キンモクセイのしたで
お久しぶりです。……そんなでもない?
たぶん年内で最後の更新です。
それではどうぞ!!
亡霊×少年少女 第二十四話『キンモクセイのしたで』
オレの嫌いなもの。
宙にたゆたう煙草の煙、香水と化粧と阿片の匂い、色とりどりの綺麗な着物、それらをまとう妖しくもなまめかしい女と男たち。
たったひとりの母と國を一夜であっさり亡くしたオレは、密かに人買いに売り飛ばされて、各地を転々として今はここ————栄華なる月の都の裏社会、色町にいた。
お綺麗な都城クリスタルパレスと情緒あふれる城下町からほど近い場所にありながら、ここはまるで別世界だ。ギラギラしていて、下心ばかりで、住民はみんな下品。國に厳しく取り締まられて鬱屈とした欲を溜め込んだ都民たちの、それを吐き出す場所。
ここでは男も女も皆、どんな客が相手でも身体を売る。お國も定期的に摘発しているが、そんなもん一般都民に向けた体裁のためであって、本気でここを壊すヤツはいない。
執政部の気が一時済んだら、元通りの色町だ。お國の重鎮も密かに宴会やら密談やらと重宝しているここでは、法律なんてあってないようなものなのだ。
オレは毎日嫌というほど先輩芸妓と客の情事を見せられて、その後始末をさせられていた。芸妓見習いの『禿』というやつだ。
いつかは女あるいは男を相手に自分を売る……そんなうんざりする未来しか見えていなかった。ここから逃げ出そうものなら、意地悪な女将にとっ捕まってケツが腫れるまで引っぱたかれる。ついでにメシが三日くらい抜かれる。地獄だ。
逃げ出さなくても、その日の女将のご機嫌がナナメなら頬を平手打ち。地獄だ。
いつかはここを出て、大手を振って自由に暮らしてやるぞなんて息巻いていた時期もあったけど、何度脱走してもすぐ見つかって、結局飢餓に苦しむから、十回目でやめた。
それからウン十年経って、オレは勝手に描いていた予想通りの汚れた大人になった。金持ちの暇な女を数え切れないほど抱いて、時には物好きな男も抱いた。幸いに顔が良くて手も上手いものだったから、すぐに上へのし上がれた。この國では珍しい金髪碧眼も、いい目印になった。
誰が垂れ流したのか、すでに亡国となった太陽の都の皇子としても知られていて、通り名はそのまま『皇子様』。この色町では知らぬ者はいなくなった。どれだけ末端のヤツでも、オレの名前は知っている。名前を出せば、町のなにもかもが自由になる。オレはいつの間にか、この町で骨を埋めるつもりでいた。
オレは調子に乗っていて、だからあの女に付け込まれたんだろうな。
いつも意地悪で不機嫌な女将が『今度の客は上客だ』なんて機嫌よく言って通したのが、あの女……鷹乃だった。たぶん女将は鷹乃に充分すぎる口止め料を貰ったのだろう。あの女将が鼻歌なんて歌ってやがった。
お忍びで来ていた鷹乃はオレをじろじろ見物してから、ひとしきり楽しんでからぽつりと言った。
「つまらない顔でするのね、あなた」
布団に寝転がって、減り張りのある豊満な裸を隠そうともせずにやにや笑いながらそんなことを言われたのは、ここに来て初めてのことだった。
大抵の女は、オレの顔と身体に満足して帰っていく。オレが相手をどう思っていようと、相手は気にしない。溜まったモンを吐き出して、自分だけ気持ちよく帰る。それだけ。
だからだろうか。この一言だけで虚をつかれたような気がして、オレはほとんど反射的に本音を漏らした。
「ここにいておもしろいモンなんて、ついぞ見たことねぇな。女も男もすぐ脱ぐし」
その返事に気をよくしたのか、鷹乃はころころ上品に笑って、マッチで古ぼけた煙管に手際よく火をつけながら言った。
「あなた、元皇子様でしょう?ずいぶん持て余しているようね」
すっかり紅がはげ落ちた形のいい唇で、ゆったりと煙を吐き出す。
オレはその煙の行く先をなんとなく見つめながら、くっくと笑って答えた。
「そうだな。こんなクソつまんねぇ掃き溜め、暇で暇でしょうがねぇ」
オレも愛用の煙管を取り出して、煙草の代わりに上等な阿片を詰めて火をつけた。薫る煙の行方を眺めていると、その話は唐突に始まった。
