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理性を蕩かす、アイ




土曜日は、基本的に学校は休みだ。例外はあれど、それが変わる日はまあかなり少ないと言ってもいいし、実際にその日は学校が無かった。



「はい、口を開けてください」



「……いや、だからそれくらいは」



「怪我人が無茶をしないように。下手に動かして治りが遅くなったらまずいんですから」



「……うっす」




不承不承と言ったように、軽く口を開ける目の前の怪我人。包帯は取ることが出来たものの、それでも完治とは程遠い。まだ補助具は必要だし、今無理をすれば治るものも治らない。


そんな状態の、兄を私は今看病している。



手に持つのは柔らかくほぐした食べ物。流動食から固形物にまでなれただけ、まだ良かった。それくらい顎の傷が厄介だった。

コミュニケーションを取ることも難しく、しばらくの彼にとっては食事は少なからずの苦痛を伴うものとなっていた。


だからこうして、口を開けた彼の口に匙を突っ込む行動は、理由があってのものだ。

断じて私欲の為ではない。




「……なあ、ありがたいが、ここまではしなくても…」



「そう言って!ちょっと目を逸らしたらまた怪我をするんでしょう!

もう懲り懲りです、そんなの!」




そう、指を指して言うと、しゅんと落ち込んでしまう兄。少し心が痛むようだったが、これくらいはしておいた方がいい。彼にとってはいい薬だ。彼の無茶が周りを傷つけるという事を、少しくらいはわかって欲しい。




「それに、利き腕もまだ動かせないでしょう。その…零されてしまっても困りますし」



止めを刺すようにそう言うと、兄さんはそのまま俯いてしまう。ずきずきと胸の痛みがひどくなるけれど、我慢だ。




「く…くく…」



「……ん?」



「ふ、ふふ…痛てて、ははは」



「!?」



俯いた肩がぷるぷると震えたと思った途端、くつくつと抑えた笑いが目の前から聞こえてくる。なんで笑っているんだろう。ついにおかしくなってしまったのだろうか。いやいつもおかしいといえばおかしいのだけど。



「いや、ごめん。

鈴はほんっと優しいし、嘘をつけないよな」



「嘘なんて…」



「俺に気ぃ遣わせないように、自分から悪者になろうとしてくれたんだろ?

そんな事しなくても大丈夫だよ」



「……」




こっちを真っ直ぐに見据えて、全く私の善性を疑おうともしない綺麗な目。

私を腹の底まで見つめるようなその目…




「…嘘なんてついてない。

少なくとも、さっきの発言は本音です。

いつフラフラと居なくなって取り返しがつかないことになるか、わかったものじゃないし」



「迷子か俺は」



「それよりもっとタチが悪いです」



「ひでえ」




ぷい、と目を逸らす。

嘘なんてついていない。少し見ていない内に、二度と逢えないほどの怪我を負ったらと思うと恐ろしい。 



ただそれを伝えるよりも、その目からは視線を外してしまった。顔に付いたガーゼの痛々しさを見ていると、過去の光景がフラッシュバックしてきてしまう。


そして何より、その目にじっと見つめられてしまう事が嬉しくて、そして怖かった。この心の底の思いにまで気付かれてしまうのでは無いかと思って。


私が、暫く聞く事ができなかった貴方の声を聞けている、ただそれだけで悦んでいる事を貴方が知ればどう思うのだろうか。



そう目を逸らした私をどう思ったか、頭の上に手が置かれる感覚。利き腕ではないその撫で込みは、いつもより少しぎこちなかった。




「…それ、クセになってるからやめるんじゃないんですか?」



「あー、本当はやめた方がと思ってるんだけどな…でも二人の時くらいいいだろ?」



「…私にだけなら、いいと思います。

まあどうせ色んな子にやってるんでしょうが」



「うっ」



「だから、良くないと兄さんも思ったんでしょう?…みだりに女の子の髪に触れるような事は

無遠慮だと」




と、頭から手が離れて行きそうな感覚。その手をそっと片手で押し留める。その暖かさを逃してしまう事は、とても勿体無く思った。




「だから、私にはいいんです。

というか、私に留めておいたら兄さんだってクセを下手に治す必要もないでしょ」



「あ、ああ…そうかもしれないけど…

まさか手を抑えられるほどとは」




指摘され、急に気恥ずかしくなる。勢いに任せて、とんでもない事をして、言ってしまったような気がする。



「今のは、その…」



「はは、変な勢いが付いちゃう事あるよな。

そんな気にするなって」




いつもの事。よくある事。

そうやって笑いづらそうに微笑みながら接する彼を見ていると、ぷちりと身体の何処かから何かが切れたような音がしたような気がした。




「…今の行動は…

勢いだけのものじゃなくて」


「兄さん、私は……!」




ぴんぽーん。


インターホンの音に、私はびくりと肩を震わせる。その音が私を一瞬に正気つかせてくれた。

幸いにも音に気を取られ、兄は私の事を見ていなかったみたいだ。




「っと、誰だろ」



「…っ…私が出てきます。

兄さんは休んでてください」




返事を待たずに立ち上がり、部屋を出る。

扉を閉じて歩く最中、過呼吸のよう息が早まっていった。動悸が早まっているのを感じた。




私は、何を言おうとしていた?


