第91話 白き指先、微かな違和(芽吹月二十四日・昼/姫様視点)
その日、昼過ぎになってようやく、アイリスは私の前に姿を見せた。
「お待たせしました、姫様」
いつも通り、凛とした声。
でも、その声の奥に、わずかな掠れを感じた。
私は紅茶のポットに手を伸ばしながら、目を細める。
「……どこに行ってたの?」
「物資庫の確認に。カティアさんと……」
「ふうん」
何気ないそぶりで、私はカップを満たした。
香りが漂う。
でも、その香りに混ざって、微かに違う匂いが鼻をくすぐった。
薬草の匂い。
あれは──「止血用の軟膏」。
ほんの微かに、アイリスの袖口から漂っている。
気づく者など、いない程度の香気。
けれど、私は昔からこの香りにだけは敏感だった。
「……怪我、したの?」
「……えっ?」
アイリスが小さく揺れる。
その反応が、何よりの答えだった。
「カティアと“確認に行った”だけなのに、なぜ止血薬の匂いがするのかしら?」
私はカップを置き、彼女の正面に立つ。
アイリスは一瞬言葉を失い、すぐに顔を伏せた。
「……あの、少しだけ、不注意で……」
「“不注意”ね? 誰に? あなたに? それとも、あなたを狙った誰かに?」
私は一歩近づく。
アイリスは逃げなかった。
それだけで、私は少しだけ安心した。
「ねえ、アイリス。わたくし、言ったはずよ。無理はしないで、って」
「……はい」
「なのに、あなたは黙って傷を抱えて戻ってきた。どうして?」
「……守りたかったんです。姫様を」
その言葉は、まっすぐで、揺るがなかった。
「たとえ……自分が傷ついても、姫様に近づくものは、わたしが排除するって……そう決めたから」
私は黙って、彼女の袖を取る。
ごく浅い傷。
でも、確かに切られている。
そして、その奥に、淡く光る痕跡。
──蒼い、脈動。
「……これは、なに?」
アイリスが、息を呑む。
「ねえ、教えて。わたくしに、隠していることは何?」
彼女の瞳が揺れる。
「……ごめんなさい」
小さな声が、震えていた。
「……まだ、前の傷も……完治していないんです」
私は思わず息をのんだ。
「え……?」
「ちゃんと治ったように見せたくて、頑張って動いて……でも、深くて、動くと、まだ痛むんです」
「なのに、あなたは……」
「でも、放っておけなかった。あの影は、また姫様を狙う。だから……わたしが……」
私は、言葉を失った。
彼女が、どれほど無理をして、何を背負っていたのか。
「……ばか」
気づいたら、そう呟いていた。
「……え……」
「ばか。どうしてそんなに、一人で……全部抱え込むの」
私の手が、アイリスの頬に触れた。
「無理をしても、わたくしは嬉しくない。
痛みを隠しても、強いとは思わない。
あなたが、あなたとして生きてくれていれば、それでいいのよ」
アイリスが目を見開き、そして、ゆっくりとうなずいた。
「……ごめんなさい、姫様……」
その言葉は、わたくしの心にそっと触れた。
──でも、もう遅い。
わたくしは、あなたを守る覚悟を決めてしまったのだから。




