107 ロロナ、父と会う
冬の終わりが近くなってきた頃、夜中に母を訪ねた。
「明日、あなたのお父さんが来るわ。まず私が話をするから、見えないところでクレアはそれを聞いていなさい」
そう言った母は、最初に会った弱々しい姿ではなく、どこか強さを感じさせる母親の顔になっていた。
「じゃあ、明日もう一度来る?」
「出入りが見つかるとまずいので、泊まってしまった方がいいんじゃないですか?」
おりんが言うと、母の顔がほころんだ。
泊まって欲しかったんだろうな。
「チアちゃんも一緒にどうかしら?」
「チアは明日、ししょーの所にいくから、また今度泊まるね」
二人が帰って、マリッサも退室すると部屋に二人きりになった。
「そろそろ遅いから、眠っておきましょうか」
母と同じベッドに入る。
「クレア、おやすみ」
「……ママもおやすみ」
久しぶりにママ呼びすると、母に思い切り抱きしめられた。
朝食に作り置きしていたホットサンドとスープをストレージから取り出した。
いつもは夜に来るので、わたしが作ったものを母に食べさせたことはほとんどない。
軽食とはいえ、わたしが作った食事らしい食事を食べさせるのは初めてで、とても母は喜んでいた。
「クレアの手作りってだけで、どんなご飯よりおいしいわね」
「もう、ママ。そういうのいちいち言わないでいいから」
「今まで言えなかった分、うんと言いたいもの」
しばらくして、マリッサがやってきた。
普段より遅い時間らしいので、わたしと母が二人きりでいられるように気を遣ってくれたのだろう。
タイミングを見て、マリッサにそっと尋ねた。
「お父さんと一緒に、もう一人の奥さんも来るの?」
「いえ、第一夫人のラボワ様はいつももっと春の社交シーズンが近づいてからいらっしゃいますので、本日はお父様だけです」
「そう……」
今はまだ顔を合わせたくない相手なので正直助かるな。
本人が悪くなくても、その後ろについている者たちに殺されかけたのだ。
「……いらっしゃったようですね。クレア様はこちらへ」
わたしは奥の寝室部分で待つ。
さっきまで『お母さん』だった母の横顔には、久しぶりに夫を迎える妻とは思えない、緊張感のある硬い表情が浮かんでいた。
少しして、父がやってきたようだ。
男の人の声がした。
「しばらくぶりだね。顔色は悪くないようだ。あまり食べれてないんじゃないかと心配していたんだが」
「ええ。最近は頑張って食べるようにしているの。いつまでも、弱い母親のままではあの子に顔向けできないもの」
「そうか……そうだな」
わたしの話に、父の声が一段沈んだ。
「あなた、これから聞くことに真剣に答えて。あなたの答えによっては……私は今日ここを出ていくわ」
母の言葉にぎくりとする。
なんでそんなことに……?
