第84話 ふたりの朝(芽吹月二十二日・午前)
朝が来た。
目覚めるという感覚が、こんなにも愛おしく、そして胸に沁みるものだったとは、今まで気づかなかった。
まぶたの裏に差し込む光。
静かな空気の中で、カーテン越しに風が揺れる。
どこか遠くから聞こえる鳥のさえずりと、カップを置くかすかな音──
生きている。
それだけで、心が満ちていた。
*
「……おはようございます」
小さな声でそう呟くと、すぐに返事があった。
「おはよう、アイリス。ようやく目が覚めたのね」
その声は、とてもやさしくて、胸に触れるようだった。
顔をゆっくりと横に向けると、そこには、椅子に腰掛けた姫様がいた。
白いドレスの上から、薄手のガウンを羽織り、手には小さな紅茶のカップ。
その横には、もうひとつ──私のためのカップ。
「……ずっと、そこに?」
「ええ。わたくしの大事な従者が、目を覚ますかどうか見届けずに寝られるわけないでしょう?」
笑いながらそう言う姫様の声が、涙腺を直撃した。
「……すみません、姫様。私……何も……」
「もう、その言葉は禁止。寝言でも謝ったら、部屋から追い出すわよ?」
「えっ、いや、あの、それは……!」
「冗談よ。寝言に文句は言わない。現実で言ったら追い出すけど」
「ひ、姫様……」
「ふふっ。ああ、でも、ようやく目覚めてくれた。本当に……よかった」
姫様は小さく息をついて、私の髪にそっと触れた。
それだけで、喉が詰まりそうになる。
あのとき、確かに終わったと思った。
刃を受け、地に崩れ落ち、世界が遠ざかっていく感覚の中で、姫様の名だけが頭に残った。
それが、私を生かしたのだと思う。
*
「今日は、これを飲んでから大人しく寝てなさい」
姫様が差し出したのは、小さなカップ。
淡い紅茶の香りに、やさしい甘さが混じっている。
「これは……」
「わたくしの謹製、回復茶ブレンド。療養者専用。効能は“癒し・安らぎ・ちょっとだけ元気”。味は保証しないけど、心には効くわ」
「……姫様の手作り、なんですね?」
「ええ。配合に三時間、抽出に一時間、感情投入に八時間よ」
「最後のが多すぎませんか……?」
「それだけ心配してたのよ」
目をそらしながら言う姫様が、かわいすぎて胸がいっぱいになる。
私は、そっとカップに口をつけた。
やさしくて、あたたかくて、ほっとする味。
身体の芯まで染み込んでいく。
「……とても、おいしいです」
「ほんとに? それ、わたくしが初めて“実験成功”って言ってもいいのかしら?」
「はい、誓って」
「じゃあ、次はもっと苦いやつ作るわね」
「どうして進化の方向がそちらへ!?」
ふたりで笑った。
そう、この笑い声こそ、私が守りたかったものだった。
*
「でも、本当に……怖かったのよ」
姫様が、静かに言った。
それまでの笑いが少しだけ止まり、声が震えていた。
「あなたが倒れたと聞いたとき、何も考えられなかった。
怒って、叫んで、走って、誰も見えなかった」
「……姫様」
「わたくしは、あなたの名前をつけた。
でも、それだけじゃ足りなかった。
名前を呼ぶだけじゃ、あなたは助からなかった。
こんなにも、無力だなんて思いたくなかった」
言葉の端々に混じる、涙の気配。
私は、手を伸ばし、姫様の手を握った。
「でも、届きました。姫様の声が。だから、生きています」
「……っ、うそでも、嬉しい」
「うそじゃないです」
しばらくの沈黙。
ふたりの呼吸だけが、部屋に残る。
「……今日だけは、そばにいてもいい?」
「ずっと、いてください」
「……馬鹿」
そう言って笑った姫様の目は、涙でにじんでいた。
*
日常が、少しずつ戻ってくる。
けれどその裏で、何かが確実に動いている。
わたしは知っている。
姫様の笑顔を守るために、もう一度、立ち上がらなければならないことを。
それでも。
この瞬間だけは、誰にも奪わせない。
姫様と私の、たったひとつの朝を。
ふたりで笑い合えた、この光を。




