手にしたそれは天啓か、或いは。
楽園はとても、とても幸せだった。
父がいて、妹がいて……たったそれだけのことで幸せで、わたくしは満たされていた。
豊かな長い黒髪を揺らして、豊かな草原を走る妹と一緒に羊を追う。可愛らしい小鳥たちと遊ぶ毎日が、愛おしい。
澄み渡る青空が、暖かく照らしてくれる太陽が、吹きわたる風が、柔らかな大地が、癒しの水が。
すべてがわたくしを優しく包んでくれる、そんなせかい。
わたくしはこの楽園に、なにも不満なんてなかった。
あの日までは。
楽園からわたくしを追い出すときの、冷えきった父の眼がいまでも忘れられない。
父の背中がこれほど小さいとは、思わなかった。
泣いてすがることすら忘却の彼方、わたくしはただ去りゆく父の背中を見送った。
わたくしを追放した父が憎い。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
だから。
壊して奪って、犯して嬲って嘲笑って。
ここに美しく正しい、新たな楽園を創るんだ。
わたくしが、新しい神になる。父に代わってせかいを統べる、その絶対的存在として君臨しよう。
わたくしだけの《箱庭》を、創るのだ。
酒池肉林。
死灰復然。
幸災楽禍。
朽木糞牆。
すべてを与えてすべてを奪う。これが、手折れたわたくしの、最高の幸せになるのだ。
わたくしだけの……わたくし、だけの。
わたくしの、ための。
そのためならなんだって、誰にだって、捧げてみせよう。
――――たとえば《愛》を失ったとしても。
だからわたくしは、この顔を名を、すべて棄てた。
美しく整った男前の顔も、綺麗な蜂蜜みたいな金髪も、青空のような瞳も。
『アマテラス』という名前さえ。
父からもらったものをすべて棄てて、わたくしは『なよ竹の』鷹乃として生きるのだ。
あれからどうにか給仕の仕事をみつけて、ねぐらも確保して、カグヤはつつましい生活を保っていた。
仕事の給金は安いし、ねぐらは狭くて汚い。食べ物は粗末で少ないし、なんでも自分でやらないといけない。
クリスタルパレスにいた頃とギュルヴィの家に比べたら、とても苦しい生活だ。
それでも忙しさから、余計なことを考える暇がないのが、カグヤにはいちばん楽だった。
休みの日には朝から日が沈むまで都民図書室を利用して、できる限りでアクロポリスや陰陽術についての知識を深めている。
――――必ず……必ず、あの女を玉座から落とすために。
この《せかい》を……守るために。ヨルムンガンドという大きな犠牲が無駄になったりしないように。
これが姫巫女としての最後の仕事だと思うくらい、必死に頭を働かせた。
だがカグヤの努力が実るときは、なかなか訪れない。
都民図書室は膨大な量の書架だが、肝心のアクロポリスについて記されているものは、ほんの一握りだ。
陰陽術についても、お國柄が祟って期待していたほどの情報量には至らない。
アクロポリスで見た手書きの式ほどに優秀で複雑なものはみな、意図的に排除されたように感じられる。たぶん、鷹乃が根回ししているのだ。
「ぬあああああああああああああもうっ!!」
妙な叫び声とともに文机に頭を打ちつけて、苛立ちを誤魔化そうとした。
だが打ちつけた箇所が痛いだけで、べつに状況はなんら変わりようがない。
――――いっそのこと……。
このままただの女として、ひっそり生きようか。それとも……。
そんな弱気で甘いな発想さえ、カグヤの脳をかすめる。
だめなのに……彼がなんのために命を落としたのか、よく考えればわかることなのに。
「ん……?なんだこれ」
視界の中央、目も当てられないほどに乱雑とした書棚の上に、見覚えのない本が置いてあった。
もしかしたら自分で図書室から借りてきたのかもしれないが、今の今まで気にとめていなかったのが不思議な位置だ。
なんとなく手にとって、黄ばんで脆くなっている頁を優しく開いた。
それは古い聖書だった。
この國は古代スカンディナヴィア時代以前から、太陰教を国教としている。
————ここは箱庭。
————我らその小さき天地を生み出し、かの地を七日にて創造す。
————全能の創造者たる我らは月詠の夢現を以て、かの地に汝らを残す。
————いざ征かん、我らが生地。
————流れ落つれば、乃ち『解放』。
聖書の序文は子供の頃から繰り返し読んで暗記するので、この國のひとなら誰でもわかる。
カグヤも両親に嫌というほど読み聞かせられて、いまでもそらで言えるほどだ。
このせかい――――ボックスガーデンは、全知全能の神様イザナギがひとつひとつ創りだした。
