けたところで、コンシェルジュから訪問者の連絡があったわけだ。このマンションもセキュリティはしっかりしていて居住者以外は建物に立ち入ることも出来ない。
常盤美鶴さんだという事を伝えられて少し思案する。もちろん居留守も使えたのだけど、あの恐ろしい厚みの札束を返さなければという強迫観念があった。
「わかりました。そこでお待ちいただいてください」
危機管理能力の数値が地を這う私でも彼女をうちにあげる事はやばいということくらいわかる。私はさっさと身支度をして出かけることにした。一階のフロントまで降りるとソファに座っている彼女がいた。
常盤さんはあいかわらずの品のいい和服姿だった。ソファであるのに背筋は伸ばされ姿勢には崩れるところがない。
仕事に関しては厳しいコンシェルジュの男性もさすがに目を奪われる美しさである。
「公園のカフェに行きませんか」
「素敵ね。今日は天気もいいし」
こんなおばあちゃんを持つ孫は幸せだろうなと思われる穏やかな表情で彼女は頷いた。
それとは別に私は緊張するばかりだ。っていうかお金を早く返したい。私が持つには重過ぎる。
私達はマンション前の公園を横切って、その中にあるカフェにたどり着いた。時々藤織さんとこのあたりを散歩した時に立ち寄るカフェだ。適度な賑わいで誰も周囲に気をつかっていない気軽さが好きだった。
オープン席に案内されて私達は公園で遊ぶ子供連れ前に話し合いをすることになった。四月の空気は暖かい。
「あの、何よりまずこれをお返ししなければと思っていました」
「まあ気にしないで」
テーブルに出したのは例のふざけた厚みの封筒だ。
「気にします」
ずずいと押し出したそれは、テーブルの真ん中で止まった。
「……夫も返すつもりでいます。でもあの人がそちらに返却に伺った場合、返すだけですむとは思えないんです。少なくともかなりひどい言葉の応酬にはなるでしょう。私がそれを聞くことは無いのでしょうけど、想像しただけで胃が痛みます」
常盤美鶴さんはテーブルのその包みに視線を落とすこともなく私をまっすぐ見て言葉を聞いている。ただ、果たしてどれくらい届いているのかわからない。
「妊婦を労わると思ってお持ち帰りください」
とりあえず、相手の良心に訴えてみることにした。
労わるようなか弱い見た目は多分私には無いと思うんですけどね……。
「あなたの意向として」
少しだけ間が空いた後、彼女はゆっくりと話し始めた。
「その子供とこちらを関わらせるつもりはないということなのかしら」
「そう思ってくださって結構です」
「前にも言ったけど、わたくしはあなたにひどいことをした記憶は無いのに?」
「あなたは私の母ではなく義母です。夫があなたと関係を持ちたくないというのなら、私はなにもできません」
もしかすると。
親子の不和に対してできることややらなければならないことがあるはずなのかもしれないけど、私はそこに踏み込まない。
踏み込むべきなのだろうか?
