第76話 帳簿の隙間、偽りの名簿(芽吹月二十一日・朝/姫様視点)
朝の光が差し込む政務室。 いつものように整った机の上に、今日は一際分厚い帳簿の束が積まれていた。 書類に囲まれるのは日常だが、今日の書類は、ただの事務処理ではなかった。
「これが……オルグ・トゥリム商会の納品記録?」
「はい。影紋課の協力により、ほぼ全期間の写しが確保されました」
カティアの報告は相変わらず早い。 少しの皮肉と、完璧な仕事。付き合いにくいけれど、頼りになる存在。
アイリスと私の間には、すでに目配せ一つで意図が伝わる空気があった。 彼女が無言で差し出してきた帳簿を受け取り、ページをめくる。
「この欄……見て」
アイリスが指差したのは、記録番号と納品先を記した表。 一見正確に見えるその欄に、よく見ると奇妙なパターンがある。
「同じ日付、同じ便、同じ重量の荷が、別の名義で繰り返されているわ」
「“二重帳簿”ですね。記録は別々に保管され、本物と偽物の区別がつきにくくなります」
「こうして記録が“整って見える”ように作られていたのね。姑息な……」
書類をめくる手が止まる。 目にしただけで、背筋に冷たいものが走る。
「この納品先……王城第三倉庫。そこは……」
「今は使われていないはずの、旧警備備品庫です」
「なら、これは……完全に偽装じゃない!」
私は立ち上がった。 記録を掘り下げれば掘り下げるほど、根は深く、闇は濃い。 これがもし城内の一部と繋がっていたとしたら──背後にいるのは、私たちの“味方”の顔をした誰かだ。
*
そのときだった。 帳簿の中から一枚、紙が滑り落ちた。 手書きの文字。滲んだインク。過去から抜け落ちたかのような一枚。
「これ……名簿?」
拾い上げたその紙には、納品の受領者として記された数名の名前。 けれど、その中に見覚えのある名があった。
「……セディル・ヴァレンス。彼が、受け取っていた……?」
「あるいは、その名を“使っていた”誰かが」
アイリスが低く呟いた。 その横顔は、静かに火を灯したような気配を帯びている。 いつもの穏やかな表情の裏に、強い怒りと決意が滲んでいた。
「でも、この名簿……筆跡が不自然です。恐らく……本人のものではありません」
「偽造の可能性?」
「はい。もしくは“本人の意志とは関係ない形”で名前だけが使われた」
「どちらにしても、放ってはおけないわね」
私は深く息を吸い、胸元のブローチにそっと手を添えた。
──こんなやり方、私がもっとも嫌う手口だ。
*
「姫様」
アイリスが声をかけてきた。 彼女は慎重に、机に並べられた帳簿と紙片を一つ一つ確認している。 その手つきに迷いはなく、冷静な視線は一分の狂いもなく記録を追っていた。
「いくつかの記録は、他の商会にも流用されています。名義貸しや裏契約の形跡が濃いです」
「他にも、関係している商会があるの……?」
「可能性は高いです。これだけでは終わらないかもしれません」
私は机に手を置き、少しだけ目を閉じた。
「じゃあ、まずはセディルを。“本当に彼が関わっているのか”を確かめましょう」
「はい。彼が“関わっていなかった”としても、少なくとも、何が行われていたかを知っていたはずです」
「もしも、それを黙認していたのだとしたら──」
「罪は、黙っていた者にも及びます」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「ついに、“本丸”が見えてきたわね」
重く静かに、しかし確かに一歩。 私たちはその核心へと、踏み込もうとしていた。
私たちの影に、微かに揺れる別の視線があることも、このときはまだ知らずに。