この音さえなければ。違う。この音がなければ、私はこの心の内をそのまま言ってしまっていたんじゃないのか。言わないように、永遠に留めて置こうと思っていた筈のこの想いを。


あの時の決心はそんなに簡単に崩れるものなのか。私はそんなにも、理性が壊れやすい情けのない人間なのか。


そうかもしれない。

いや、きっとそうだ。


だから、そうだ。あの人の顔を見るたび、あの人と話すたび、この想いがどんどんと膨れ上がってる訳ではない。きっとそう。

もしそうだとしたら、もう貴方とまともに話す事すらも出来なくなってしまう。それはあまりにも、辛すぎる。


だから、私がただ弱いだけ。そんな見ないふりをする。そうしないといけなかった。



そうこうしている内に、インターホンの音を確かめようと玄関の前に立つ。

扉を開けようとして、ふと、止まる。



……何か嫌な予感がした。



しかし嫌な予感だろうとなんだろうと、相手を待たせてしまっていることは確か。

がちゃりとすぐに開ける。


するとそこには…




「こんにちは、スズ。

えと…看護師さんになりにきました」




…間に合ってます。








……








『自分を好きにならせたい?

ならば、押しかけなさい。行動は力です』




お母様にそう聞くと、そう答えてくれました。父がなんだかすごい顔でこっちを見ていましたが、関係がない事です。



きっと、シュウは怪我をして困っているでしょう。ならばそれを助ければ彼の役に立つ事も出来、私も好きになってもらえる。


私を好きになったなら、彼も、その「好きな対象を悲しませないよう」に、危ない行動を控えてくれる筈。それが私の今の行動原理。


あと本当は、彼の顔をただ見たかったから。

下心ありきとはいえ、役に立てたら彼の役に立てたなら本当に嬉しいから。




インターホンを押して少し待つ間は、柄にもなく少し緊張をしてしまいました。

迷惑だったかもしれない。それでも構わない。それより貴方が大切だから。相反する心の声がどちらも声をあげていた。




「こんにちは、スズ。

エト…看護師さんになりに来ました」



応対してくれた彼女にそう言うと、彼女は何やら困ったようなすごい顔をしていました。

…どういう感情だったのでしょう?






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






「いやあ、まさかアオが来てくれるなんてな」



もごもごと口をあまり開かずに喋る姿は相変わらず痛々しく、ただ、喋れるくらいにはなったことはまたほっとできる事でもあった。



「私が第一発見者ですし、最後まで面倒を見ねばとも思いまして」



「その理屈はおかしくないですか?」



我ながら無理があると思った理由付けだったが、やはりスズに言われてしまった。

ただこの場ではそれは良い。




「それではガーゼの取り替えなど」



「あー…鈴がやってくれた」



「む。それなら身体を拭いたり」



「それもさっき…」




さっき。

咄嗟にスズの方を見る。少し気まずそうに顔を赤らめ、こちらから顔を逸らしていた。




「むー…ズルいです」



「ズルいとはなんですか。

私はあくまで看病をしていただけで…!」



バツが悪そうに言い繕う姿は、いつも私に見せる姿とは似ても似つかない程に落ち着きがない様に見えた。そしてそれを眺めるシュウの顔は意地の悪い微笑みに染まっていた。



「ともかく。

来て頂いて申し訳ないのですが、アオさんが出来ることはもうあまり無いかと…」



「……むう…食事は」



「ああ、ちょうど取ろうとしていたとこだけど…ほら、そこに鈴が作ってくれた物が」



「……む…料理も終わっていましたか…」




ならばどうしようか。本当にただ、来ただけになってしまう。しかし他にやれそうな事がないこともまた事実…


仕方がない、と、置いてあるお椀と匙を手に取って中を掬い取って差し出す。




「シュウ、あーん、です」



「あー…あい」



「えっ」





小さく口を開けてそれを食べ咀嚼もそこそこに飲み込む。食事の様子からすると、やはりかなり治ってきているようだ。

元々、医者の方曰く、腕よりは顎の方がまだ怪我が浅いと言っていた。




「…なんで私の時はあんなに渋ったのにアオさんからは素直に食べるんですか」



「いやだって折角来てくれたし、やってくれる事を受け取らないのも悪いと思って…」



「それはさっきの私の時にも思ってください!私だって結構恥ずかしかったんですから!」




と、ふと考えに耽ていると、横で何やら二人が揉めていた。しかしそれは二人ともに笑顔があり、本気のものではない事は私にもわかる。


…いやスズは少しだけ本気で怒っているようにも見えたような。




「エト…」



「ん、ああごめん。とりあえず…食べちゃおうかな。冷め始めちゃってるし」



「なら私がまた…」



「いい!いいから!

