第53話 銀のスプーンと、言葉にならない約束(芽吹月十二日・午前後半)
厨房に戻った私は、銀のスプーンを掌の中でそっと握りしめていた。
まだ、指先には姫様の体温が残っているような気がした。 朝の紅茶のあと、姫様は何も言わず、けれど確かに“すべてを預けた”ような微笑みを浮かべていた。
私は、その笑みに、何も返せなかった。 ただ「ありがとうございます」と、形式的な言葉しか出てこなかった。
(もっと、何か……)
もっと、伝えたい想いがあった気がする。 けれど、それはうまく形にならず、口を開けば壊れてしまいそうなほど繊細だった。
「……姫様の気持ち、まっすぐすぎます」
私は、スプーンを磨くふりをしながら、そっとそれに唇を寄せた。
(こんなに、あたたかい贈り物を、どうすれば返せるのだろう)
「ふふーん。あらまあ、何やらしおらしい空気じゃないですかぁ」
カレンが厨房の奥からひょっこり顔を出して、わざとらしく鼻歌を口ずさんでいた。
「おお、恋する紅茶職人が銀のスプーンを眺めてる」
「……カレン。今日は静かにしていてください」
「でも、ほら、その顔。わかりやすくて、可愛い」
「誰の顔が」
「アイリスの顔が、だよー」
私は軽くカレンにタオルを投げた。
「まったく……」
けれど、それでも口元の緩みは抑えきれなかった。
姫様が贈ってくださったこのスプーンは、ただの道具ではない。 たったひとつの“言葉にできない想い”の証なのだ。
「……カレン」
「なに?」
「私、このスプーンで、明日からも“ふたり分”を淹れ続けようと思います」
「そっか。じゃあ、それが返事だね」
「……返事?」
「言葉じゃなくて、行動でね。姫様、喜ぶよ」
私はもう一度、スプーンを見つめた。 リンドウの花が、ほんの少し光に揺れている。
(この時間が、どうか壊れませんように)
私は、姫様の想いを受け止める準備が、ほんの少しだけできた気がしていた。
だから明日も、そしてその先も、私はこのスプーンで──姫様のために、ふたり分を淹れ続けようと思った。
*
午後の準備をしながら、私は試しにスプーンを使って一杯、仮の紅茶を淹れてみた。
湯気が立ち上る。 香りは、変わらないはずなのに、どこかほんの少しだけ…… まろやかに、優しく感じられた。
「……これは、私の気持ちのせいでしょうか」
スプーンの重さは、今までのものと大差ない。 けれど、その重みの“意味”が違うのだ。
たったひとつの想いを受け取っただけで、紅茶の味すら変わってしまう。 それが、こんなにも不思議で、嬉しくて、少しだけ怖い。
「でも、きっと……これで、いいのだと思います」
私は仮の一杯を丁寧にカップに注ぎ、ふっと微笑んだ。
もし姫様が、これを“好き”だと言ってくれるのなら。 それが、返事になるのかもしれない──そんな予感がしていた。