草の芽も風の吐息も、あらゆる生き物はすべて神様の手で造られた。
七日間かけて、このせかいはゆっくりと生まれ落ちたのだ。
月の國のひとびとは皆、神様がお造りになられた天の使い――――《天使》なのだと、そういう教えだ。
天使は神様のために尊く、美しくあらねばならない。
『天使は……姫巫女は穢れてはいけない。神様に嫌われてしまうよ』
姫巫女は神様のお告げをきき、新たな天使をお迎えするのが使命。
純潔を失った姫巫女には、神様はお話してくださらない。
《情愛》は、このボックスガーデンでは最大の禁忌。決して触れてはならない、禁断の果実。
だからこの國のひとびとは皆、恋や愛を恐れて嫌う。
神様に嫌われないように、身もこころも美しくあらねば。
『だから姫巫女であるあなたは、いつも笑っていなさい。美しいお顔で、神様のお話をよくおききなさい』
「懐かしいな……」
黄ばんでよれた頁に描かれた神様と天使の絵を手のひらで撫でて、人知れずぽつりと漏れた声。
どこか遠い……両親がいた頃の記憶がよみがえる。
あの頃はまだ、純粋に神様の存在を信じ、敬っていた。神様に一途で、とても従順だった。
身もこころも穢れのない、美しい天使だった頃。
母に笑えと言われたから、カグヤはいつも笑顔を絶やさなかった。
大好きな神様のために、いつも美しくあろう。
両親が無惨に殺されるまで、姫巫女として誰よりも神様を敬愛し、疑いもしなかった。
両親を見放した神様を、カグヤは愛せなくなった。
なぜ、と思う前に、深く昏い憎悪がカグヤを支配した。
花畑のようにさんさんと輝いていた美しいせかいは、いつも雨が降っている白黒の景色に変わる。
唯一遺された両親の腕輪を握りしめて、赤子のように涙をこぼして眠る毎日。
――――もう笑えない……笑えないよ、母上。
毎日が生きるだけで苦しい。いっそ殺せと、月の都に生まれついた不死の身体を呪った。
だけど彼に……ヨルムンガンドに出会って、カグヤは変わった。
毎日があの頃以上に彩り豊かで、生きているのが楽しい。
恋をすることは、ひとを愛することは、こんなにも楽しくてヒトらしいものなんだと知った。
どうして、ひとを愛してはいけないの?
愛はほんとうに、汚らわしいものなの?
ひとはひとでいては、いけないの?
――――いいや。
いまならわかる。
恋は楽しい。愛は嬉しい。
妾は姫巫女である前に、『カグヤ』だ。
まるで……そう、《愛》は魔法だ。
たったひとつの愛で、なにもかもが変わってしまう。
白黒の景色に一滴落とされた、鮮やかな絵の具。
狂ってしまうほどに、《愛》というものは毒薬だ。だから――――
この國の有り様は、醜く歪んでいる。
神様というものに妄執し、一様に倒錯した狂愛をうたう人形たち。
見張られた箱庭で踊り狂う、自由を奪われた羊は……誰?
ボックスガーデンなるこのせかいは、決定的になにかが壊れている。
部品がいくつか足りないというよりは、箱全体が大きくひしゃげているようだ。
もやもやとした不安と疑念に満ちたそれは、しかしこれで一息に晴れた。
この詩で……
これは美しく淑やかなお伽噺でも聖書でもなく、先人たちが代々脈々と綴った徐々伝でもない。
この聖書の序文が、ボックスガーデンのすべてだ。
カグヤは思わず、ごくりと喉を鳴らした。
閃きとは、まさにこのことか。
さっきまで焦燥していたすべての感情が、ふたたび熱く広く燃え盛る。
燃えているはずなのに、思考はいたって冷静で冴えている。
驚くほどの、全能感。
驚くほどの、使命感。
呆れるほどの、壮大感。
「すべてわかった……気がする」
ヨルムンガンドが残してくれた、ヒントは最初から『ここ』にあったんだって。
さぁ。
空高く嗤う、世界でもっとも残酷で醜悪で――――
可哀相な太陽の魔女に、陰りと救いを与えようではないか。
これが、オレたちの運命を超えた戦いの、すべてのはじまりだったなんて……このときは、想像だにしなかった。
これは、魂が幾度もめぐるとこしえのお話。
悠久なる神々なんかいない、天国もないせかいのお話。
オレたちがまだなにも知らなかった、穢れなき天使だった頃のお話だ。
寄る辺なき星ぼしは、偽りの天鵞絨に包まれている。
太陽がじりじりと大地を焦がし、草花という希望を奪い尽くす。
時間という色は、いまだ白黒。
ひとびとは《愛》という喜びを知らない、無垢で残酷な人形。
《ボックスガーデン・プロジェクト》発動まで、残り25時間。
箱庭で迷う可哀相な羊は、誰?




