せかいのどこにもいない、あなたがみてる
一刻も早く、國に帰らなければならない。
煌めく星空のしたで汗をかくほど走って、荷馬車が停まっているはずの街の入口まで戻った。
だが。
「…………っくそっ!!」
カグヤは悔しさから歯を食いしばって、思いきり毒づいた。
やはり鷹乃の方が上手のようだ。荷台を残して、二頭いたはずの茶色い馬は綺麗に消えていた。
誰かが綱を解いて逃がしたのだ。
状況証拠でなくても実行犯は御者だとわかる。
鷹乃が手配したのだから、御者も鷹乃の息がかかった人選だと、どうしていまさらになって気づくのだろうか。
いや、まさか鷹乃が自分に対してここまでするとは思わなかった、というカグヤ自身のミスである。
ともかくいまはどうやって足を調達するか、考えることが先決だろう。
幸いにして、食糧がまったくないわけではない。
置き去りにされた積荷を少し漁ると、持ってきた荷物はそのまま残されているようだ。
『発掘調査』と言われたので多少の食糧を積んでおいたのが、功を奏した。
最悪の場合、それらを少しずつ消費してここを拠点に、なにかうまい方法あるいは足そのものを調達、帰還することは可能かもしれない。
————って、たぶんそれも無理かもしれん……。
鷹乃がここまでするからには、カグヤが絶対に戻れない状況が完成していると見ていいだろう。
ここはとうに滅亡した太陽の國直轄地、神に見放されたせかいの果てとさえ揶揄される《豊かの海》だ。どんな物好きでも、よもやここまで来ることはしないだろう。
引き手のいない荷馬車の縁に座りこんで、カグヤは使いすぎて重く感じる頭を抱えた。
ひどい静寂とともに風が吹きわたり、カグヤの長い絹糸のような金の髪を揺らす。
「ヨルムンガンド……」
ぽつりと、弱々しく口にした台詞が、乾いた空気に溶けて消える。まさに絶望の空虚感。
そこから始まって、カグヤの弱ったこころはもう、果実のように押しつぶされそうになった。
————妾は……どうしたらいい?どうすればいい?いますぐそばにきて、妾を助けてくれ。
やがて幼子のように身体を小さく丸めて、すんすん鼻をすする。
不安、孤独、恐怖、絶望。
それらとともに溢れて決壊した涙が乾いた砂に落ち染みて、なにもなかったかのように消えていく。
國に居場所をなくした自分も、こうして跡形もなく消えていくのだろうか。
そんなどうしようもない思考が頭をよぎった。
同時に「泣いたってこの状況を打破できるわけではない」と、手にとるようにはっきりわかる。
だがもう、カグヤにはお手上げだ。
————いまの妾には……。
そう、あの頃のカグヤになら……『最上の巫女』と称賛されたあの頃の姫巫女カグヤにならあるいは、この圧倒的な絶望を吹き飛ばすほどの力があったのだろう。
枯渇した空に雨を、飢えた大地に花を。
すべての民に余さず手を差しのべられるほどの、この國で最上たるもっともの由縁。
————でも。
そんな自分は、もういないから。
あの日、ぜんぶ投げ出してしまったから。
カグヤは両の拳にこれでもかと力を込めた。
その肌の色さえ変わった拳で、己の弱さの根源であるかのように激しく、地面を殴りつけた。なんども、なんども、なんども。
おしろいすらしていない無垢の頬に涙が流れ、頬から顎を伝ってひどく惨めに地面を濡らした。唇を噛みしめて、血の味がした。
強く……強くなりたい。
誰にも寄りかかることがない、圧倒的な強さ。
カグヤの小さな拳が、いかにも無力に地面を叩く。
「その、強さがあれば……っ」
————彼を助けることも、できたのに。
あとの台詞は、しかし続かない。
代わりに漠然とした疑問がむくむくと湧き上がる。
————強さに意味はあるの?
非常に原始的とさえ表現できる、その小さくも漠然とした疑問。
それは立ち上がるための。
歩きだすための。
誰かを守るための。
誰かを傷つけるための。
ひとは誰でもいつでも、その力を求めている。強さを、求めている。
月の都に戻ったところで、カグヤに居場所はない。
両親はすでに亡く、友人すらいない。たったひとりの大切だと思えたひとも……もういない。
いま現在に限らずこの先独りで生きていくには、生き抜く強さが必要だ。
お金を稼いで、生活する力。
ひとりで決断する力。
あるいは他人と対立するための力。
しかしそれらは、暢気なお姫様として育てられたカグヤには備わっていないものである。
これからは————これからも生きていくために、必要なものなのだ。
「…………」
いつの間にか涙は乾いて、頬には砂がこびり付いている。
一筋の風が、カグヤの頭を優しく撫でる。
その碧い瞳は爛々と輝いて、北極星そのもののようにひとつの道が見える。
————こんなところで、立ち止まって倒れてなるものか。泣くのは足掻いてから。
妾は栄光なる月の國の姫巫女……ヨルムンガンドが愛してくれた女。
その身を誇り、このせかいで生きていく。
この身に誓って、必ずや都民を守る。守ってみせる。
すっくと立ち上がり、紺碧の空を仰いだ。満点の星ぼしが、天高くどこまでも広がっている。
北を見るとちょうどひとつ、星が流れた。————それは両親を亡くしたあの日のカグヤに、大切なことを教えてくれた星のように。
こころに炎が灯る。
あぁ……これが、闘いの合図か。
想像よりもずっと静かで、綺麗で、だけど逸る心臓。
澄んだ空気を深く吸いこんで、ゆっくりと吐きだす。
どくどくどくと、自分の強い鼓動を感じる。
ずっとずっと、考えていたことがある。
————生まれたことに意味があるのなら、妾はいったいなんのために存在しているのだろうか。————
ヨルムンガンドを救いたいと、自らの能力を手放した。
でも結局のところ、姫巫女でなくなった自分にできることは、なにもなかった。ただ守られるだけの姫巫女ではない『カグヤ』には、なにも価値がないのだ。
そう、思っていた。
————妾は……間違っていた。だって、妾は《なにもしようとしなかった》。
大事だと思うものを差し出して、それだけで『なにかした気になっていた』。
自分こそ最大の被害者、悲劇のヒロインだとすら感じていたかもしれない。
思うだけで、一歩も進んでいない。
歩きだすことから、なにかが始まるのに。
カチリと音が聴こえたとき、それがすべての始まりの合図。
たとえあなたがそばにいなくても、ここから進まないと波にさらわれて消えてしまうから。
歩きだすことで、始まりの鐘を鳴らすのだ。
カグヤは歩きだした。たったひとりの闘いを始めるために、踏みだした。
それでも『孤独』は感じない。
いつだって、どこにいたって、せかいのどこにもいないあなたの笑顔を浮かべているから。
心理描写がいちばん好きです。
書いているうちに自分の気持ちがまとまったりして、とてもスッキリします。




