第52話 銀のスプーンに託した想い(芽吹月十二日・早朝/姫様視点)
芽吹月十二日、朝。 私は、自室の鏡の前で何度も深呼吸を繰り返していた。
今日こそは、と何度も決めては、昨日まで渡せずにいた銀のスプーン。 この小さな贈り物を、私はようやく胸元のポケットから取り出すことができた。
「今日なら、きっと──」
声に出すと、ほんの少しだけ勇気が湧いた。
東庭への足取りは、少しだけ軽い。 けれど、胸の奥はずっと小さく震えていた。
*
先に着いていたアイリスは、いつも通りの丁寧な手つきでポットを温めていた。
「おはようございます、姫様」
「おはよう、アイリス。今日も……ありがとう」
その言葉だけで、アイリスは小さく微笑んだ。 それが、今朝の私には何よりの励ましになった。
紅茶が注がれ、湯気が立ちのぼる。 その香りは、昨日よりも少しだけ深みがあって、 アイリスが、私のために選んだ想いがそこにあることが、ひと口でわかった。
「……やっぱり、アイリスの紅茶は特別ね」
「恐縮です」
私はポケットに手を差し入れた。 銀の箱が、指先にひやりと触れる。
(今だ。今しかない)
私は小さく息を吐いて、箱をテーブルの上に置いた。
アイリスが驚いたように瞬きをして、視線を落とす。
「……姫様、これは」
「あなたのために、職人に頼んだの。 ……紅茶を淹れるあなたの姿が、とても綺麗だったから」
アイリスは黙って箱を開けた。 中には、リンドウの花をあしらった小さな銀のスプーン。
「……もったいないお言葉です」
「それでも、どうしても贈りたかったの。 ……あなたに、ふたり分の紅茶を淹れてもらうたび、私は嬉しかったの。 でもそれだけじゃなくて……その時間が、ずっと続いてほしいと、願うようになった」
沈黙。 でも、それは今までのどれよりもあたたかな沈黙だった。
「だから、このスプーンは、“私の気持ち”の代わり──なんて、きれいには言えないけれど」
私はそっと目を伏せた。
「……どうか、受け取ってくれますか」
アイリスは、しばらく何も言わずにスプーンを見つめていた。 そして、静かに──けれどしっかりと、頷いた。
「はい。大切に、使わせていただきます」
カップから立ち上る湯気が、まるで祝福のようにふたりの間を包んでいた。 そして私は初めて、渡せなかった気持ちをひとつ、手放すことができた。
「……あの、姫様」
アイリスが、少し迷うように視線を下げながら、言葉を探していた。
「はい?」
「このスプーンで淹れた紅茶が、もし少し味が変わってしまっても……」
「うん?」
「……それでも、いつも通り飲んでいただけますか」
私は思わず、笑みをこぼした。
「もちろん。どんな味だって、あなたの紅茶なら特別だもの」
アイリスの頬が、ほんの少しだけ赤く染まった。
この距離を、すぐに変えたいわけじゃない。 けれど、今のこの温度を、確かに感じていたい。
今日の紅茶は、きっと今までで一番優しい味がした。 そして、このスプーンは──これからも、ふたり分の時間の象徴になる気がしていた。