…鈴もいいから!自分で食えるって!」




利き腕では無い手で、器用にお椀を取り、それぞれで食べていく。彼をサポートするつもりが、むしろ彼を邪魔してしまっただろうか?


そう思うと、申し訳ない気持ちになる。私はただ二人の空間に割り込んでしまっただけではないのだろうか。


そうして、自省する気持ちの中に少しだけ、それでよかったじゃないかと。そう、嫉妬している自分の中の声が聞こえる。


それを振り払うように、シュウの横に行く。この感情を、想いを、教えてくれた先生の元に。



ぎゅっと、食べ進めている彼の邪魔にならないように彼に抱きつく。そしてそっと、絶対に痛みを与えてしまわないように、彼の頭の傷をそっと撫でた。



  

「痛いの痛いのとんでけ、です」


 

気休め程度にしかならないでしょうけど、それでもほんの少しだけでも彼の救いになりたい。

それは彼の為というよりも、私の自己満足そのもの。それであっても良いとすら思えるほどの、大きな想い。




「…ア、アオ…

アオ…離れてくれ…

その距離はダメだ。本当にダメだ……」



「…あ、ゴメンなさい。邪魔でしたね」



「いや、そういう訳ではないんだけどダメなんだ。その……当たってて…」



「?胸を当てると嬉しいのだと聞いた事がありまして。イヤでしたか?」



「だ、誰から聞いたそんなの!」




口を開けて止まっていたスズがハッと、ぐいと私を引き離すまでそれを続けました。

本当に嫌そうならばやめていましたが…表情から察するに、そうでは無さそうでしたので。




「……し、刺激が強すぎる…

俺の傷口から血ぃ出てないか鈴」



「…ひとまず無事です。顔は真っ赤ですが」



「だよなあ…いや…ごめん…」



「……しかし。いつでも跳ね除ける事はできたんじゃないんですか?私が引き離す前に」



「………」



「…今回はその腕の傷のせいだという事にしましょうか」



スズが話し、それを汗を流しながら聞く様子は母親に説教をされる子供みたいで。

いつもしっかりとしてる彼とはまた、別の人のようでありながら、納得もしてしまいました。



お母様。私がその心を惹かせたい人は、危なっかしくて、少し子供っぽいです。


でも、だからこそ。

私はそんな所が好きなんです。








……

 





「遅くなって来たし、そろそろアオを送ってあげないと…

ごめん、鈴。行ってもらえるかな」



「ええ…いや、しかし兄さんは…」



「…気を遣ってくれる事はすごく嬉しいよ。でも、さすがにちょっと過保護すぎるよ。

それくらい心配をかけたって事なんだけど…」



「…ともかく、大丈夫。

少し空けるくらいならなんともないって」



「…わかりました」





そうして、私はアオさんを送るべく家を出た。本当は彼が行くつもりだったのだろうが、それを言い出さなかっただけまだ相当にマシになった方だ。

…と思うのは、甘すぎるだろうか。



すっかり暗くなった道を、二人で歩く。


アオさんは、相変わらず無口で、無表情。

ただ、やはりというべきか、兄といる時は、それらはもっともっと柔らかくある。


彼女自身、気付いていないのか。まだ、その気持ちそのものでは無いみたいだけど。



「…シュウは」



「はい?」



出し抜けに、兄の名前を出されて、少し驚き混じりに声が出てしまう。名前が出たこともそうだけれど、何より彼女が話し始めた事に驚いた。



「…これは、本当は聞くべき事ではないかもしれません。しかし…」



「何か、気になる事ですか?

私が答えられる事ならば力になりますよ」



「…ただ…」



「答えたくなければ答えませんから。

だから、話してみてください」




そう促すと、彼女はある程度決心をしたようにぽつりぽつりと話し始める。




「シュウは…『彼は、自分のことが嫌いです。

醜い傷故に他者から疎まれ、それから来る自己評価の故に自分自身からも疎まれている』


『それは仕方のない事。自己評価は他己評価から作られるものでもあるのだから。

私も、そうだった』




傷。当然、あの顔の傷の事を言っていることは直ぐにわかった。


あの傷が、兄の人生を、大きく変えてしまった事はわかっている。

それが良い方向にか、悪い方向にか。彼に聞けばきっと困った様に微笑みながら、良い方に向かったのだと答えるだろう。



あの傷を。

古い、火傷の傷を。

私を守ってついたあの傷が。


どくん、どくんと鼓動が早まる。汗が出てくるのは、無論、気温のせいじゃない。




「……本当は、聞くべきことではないとわかっているんです。

根掘り葉掘り聞いてしまうような事ではと」



「でももし。教えてもらえるなら…

…私知りたい、です」




どく、どく、どく。

全身が心臓になったような。




「あの傷は、一体何のせいなんでしょうか」




どん。

頭が殴られたような、頭痛がした。


彼女の純粋な好奇心と善意は、そのまま首を刎ねるギロチンになって私に突きつけられた。





「…………それは……」




答えを待つ静寂だけが、暗闇に響いた。

動悸の音が、耳にこだましていた。







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