表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
84/100

第84話 ふたりの朝(芽吹月二十二日・午前)

 朝が来た。


 目覚めるという感覚が、こんなにも愛おしく、そして胸に沁みるものだったとは、今まで気づかなかった。


 まぶたの裏に差し込む光。

 静かな空気の中で、カーテン越しに風が揺れる。

 どこか遠くから聞こえる鳥のさえずりと、カップを置くかすかな音──


 生きている。

 それだけで、心が満ちていた。



 「……おはようございます」


 小さな声でそう呟くと、すぐに返事があった。


 「おはよう、アイリス。ようやく目が覚めたのね」


 その声は、とてもやさしくて、胸に触れるようだった。


 顔をゆっくりと横に向けると、そこには、椅子に腰掛けた姫様がいた。


 白いドレスの上から、薄手のガウンを羽織り、手には小さな紅茶のカップ。

 その横には、もうひとつ──私のためのカップ。


 「……ずっと、そこに?」


 「ええ。わたくしの大事な従者が、目を覚ますかどうか見届けずに寝られるわけないでしょう?」


 笑いながらそう言う姫様の声が、涙腺を直撃した。


 「……すみません、姫様。私……何も……」


 「もう、その言葉は禁止。寝言でも謝ったら、部屋から追い出すわよ?」


 「えっ、いや、あの、それは……!」


 「冗談よ。寝言に文句は言わない。現実で言ったら追い出すけど」


 「ひ、姫様……」


 「ふふっ。ああ、でも、ようやく目覚めてくれた。本当に……よかった」


 姫様は小さく息をついて、私の髪にそっと触れた。

 それだけで、喉が詰まりそうになる。


 あのとき、確かに終わったと思った。

 刃を受け、地に崩れ落ち、世界が遠ざかっていく感覚の中で、姫様の名だけが頭に残った。


 それが、私を生かしたのだと思う。



 「今日は、これを飲んでから大人しく寝てなさい」


 姫様が差し出したのは、小さなカップ。

 淡い紅茶の香りに、やさしい甘さが混じっている。


 「これは……」


 「わたくしの謹製、回復茶ブレンド。療養者専用。効能は“癒し・安らぎ・ちょっとだけ元気”。味は保証しないけど、心には効くわ」


 「……姫様の手作り、なんですね?」


 「ええ。配合に三時間、抽出に一時間、感情投入に八時間よ」


 「最後のが多すぎませんか……?」


 「それだけ心配してたのよ」


 目をそらしながら言う姫様が、かわいすぎて胸がいっぱいになる。


 私は、そっとカップに口をつけた。

 やさしくて、あたたかくて、ほっとする味。

 身体の芯まで染み込んでいく。


 「……とても、おいしいです」


 「ほんとに? それ、わたくしが初めて“実験成功”って言ってもいいのかしら?」


 「はい、誓って」


 「じゃあ、次はもっと苦いやつ作るわね」


 「どうして進化の方向がそちらへ!?」


 ふたりで笑った。


 そう、この笑い声こそ、私が守りたかったものだった。



 「でも、本当に……怖かったのよ」


 姫様が、静かに言った。

 それまでの笑いが少しだけ止まり、声が震えていた。


 「あなたが倒れたと聞いたとき、何も考えられなかった。

  怒って、叫んで、走って、誰も見えなかった」


 「……姫様」


 「わたくしは、あなたの名前をつけた。

  でも、それだけじゃ足りなかった。

  名前を呼ぶだけじゃ、あなたは助からなかった。

  こんなにも、無力だなんて思いたくなかった」


 言葉の端々に混じる、涙の気配。

 私は、手を伸ばし、姫様の手を握った。


 「でも、届きました。姫様の声が。だから、生きています」


 「……っ、うそでも、嬉しい」


 「うそじゃないです」


 しばらくの沈黙。

 ふたりの呼吸だけが、部屋に残る。


 「……今日だけは、そばにいてもいい?」


 「ずっと、いてください」


 「……馬鹿」


 そう言って笑った姫様の目は、涙でにじんでいた。



 日常が、少しずつ戻ってくる。

 けれどその裏で、何かが確実に動いている。


 わたしは知っている。

 姫様の笑顔を守るために、もう一度、立ち上がらなければならないことを。


 それでも。


 この瞬間だけは、誰にも奪わせない。


 姫様と私の、たったひとつの朝を。

 ふたりで笑い合えた、この光を。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