「ねぇあなた……わたくしの元に来ない?今より楽しい思い、させてあげるわよ」
犬畜生を一匹引き取るかのように、鷹乃は提案してきた。オレは阿片の風味を口の中で転がして、唇を小さくすぼめて煙を吐き出した。相変わらずクソ不味いとしか思わず、苦みで顔をわずかに歪める。
「……それはオレを買うということか?オレは高いぜ?」
自慢じゃないが、オレはこの店どころか色町全体でも『最上級品』だ。今まで買おうとした暇な金持ち連中が、強欲な女将に負けて諦めてきた。交渉があればあるほど、値段がつり上がっているということ。
しかし鷹乃は臆することなく、自らの長く美しい銀の髪を指で梳いた。それだけで石鹸の甘い香りがふわっと漂い、思わずくらくらする。そして極め付きは、妖艶に潤んだ流し目。こんなに上品な、種類の違う色気がある女は、この町でオレは見たことがない。
「安心して。わたくし、お金はたくさんあるのよ。それに人の心を操ることが少し得意なの」
「それは値下げ交渉でもするってことか……?」
喉をつまらせながらも平然ぶって言うと、鷹乃はくすりと笑った。
「まさか。あなたの今後の生活をよりよくするためよ」
そう言って、鷹乃は手早く着物を整えてから本当に女将に交渉しに行った。
確かに鷹乃は人心を操るのが上手かったらしく、あの狡さと強欲さに定評のある意地悪女将が渋ることなくオレはあっさり売られた。たぶん、オレを買ったという情報さえ、金の力で徹底的に口止めしたのだろう。女将の鼻歌が弾んでやがる。
とにもかくにもこうしてオレはここに引き取られてから、初めて町の外に出ることになった。久しぶりに見た春の暖かい陽射しが眩しくて、思わず目を細めた。
「よろしくね、わたくしのヨルムンガンド」
ずっと呼ばれることがなかった、母がくれたオレの名前。久しぶりに呼ばれて、なんだかくすぐったさと申し訳なさが綯い交ぜの気持ちになった。
差し出された手のひらに、少なくともあの日のオレは温かみを感じた。
これまで多くの人を蹴落として、汚い野良犬のように泥水を啜って生きてきた。そんな日々は、これでもう終わりだと思った。大げさに言うと、この時の鷹乃はオレにとって神にも等しい存在に見えた。
今は思う。————これがすべての間違いだったんだって。都の飴玉のように色とりどりで、とろけるような甘い甘い罠。
この手を取ったことが、オレの中で最大のあやまちだったんだって。
人はみな、生まれながらの悪でしかないのだって。
今ならよくわかるのに。
————……夢か。
気がついたら、形だけの薄い布団にくるまっていた。
軽い栄養失調と運動不足が原因の低血圧でくらくらする頭を無視して起き上がり、無骨な鉄格子が嵌められた小さな天窓を見る。外は意識を失う前と違って暗い。今日で何日ここにいるのか、時間の感覚すら狂ってきたところだ。
石造りの壁と床、木の蓋がされた臭く汚れた便器以外には、この布切れとしか言えない布団一式があるだけの狭い牢屋。暗くすえた臭いがする牢の中で、ヨルムンガンドは昔の夢を見ていた。鷹乃と出会ったあの日のこと。
ここしばらく夢なんて見なかったのに、よりによってあの頃の話とは……と元々沈んでいた気持ちがさらに沈んだ。
どうせなら夢の中では、少しでもいい思いをしたかった。あの懐かしくも苦不味い阿片のような現実から離れられるなら、なんでもいい。
————カグヤさま……。
ふと、思考が逸れた。
今、彼女はどうしているのか。あのギュルヴィの妻として屋敷に連れられて、いったいどんな目に遭わされているのか。想像するだけで胸がひどく痛む。自分のせいだとここで責め立てたって、なにもならないとわかっている。それでもこれは自分の責任だと、多分に感じざるを得ない。
頭を抱えていたらこつこつと、硬い足音が石の壁に反響した。それはやがてヨルムンガンドの牢の前で止まり、鉄格子の隅にある小さい窓から飾り気のないお盆がやや乱暴に差し入れられた。
「食事だ」