父と会うのに妙に緊張感があった。
間違いなく、母は本気で言っている。
「……ああ、わかった」
「クレアを見つけたわ」
「なんだって!? 生きていたのか!? 今どこに!?」
「その前に、こちらの質問が先よ」
「あ、ああ……」
母が強い口調で続ける。
「あの子はすでに独り立ちしていて、自分の夢を追いかけている。自分で選んだ道を歩いているの。家族だっている。ここで過ごすことはあるかもしれないけれど、ここで暮らすことはもうない。あなたはそれを認めてあげられる?」
母は、わたしを父に会わせても大丈夫なのかを確認するつもりだったようだ。
もし父がうなずかなかったら、ここで会うのは難しくなる。
その時は、母は父との縁を切り、わたしとのつながりを選ぶつもりなのだ。
妻であることよりも、母であることを選ぼうとしている。
母はわたしの手を放したことをずっと後悔していたから。
不貞のそしりを受けてでも手を放すべきじゃなかったんじゃないかと悩み、後悔しながら、長い時間をすごしてきたから。
「独り立ちだの夢だの言っても、まだ子供だろう? やはりうちで引き取って、将来的には君の両親の伝手や、うちの使用人から結婚相手を探してやるべきじゃないか?」
ああ、なるほど。
獣人として生まれたから、元々わたしの将来設計はそういう感じだったんだな。
沈黙をたもつ母に、父が咳払いをした。
「……そうだな。育ててもいない私たちが、今更口を出せないか。しかし、九……まだ十才だろう。引き取るのは難しいのか?」
「あの子は、もし迫れば、今度こそいなくなって二度と見つけられないでしょうね」
きっぱりと母が答える。
母の前で、必要なら国を捨てるって言ったことがあるからな。
父がため息をついた。
「……そうか、クレアはもうクレアの人生を歩んでいるのか」
しばらく沈黙が続いた。
「生きてくれていればそれで十分、と思っていたんだがな。知ってしまえば、つれて帰りたいと思ってしまうな。まだ一度しか抱いたことがないんだ。……あの時は、すぐにまた会えると思っていたのに」
「ええ、生まれたばかりで……どう抱いていいのかわからなくて、あなた困っていたわよね」
「ああ、こわごわ抱いてね。すぐに君に返したっけ。どうせ、そのうち飽きるほど抱っこするんだからいいさと思っていたんだ」
ああ、今お母さんが話している人は、本当にわたしのお父さんなんだな。
苦笑混じりに男性の話すその内容に、その人が自分の父親なんだと実感する。
「あの時、一度でも手を放したことをこんなに後悔するとは思わなかったわ。……結果論だとわかってはいるけど」
「……そうだな。あの時はあれが最善のはずだった。まさか行方がつかめなくなるなんて思いもしなかった。隠さなければ……あらぬ噂が山と流れ、君は不貞を働いたと言われ、離縁するしかなくなる。本当に私の子だと言い張れば、前の国王様ならあの子を放逐するよう求めただろう。貴族が獣の血など、とね」
一度緩みかけていた空気が、重くなっていく。
「あの子は才能があったみたいよ。成功していると言ってもいいのかしら。もしうまく家に取り込むことができれば、あなたは更に上に行くことだってできるかもしれないわね」
あからさまに母が念を押した。
仕事関連の話はある程度母に話したことがある。母はわたしのやりたいようにやりなさいという方針だし、関係を明かすとデメリットが多いことも伝えているので大丈夫だろうと思ったのだ。
父の苦笑した声が聞こえた。
「いや、もういいよ。領を背負うのが私の仕事だよ。……しかし、それほどの仕事をしているとは、何をやっているんだい? 君に似て、友人を作るのがうまかったんだろうかね」
「凝り性なところはあなたに似ていたわ」
「……そうかい」
父の声には、少し嬉しそうな響きが含まれた。
「それで、クレアはどこに?」
「最後に一つ。今まで答えたことをここで誓ってもらえるかしら」
「わかった。我が先祖代々の名にかけて誓う。私はあの子の選んだ道を尊重しよう」
それから母が何かを言うよりも早く、もうわたしは飛び出してしまっていた。
「お父さん!」
「クレア!? クレアなのか!」
初めて見る父は、強そうでもないし、威厳だってない、ただの普通の人だった。
でも優しそうで、わたしにはそれで十分だった。
父がわたしを抱き上げて、それから重さに耐えられなくて少しふらついた。
「昔のセレナとそっくりじゃないか……ああ、こんなことならもっと鍛えておくんだったな」
すぐに父の目に涙があふれた。
「お父さん、ありがとう」
「いいんだ。生きていてくれて、もう一度会えた。これ以上ぜいたくは言わないよ」
振り返ると、母も泣いていた。
「ママ、わたしのためにありがとう」
「いいのよ。ママも、これくらいはクレアのために頑張らないとね」
「……お父さんのことはパパと呼んでくれないのか?」
「あら、ぜいたくは言わないんじゃなかったのかしら」
母の言葉に、父が泣きながら笑った。




