時が止まった都
最後のひと押しで、もはやカグヤは断れなくなった。
わずか半刻のうちに少ない荷物をまとめて、鷹乃が手配した最近流行りの荷馬車に荷物とともに押し込まれた。
慣れない不快な揺れのなかで八日ほどかけて巨大なピレネー山脈を越え、点々とした小さな砂漠をいくつか通り抜け、出発から十二日で《豊かの海》まで入る。その《豊かの海》の中心に、古都アクロポリスの遺跡はいまなお静かにたたずんでいる。
アクロポリスは一応は月の國の一部だが、月の國直轄の《神酒の海》から離れてピレネー山脈を挟んだ太陽の國直轄の《豊かの海》にある。
そういった背景から『スカンディナヴィアの太陽の國』と称されるほどに、陰陽術の聖地だった歴史がある。
ゆえに遺跡をよくよく観察すると、現在の陰陽術に通じる式が彫られた柱などが点在している。
しかし現代の解釈や知識では解き明かすのは難しそうだ。
陰陽術に通じる神術を極めたカグヤにも難解であるのだから、たとえば月の國に持ち帰っても誰も理解できる者はいないだろう。
————いや、もしかしたら。
あるいは彼女になら……『なよ竹の』鷹乃になら、理解の範疇かもしれない。
公的には神術をまったく学んでいないただの女王陛下である彼女だが、カグヤはそれが偽りだと知っている。
彼女は神術を奥深く知り、もしくは前身の陰陽術すら深淵の境地に至っているだろう。カグヤから能力を奪ったそれは、そういうものだ。
アクロポリスの中心地らしい白亜の神殿を覗いて、神にすら通じる公式をいたずらに読み解こうとしながら、カグヤはこのときは穏やかな気持ちで考えていた。
————鷹乃の目的は……いったいなんなのだろう。
ただでカグヤをここまで寄越す理由はない。
鷹乃は『発掘調査』とか抜かしていたが、そんなのは表向きの名目に過ぎない。
なにかが……鷹乃はここにあるものでなにかを起こそうとしている。
さざ波が穏やかに押し寄せるように、それはカグヤのなかで揺らめきはじめた。
ひとつの芸術作品のように公式が彫られた白亜の石板はところどころ欠けていて、カグヤは途中で解くのを諦めた。
ここはひとが入って手入れされているのだろうか、数え切れないほどの彼方に滅んだ街とは思えぬほど、荒れていない。
道の舗装もなんとか形になっているし、一部にどうしようもないほど大きくなった木が鎮座しているものの、ある程度の草木は刈られた跡が見受けられる。
そこにあった数々のなにかを持ち出したようにも見える。それも、ごく最近だろう。
わざわざ、この曰くつきの街に踏みこみ、荒らした誰かがいる。
そしてこの場所を残そうとする誰かがいる。なんのために?
それが同じ人物あるいは同じ所属の連中なのかはわからないが、ここが現代の手が入れられているのは確かである。
空想小説によく描かれているような『時が止まった世界』とは違う、きわめて異質で不自然な空気。小さかった波は津波の前兆として、一気に引いていく。
気持ち悪いくらい、きわめて静かな空間だ。
————ここは、なにかがおかしい。
カグヤは気圧されそうななかでどうにか息を飲みこみ、さらに奥へ踏みこんで、神殿の最奥に見逃しそうなほどに小さな扉を見つけた。
立て付けが悪くなっている扉を数分かけて押し開けると、窓もない小さな空間が現れた。
ここは誰かの書斎……もしくは書庫、あるいは研究室と呼べば適当か。壁に床に白墨で書き殴られた式は、カグヤにも一瞬では理解できない理論が組み立てられているようだ。
備え付けの本棚はあるのに書物は一切除かれていて、やはり誰かが手を加えたとわかる空気を醸しだしている。
立派な文机も多少の埃が被っているが、やはり不自然に物がなく綺麗だ。
それでもなにかないかと考えて部屋を荒らしたら、カグヤの運がいいのか現在管理している奴が馬鹿なのか、古い日記帳が一冊だけ、文机の裏に隠されていた。
その古い割には劣化が少ない日記帳を開いてみると、中には古代語を混じえたなにかが記されている。
ぱらぱら捲って最後の頁まで行き着いたが、どうやら書き手はこの帳面を使い切ることは叶わなかったらしい。
改めて頁を捲り、三分の二を過ぎた頃で最後に書かれた頁を見つけた。
ただ一言、走り書きで
『I want to get away from this “world”.(私はこの“せかい”からサヨナラしたい)』
と。
どういう意味で書かれたのかまったく理解できず、いたずらに頁を繰っていくうち、カグヤのなかでひとつの仮説がすばやく組みあがって浮かんできた。
もしや……いや、やはり、と確信を徐々に強くしつつ、カグヤは白墨の式をこれでもかというほどの速さで読み解いていく。
難しい部分は飛ばして、虫食い状態にしてから思いつく解を当てはめる。
こころがざわつき、逸る。大きな波が、そう津波が押し寄せる。
部屋の隅々まで————それこそ文机の抽斗の裏側まで————すべてを読み解いた頃には、とうに日付が変わっていた。
だが睡眠不足による不快感よりも、脊髄から脳に走るようなこの強い衝撃の方が強い。
カグヤが導き出した解が正解だとしたら、いやそもそも、日記帳の持ち主の妄想でないというのなら、実に非道徳的であり、許されざる事態だ。
「許されん……許されんぞ、こんなこと……っ!!」
誰とも知らず怒りを口が吐き出して、カグヤはさんざ荒らした小さな書斎を飛び出した。
この先の展開はキャラたちに尋ねて、自分なりに噛み砕いてまとめています。
鷹乃さんがなかなか心を開いてくれません。