うっすら感じてはいる。
藤織さんが私の領域にずいずい踏み込んできたことによって、私は姉妹として気がつかず歪んでいた関係を修復することができたからだ。もしかしたら私が踏み込むことによって改善する関係もあるかもしれない。
でもしないことにしたのだ。
そう決めたのは、藤織さんを非難したくないからだ。
一度だけ目にした藤織さんと常盤美鶴さんの殺伐とした会話。あれが今始まったわけでなく、幼い藤織さんに向けられていたことは間違いないと思う。
藤織さんには言わないけど、それに対して私が抱くのは、怒りを伴った可哀想という感情だ。可哀想なんて、そんな言葉を向けるのは傲慢さを感じてしまうのだけど、でも幼い藤織さんがその言葉に対してどう感じていたのかを想像するだけで、私は泣きたくなる。
たとえ今の藤織さんが、その気になれば嬉々として全面戦争を仕掛けるようなガチ武闘派であるとしても、どうしても幼い彼の姿が私の目にはうっすらと被って映るのだ。
できれば幻であってほしいけどね。生まれついてああいう性格だったらそれはそれで心が安らぐ。よかった、かわいそうなこどもはいなかったんだ!って。
だから、そういう殺伐とした環境のなかでおそらく懸命だったであろう彼を非難したくない。
関係改善には必ず当事者の反省が必要だと思うのだけど、それは自己批判が伴うわけで。
自己批判であっても藤織さんを責めるのはいやなんだ。
「あなたの仲裁によってわたくし達の関係が良くならなければその子は祖母を一人失うのに?あなたのところももうご両親がいないんでしょう?」
……実に嫌なこというものである、この人。
また本人に嫌味をいっている自覚がなさそうなのがもっと嫌な感じだ。空気の読めなさを武器にするような。
善悪じゃなくて好き嫌いの話としてだけど。
私はぎゅっと拳を握り締めた。
「関係を変えたいのであれば、あなた自身がもっと頑張るべきであったと思います。自分で何もしないで私を責めるんですか?」
すっと氷の薄い膜がはるように、常盤美鶴さんの表情がこわばった。多分わたしがこんなふうに鋭い一言を放つなんて予想もしていなかったのだろう。格下と見られていたのは間違いなく、いやまあ実際に格下なんですけど。
「だいたいどうして今頃になって、彼に関わろうとするんですか」
何とかそれも続けて言う。この二言で手の中は汗で湿っていた。ほんと、私はへたれというか人に意思表示することがへたくそだな……。
近くで高い声が聞こえた。明るい笑い声は公園の中で遊ぶ子供達のものだろう。同じカフェにいるのは若い夫婦や女性の友達同士、老人の姿もちらほら見える。でも皆、わりとリラックスした表情であり、私達のように、殺伐とした会話をしているものなんていないだろう。
常盤美鶴さんは、さきほどからテーブルの上に乗ったまま手がつけられていなかったカフェオレのカップを手にした。
ぽってりとして温かみのある土のカップはなんだか彼女の細く美しい指に不似合いだった。
私もつられて自分の頼んだミルクティーを飲んだ。しばらくの沈黙はこれ以上ないくらい居心地の悪いものだった。
自分のカップを置いて私を見た常盤美鶴さんは、先ほど見せた憤りのような感情のかけらをまた隠していた。
「わたくしね、失敗したことがなかったの。涼宮のあの男に会うまでは」
そしてゆっくりはっきりとした声で語り始めた。
常盤美鶴さんは微笑みといっていい表情で優しく話す。でもその瞳はかけらも笑っていない。私もへらへらとした表情を作り続けていられなくなってきた。
「どんな相手から好意をもたれてもそれが当然だと思っていたわ。かといってそれに溺れるような愚か者でもなかった。だからこそ、彼に恋をしたとき、これこそわたくしの唯一無二の真実であり運命だと思ったの」
『彼』
涼宮の、私が見たことの無い男の人だということはわかった。藤織さんの遺伝上の父。
そこで彼女は一瞬だけ目を伏せた。
「でも間違いだった。わたくしが間違うなんてね。どうしてもうまくいかなくて涼宮と別れてたけれど、うまく自分の失敗を受け入れられなかったの。わたくしは確かに幼かった。彼との子供も産んだけどそれは結局意地みたいなものだったのよ。夫もいないのに産むなんて無茶だったわ」
どこまで本音かわからない、でも本音としか思えない、けれど彼女が私に本音を話す理由なんてあるはずがない。そんな混乱で私は背筋が冷えてきた。なんだかお腹が重いというか痛いような気までする。
「あの子には謝らないといけないのかもしれないわ」
私は目を見開いた。
そんな謝罪一つで私の夫の痛みが癒されるなんて思うほど私はおめでたくない。でも、もしかしたらこれがきっかけとなって……なんて一瞬、それこそおめでたくってみこしの百や二百も担ぎ出されそうな能天気なことをよぎらせた私は次の言葉に息を止めた。
「失敗してしまってごめんなさい。次はうまくやるから許してねって」