看守の冷たい声に振り向いてお盆を見ると、お盆と同じ意匠の器に具が少ない冷えた汁物と茶碗に小盛一杯の黄ばんだ白米、二切れの半分萎れたような漬物。たったそれだけの、質素を大きく通り越した食事。かびていないことが奇跡とすら思えるような、みすぼらしい見た目だ。ここに入ってから全く変わらない内容に、多少うんざりする。もっとまともな税金の使い方をしろと、声高に抗議したくなる。
「…………」
こんなに落ち込んでいても、ご飯がいくら美味しくなさそうでも、それでも胃が空腹をうったえる。涎を飲んだ。ヨルムンガンドは無言で折れそうな頼りない箸と茶碗を手に取り、白い飯を掬う。
冷えて硬くなった不味い米を苦々しく噛み締めてから、冷たい汁を音を立てて啜る。
「…………どら焼き、食べたいなぁ」
そんなやや場違いな一言が、自然と口から漏れ出た。
きつね色に焼かれた丸い生地が温かくてふっくらしていて、挟まった甘いあんこが優しく匂う。カグヤも大好きな、一般庶民のおやつ。
ここでは一度も甘味は出されていないので、大の甘党であるヨルムンガンドにはつらいところ。せめて羊羹のひと切れくらいは出して欲しいものだ。
————なんて、ね……。
目の前にあるしおしおの不味そうな漬物を、明らかに安物の白飯と一緒にひと息で食らう。
しばらく咀嚼してから、ゆっくりと嚥下した。漏れる声は、味の感想ではない。
「…………カグヤさま」
会いたい。会って声を聴きたい。優しく耳朶を打つ、職人が丁寧に作りこんだ琴を爪弾いたような美しい声。
名前を呼んで、今こそ尋ねたい。————僕のことが、好きなんですか?
もう一度ちゃんと言いたい。————カグヤさまを、愛しています。
その可愛らしい笑顔を見つめて————抱き締めたい。柔らかい色艶のいいさくらんぼみたいな唇に、息が切れるまで激しく貪るように口付けをしたい。“初めて”が一気にかき消えてしまうくらいの、熱い口付け。
國とか立場とか、自分たちを取り巻く全部を振り切って、奪いたい。
————誰でもないオレが、カグヤをめちゃくちゃにするんだ。オレ以外に、なにも考えられなくなるくらい。
自分の箸が茶碗を叩くわずかな音で、ヨルムンガンドは夢のような妄想の渦から目覚めた。
「……って、オレは相当キてるみたいだな」
ため息混じりに情けなく呟いて、箸と茶碗を投げ出して頭を抱える。
こんなにも熱く激しく恋焦がれたのは、生まれて初めてのことだから。まるで自制が効かないようだ。おあずけを喰らった犬よりも、浅ましいこの情動。
————どうにかしてくれ。
たまらなくなって、押し寄せる感情から逃げるように両膝を両腕で強く抱えてうつむいた。
それでも一向に逃げない熱、獣のような荒々しい恋心。
「………………あいたい」
漏れる自分の声が、どこか遠くに響く。
母が死んだあの日から、文句はたれるが泣きはしなかった。意地悪女将に尻を叩かれようと、同じ禿たちに苛められようと、涙は一粒もこぼれなかった。
なのに今、こんなにも目頭が熱い。
「っカグヤ……」
堰ききったようにこぼれ出る、恋しい彼女の名前。呼び捨てにしたのは、心のうちで彼女を求める野性から。
神をひどく憎んでいるはずなのに、このときばかりは切に祈ってしまう。
————もう一度だけ……会わせてくれ。
涙があふれて止まらない。あふれてあふれて、流れ落つる。それはいつか見た流れ星のように、ただ祈りを重ねる。
この窓から見える空はひどく狭い。それでもカグヤは半分意地になって、窓際に椅子を置いて腰掛ける。広い空を追い求める、鳥籠の中にいる金糸雀のように。
————もう一度彼に会えるなら、妾はなんでも差し出そう。手足だろうが目玉だろうが心臓だろうが、命だろうがくれてやる。だから誰か……。
「……ここから、助けてくれ……っ!」
カグヤのか細い叫びは、しかし誰にも届かない。
ギュルヴィ邸の屋敷にしつらえられた、自分の部屋から一歩も出られないこの状況。もうかれこれ一週間は続いていて、カグヤの我慢も限界を迎えていた。
「のう……少し、町に出たいのだが……」
と、両開きの扉の外に控えている側付きの侍女におさえ気味に訴えるが、侍女はきっぱりと答えた。
