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第52話 銀のスプーンに託した想い(芽吹月十二日・早朝/姫様視点)

 芽吹月十二日、朝。  私は、自室の鏡の前で何度も深呼吸を繰り返していた。


 今日こそは、と何度も決めては、昨日まで渡せずにいた銀のスプーン。  この小さな贈り物を、私はようやく胸元のポケットから取り出すことができた。


 「今日なら、きっと──」


 声に出すと、ほんの少しだけ勇気が湧いた。


 東庭への足取りは、少しだけ軽い。  けれど、胸の奥はずっと小さく震えていた。



 先に着いていたアイリスは、いつも通りの丁寧な手つきでポットを温めていた。


 「おはようございます、姫様」


 「おはよう、アイリス。今日も……ありがとう」


 その言葉だけで、アイリスは小さく微笑んだ。  それが、今朝の私には何よりの励ましになった。


 紅茶が注がれ、湯気が立ちのぼる。  その香りは、昨日よりも少しだけ深みがあって、  アイリスが、私のために選んだ想いがそこにあることが、ひと口でわかった。


 「……やっぱり、アイリスの紅茶は特別ね」


 「恐縮です」


 私はポケットに手を差し入れた。  銀の箱が、指先にひやりと触れる。


 (今だ。今しかない)


 私は小さく息を吐いて、箱をテーブルの上に置いた。


 アイリスが驚いたように瞬きをして、視線を落とす。


 「……姫様、これは」


 「あなたのために、職人に頼んだの。  ……紅茶を淹れるあなたの姿が、とても綺麗だったから」


 アイリスは黙って箱を開けた。  中には、リンドウの花をあしらった小さな銀のスプーン。


 「……もったいないお言葉です」


 「それでも、どうしても贈りたかったの。  ……あなたに、ふたり分の紅茶を淹れてもらうたび、私は嬉しかったの。  でもそれだけじゃなくて……その時間が、ずっと続いてほしいと、願うようになった」


 沈黙。  でも、それは今までのどれよりもあたたかな沈黙だった。


 「だから、このスプーンは、“私の気持ち”の代わり──なんて、きれいには言えないけれど」


 私はそっと目を伏せた。


 「……どうか、受け取ってくれますか」


 アイリスは、しばらく何も言わずにスプーンを見つめていた。  そして、静かに──けれどしっかりと、頷いた。


 「はい。大切に、使わせていただきます」


 カップから立ち上る湯気が、まるで祝福のようにふたりの間を包んでいた。  そして私は初めて、渡せなかった気持ちをひとつ、手放すことができた。


 「……あの、姫様」


 アイリスが、少し迷うように視線を下げながら、言葉を探していた。


 「はい?」


 「このスプーンで淹れた紅茶が、もし少し味が変わってしまっても……」


 「うん?」


 「……それでも、いつも通り飲んでいただけますか」


 私は思わず、笑みをこぼした。


 「もちろん。どんな味だって、あなたの紅茶なら特別だもの」


 アイリスの頬が、ほんの少しだけ赤く染まった。


 この距離を、すぐに変えたいわけじゃない。  けれど、今のこの温度を、確かに感じていたい。


 今日の紅茶は、きっと今までで一番優しい味がした。  そして、このスプーンは──これからも、ふたり分の時間の象徴になる気がしていた。




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