第40話 朝の香りと、届かぬ気持ち(芽吹月九日・早朝)
芽吹月九日、朝。 私はまだ陽が昇りきる前の厨房で、湯を沸かしながら茶葉棚を見つめていた。
昨日の午後、そして夕刻。 姫様が“来られなかった”ことを思い出すたび、胸の奥にわずかな寂しさが差し込んだ。
(……勝手に期待していただけなのに)
そんな自分をたしなめながら、私は“ぬくもりの午後”をベースに、さらに優しい香りを加える。 リンドウの花に似た、やわらかで深い甘みを持つ茶葉をひとつ、ほんの少しだけ。
名前はまだない。 けれど、姫様と一緒に飲むなら、自然と名前が生まれる──そんな気がしていた。
東庭に向かうと、すでに朝の陽射しが石畳を照らしていた。 そして、そこにいたのは──
「おはよう、アイリス」
姫様だった。 先に来ていたことに少し驚きながらも、私はすぐに頭を下げた。
「おはようございます、姫様。今朝も、ありがとうございます」
「こちらこそ。……今日は、少し早く目が覚めちゃって」
姫様は微笑みながら、カップに手を伸ばす。
「今日は、昨日より少し……やさしい香りがするね」
「ええ。“ぬくもりの午後”を基に、ほんの少しだけ、甘さを加えました」
「名前は?」
「……まだ、決まっておりません」
「ふふ、じゃあ、またふたりで考えようね」
私は静かに頷き、カップを差し出した。 そして、姫様の目元がほんの少し赤く見えたのを、私は気のせいだと思い込むことにした。
「……昨日は、お疲れではありませんでしたか?」
「うん。ちょっとバタバタしてただけ。……でもね、ちゃんと、アイリスの紅茶が飲みたいって、ずっと思ってたの」
「……それは、光栄です」
けれど、姫様の言葉に込められた“温度”を、私はまだ、正しく測れていなかった。
「昨日は……夕刻、お見かけしませんでしたが」
「うん。あの時間はちょっと離れられなくて……でも、本当は行きたかったの」
「……お気遣い、ありがとうございます」
紅茶の香りがふたりの間を流れていく。 “ふたり分”という習慣は、今日も変わらずそこにある。
けれど、その中に宿る想いだけは──確かに、少しずつ変わり始めていた。
「そういえば、アイリス」
「はい?」
「私の席……ちゃんと、朝露がつかないように、敷物が増えてた気がする」
「……お気づきでしたか」
「うん。ありがとう。嬉しかった」
「僅かな配慮でございます。姫様が快適にお過ごしいただけるようにと」
姫様は少しだけ目を伏せてから、また顔を上げた。
「でも、そういうの、ちゃんと伝えてくれると嬉しいな」
「……そうですね。以後、心がけます」
ふたりはカップを手に、しばし言葉を交わさず、朝の光の中にいた。 まるで言葉よりも、温度や香りがすべてを伝えてくれるような、そんな静かな時間だった。