「それでは篭を出しましょう」
あくまで付いてきて見張る体だ。それでは自由にヨルムンガンドを探しに行けない。
「……っ!」
カグヤは悔しさで密かに唇を噛んだ。侍女は気づいているが、知らないふりをしている。
神様も誰も助けてはくれない。だったら自分でこの場を切り抜けなくちゃ。
自分に自信が持てなかった。でも彼はこんな自分を好きだと、純粋にひたむきに愛を伝えてくれた。その想いに少しでも報いたい。少なくとも彼が好きになってくれた自分を卑下することだけは、もうやめようって決めた。
これは大切な『初恋』だから、想いはひとつの小さい欠片でも拾いたい。
ほかの誰のためでもない、自分のために。
————妾は……戦うぞ。
自分の燃えるような闘志を鼓舞するように、小さく拳を握りしめる。と。
「そんな怖い顔をしなさるな、我が妻よ」
卑しい男の声に、カグヤは毅然と立ち向かう。
「貴様か……ギュルヴィ」
厳しい声と眼差しを向けると、この屋敷の主ギュルヴィはいつもと同じカチコチの軍服姿でわざとらしく肩をすくめた。
「おいおい。愛しい夫には『あなた』だろ、カグヤ元(、)姫殿下」
ギュルヴィの嫌らしくて下品な視線と、明らかに人を見下した態度、ねっとりと粘着質な声は、もう嫌というほど味わった。毎日思うが、反吐が出る。出来る限りで最大の侮蔑の視線と言葉を吐き捨ててやった。
「妾に貴様のような、低俗で最低な亭主を持った覚えはない」
それでもこの男はどこ吹く風。ひん曲がった口と根性がご立派で、ぴんと伸びた背筋を伸ばして自信たっぷりに軍帽を弄りながら部屋を横切る。
「つれないなぁ。確かにまだ一度も寝ていないけれど、法の下では私たちは夫婦だぞ?それとも……」
こつこつと、丁寧に磨かれた黒い革靴の足音を響かせる。
白い手袋に包まれた手で、カグヤの細いおとがいを強引に持ち上げて目線を合わせた。
「今すぐ抱き合えば、私を夫と認めるのかな?カグヤ様」
下卑た暗く澱んだ沼のような瞳は、この男の心そのものだ。ここで落ちてはいけないと、カグヤはギュルヴィの手を思いきり払い除けて必死に睨みつけ抵抗する。
「……っ!妾に触れるな愚物!なにがあっても貴様など、妾の伴侶とは認めん!」
しかしギュルヴィは、余裕のあるわざとらしいため息を吐き出した。くるりと背を向けて数歩、窓際に移動する。その視線の向こうには、煌めく月光虫に照らされた優美なクリスタルパレスがそびえ立つ。
「ほぉ……余程あの男がどうなっても構わないのだと、君の言葉で私はそう判断したよ。ヨルムンガンド君も可哀相に」
「貴様が彼の名を口にするな!ヨルムンガンドになにかしたら、妾は刺し違えても貴様を殺す!」
カグヤの見事な気迫が乗った啖呵にも、ギュルヴィは一向に動じない。それどころか、この状況をとても愉快そうに口の端を歪めている。こつこつと、ギュルヴィは窓際から滑らかに移動する。
「おやおや、見事な殺意だ……いい武官になれそうだね、我が妻。しかし相手を間違えるな」
歌うような弾んだギュルヴィの声。
カグヤの頬を乱暴に引っ掴んで、耳元に向かってぬるついたした声で囁いた。
「あの男の不貞裁判には、私の息がかかった裁判員を選ぶことになっている。つまり君の気持ち次第で、彼の量刑が決まるのだよ……わかるかい、我が妻」
「…………!!」
つまり今、カグヤが果敢に抵抗することは、ヨルムンガンドを殺しかねないということだ。
まばたきが早くなり、自然と息を呑んだ。喉が乾いて貼り付く。嫌な汗が背中を伝う。心臓の鼓動が強くなる、自分にもわかる。今にも意識が遠のいてしまいそうだ。
カグヤの顔色が変化したことに目敏く気づいて、ギュルヴィはわざと指を一本一本焦らすように離した。
「理解があるようでなによりだ。私も元同僚の命を無下にしたくはない」
にたにたと笑うギュルヴィは、どうやら部屋から出ていくようだ。高らかに靴音を響かせ、両開きの扉に向かう。
