渡河と奇策
しばらく投稿が遅れてしまい申し訳ありません。多忙により次話以降も投稿間隔が開くと思いますが、何卒よろしくお願いします。
下野国 黒川 小山晴長
「しかしいつの間に別動隊を用意していたのですか」
突然の大音量の羽音に混乱している壬生の兵を尻目に黒川を渡河していると大膳大夫が俺に問いかける。
「ああ、あれか。あれはただのはったりよ。別動隊なんておらぬわ」
「なんと。ならあの羽音は一体……」
「あれは段蔵らの仕業だ。この時期になると越冬のために白鳥がこの黒川に集うからな。援軍がきたように見せかけるためにわざと飛び立たせるよう段蔵らに命じていた。本当は敵の注意をあらぬ方向に向けさせるつもりであったが、予想以上に鳥がいたようだ。こちらが思っていた以上に敵が混乱してくれた。そこで咄嗟に別動隊がきたと叫んだが効果は覿面だったみたいだな」
羽音で敵が混乱するとは、まるで源平時代の富士川の戦いのようだ。
敵が存在しない別動隊に気をとられて混乱している間に全軍渡河することができた。敵の先陣は瓦解しており、一部の兵は羽音がした方向に向かっている。渡河を終えた小山の軍勢はその勢いのまま壬生の兵へ襲いかかる。
敵はようやく別動隊が虚報であることに気がついたが、すでに敵の軍勢はその場にいる者と羽音がした方に向かった者で完全に分断されていた。別動隊を迎え撃つために動いた兵が慌ててこちらに戻ってくるが、兵数と勢いで勝る小山の兵は残っていた壬生の軍勢を蹴散らしていく。
壬生もなんとか態勢を整えようとしているが、渡河を許した時点で小山の勢いを封殺するのは不可能だった。そのまま瓦解するかに思われたが、そこはさすがは歴戦の将である綱房。逃走する兵を切り捨ててその場に踏みとどまるよう下知を飛ばすと壬生の兵は恐怖心から戦場から逃亡するのを止めて再び小山の兵へ向かい直す。
このまま押し切れると思っていたが、そう簡単にはいかないか。しかし小山の兵はすでに上陸できており、兵の数もこちらが勝っている。壬生も立て直しているとはいえ、ある程度後退しており、こちらも敵と川で押し込まれている状態ではない。
「敵が完全に立て直す前に戦線を押し上げよ!」
こちらも下知を飛ばすと、渡河を終えて士気が高まった小山の兵たちは敵陣へ駆けていく。戦況は乱戦模様となり俺がいる本陣にも少なくない頻度で矢が飛んでくる。それは敵も同じで一部の兵が黒川の河川敷から離れたせいで敵の本陣はやや手薄となっていた。
しかし一度羽音がした上流方面に向かっていた敵の兵たちも戻ってきており、本陣に向かわせないよう挟撃を試みていた。このままでは河川敷と川沿いの二方向から挟撃を受けることになる。だが背後は川で、もし撤退すれば渡河の途中で追撃に遭い、小山の軍勢は壊滅してしまうだろう。
「御屋形様、某が川からの敵を食い止めます。その隙に綱房の首を!」
名乗り上げたのは栃木雅楽助だった。
「よし、任せた」
俺は武芸に優れた彼に五〇の兵を預け、川沿いから向かってくる敵を食い止めるよう命じる。そして下知を飛ばし、綱房がいるであろう本陣を攻めたてる。雅楽助は僅かな手勢で川沿いから迫ってくる敵を迎え撃つ。雅楽助の奮闘に応えるために他の将も自ら刀を手に取り指揮を振るう。
ここからは時間の勝負だったが、勢いづく小山の攻勢にこれ以上の抵抗は無理と判断したのか、やがて壬生の方から法螺貝の音が鳴り響くと敵は撤退していく。
しかし撤退できたのは本陣近くの兵のみで川沿いにいた兵たちは孤立し、本隊と合流することはできなかった。元々そこまで兵の数が多くなかったこともあり、雅楽助らと本陣を攻めていた兵たちによって各個撃破されていく。だが彼らの犠牲によって時間を稼げた綱房らは戦線からまんまと離脱してしまう。
「御屋形、難しい戦いでしたが、なんとか勝ちましたな」
「喜んでいる場合ではないぞ。すぐに兵をまとめて壬生を追撃するぞ」
大膳大夫らがねぎらいの声をかけてくるが、ゆっくりしている場合ではない。俺たちは壬生と合戦をしにきたのではなく、壬生城を救援しにきたのだ。一度兵を休ませたい気持ちはあるが、ここは心を鬼にしてすぐに壬生の追撃を命じる。家臣たちも事情を理解しており、この追撃に反対する声は上がらなかった。
そこに段蔵らが再び合流してきた。段蔵らは白鳥を驚かせて飛び立たせた後は一度後退して身を潜めていたらしい。
「段蔵、よくやった。おかげで無事に渡河することができたぞ」
「これもすべて御屋形様の指示があってこそでございます」
「謙遜するな。お前はこちらの想定以上の成果をもたらしてくれた。本当なら皆の前で段蔵の功績を称えたかったが、残念ながら今は時間がない。褒賞は確約するので、もうひと働き頼んだぞ」
「ははっ」
すぐに兵を出発させると同時に俺は斥候に壬生の軍勢の行方を追わせる。進路は壬生城へ向けており、もし壬生の軍勢が壬生城の方角から離れていたら、そのときは壬生城を優先して綱房は捨て置くことにするつもりだった。
そして斥候から報告が入る。
──壬生の軍勢は、鹿沼方面に逃れていた。
「皆の者、綱房の追撃は取りやめだ。その代わりに壬生城に急行するぞ」
馬を促してひたすらに北上していく。敵は本当に鹿沼に逃げたらしく、残存兵の影すら見かけなかった。
やがて壬生の城下町の姿が見えてくる。城下には敵の姿が見えなかったが、壬生城は不気味なほど静まりかえっていた。どこからか誰かの固唾を呑む音が聞こえる。壬生城には遠くからでも激しい戦闘があったとわかるほど痛々しい痕跡がいたるところにあり、ところどころに死体がゴロゴロと転がっている。
小山の家紋は、見えない。
「……もしや、間に合わなかったのでしょうか」
平三郎がぽつりと溢す。誰もが嫌な予感がしていた。
「段蔵、壬生城の様子を見てくることはできるか?」
「かしこまりました」
段蔵はいつものように涼しい顔で壬生城に向かっていく。嫌な予感に支配される中、段蔵の普段と変わらない態度がなんとなくありがたく感じた。
そしてしばらくして、段蔵が戻ってきた。
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