「私たちの結婚式は来週末の予定だから、君はこれから着物の採寸をして来るといい。あぁ……獄中の彼にも、招待状をお届けした方がよかったかな?君の一生に一度の美しい晴れ姿くらいは、おこぼれに預かる権利があるだろう。もっとも、あそこから出られれば、ね……くく」
最後に首だけ回して横目でカグヤが項垂れる様子を見ると、ギュルヴィは満足そうに去っていった。
カグヤは崩れ落ちそうになる身体を、なんとか支えようと手をついた。
吹けば遠のいてしまいそうな気をしっかり持たなければと、この一週間で何度も自分を鼓舞してきた。少し我慢していればやがて誰かの助けが来て、この永遠に思える暗闇から解放されるのだと、どこかでたかを括っていたことも否定しない。
だがギュルヴィがちょこちょこと持ってくる現実が、カグヤの心をどんどん遠慮なく削っていって、もう折れてしまいそうだ。
たとえ折れてしまっても歩こうと、強く決めていた。這いずってでも進もうと、自分と約束していた。
でもこの手が届く傍らには、あの笑顔があって欲しい。一緒にゆっくり歩きたい。手を繋いで、笑って、たまに立ち止まって広い空を見たい。
彼がいないせかいなんて、なにも意味がないの。
今にも波にさらわれて消えてしまいそうな恋だから、この小さな手で少しでも懸命に掬わないといけないの。でも……だから。
「篭の用意ができました。参りましょう、カグヤ様」
侍女の呼び掛けに無言で応じるように、カグヤは立ち上がって歩き出した。
自分が大人しくしている限りは、ヨルムンガンドの命は皮肉にも守られるということ。
そういうことならば、喜んで我が身を差し出そう。たとえ二度とヨルムンガンドの顔を見ることができなくなってしまっても、彼には生きていてもらいたい。
そばにいることだけが、愛じゃない。
————そしてこれが……妾の愛のかたちだ。
そのときだった。立派な樫の扉越しに、廊下から侍女のひどく狼狽える声が響いた。
「こ、困ります!事前に先触れして頂かないと……!」
「あら。妹も同然の子に会うのに、どうしてそんな面倒なことしないといけないのかしら?貴女、わたくしをこの國の女王と知ってのこと?」
相手の横暴な女の声には、カグヤも大いに聴き覚えがある。複数の足音は確実に、カグヤが今いる部屋に近づいている。
「そ、そういう意味では……っ!」
「ふふ、冗談ですよ。無礼と承知での訪問です。緊急事態だから、今回だけは許してちょうだい」
困り果てる侍女に対しての、彼女の悪戯っぽい顔がカグヤの脳裏に易易と浮かぶ。
カグヤの目の前で、重い樫の扉が堂々と開け放たれた。扉の向こう側には傲慢ともとれる声の主である銀髪の美女が、相変わらず優美な笑顔を浮かべて立っていた。
「一週間ぶりね。元気にしていた?カグヤちゃん」
「……鷹乃」
「いやだ、やつれているじゃないの。ちゃんとご飯食べられているの?」
鷹乃は一切無駄のない動きでやや青ざめているカグヤに寄って、カグヤの頬に白く冷たい手を添える。冷たいはずなのに、その声音と洗練された仕草のせいで温かさすら感じられるから不思議だ。
「なぜ……お主がここに?」
家主のギュルヴィは、確かにクリスタルパレスで武官として働いており、女王の鷹乃は広い意味で彼の主だとも言えよう。だが名家の貴族であっても、彼自身は女王直属というわけではなく、ギュルヴィと鷹乃に『遊ぶ』などという気軽な理由はできないと思われる。よって鷹乃がこの屋敷を訪れる理由は、かなり限定される。
鷹乃は妖しくも艶めいた微笑みをかけ、お得意の甘い囁きをカグヤの耳に寄せた。
「わたくしが助けてあげようと思って。カグヤちゃんと……ヨルムンガンドのこと」
しかしカグヤも馬鹿ではない。どちらが先に拐かしたのか定かではないが、彼女がヨルムンガンドとなにかの関係を持っていたことは確かで、それはカグヤにとっては最大で最悪の裏切りとも言えよう。そして。
目の前には、鷹乃の悪意がはっきりと見て取れる。
「……妾はしょせん、ヨルムンガンドのついでだろう?」
カグヤの冷めた問いに、鷹乃はただ優しい微笑みを見せた。
「……魔法を、使おうと思っているの。この國と、そして太陽の都に古くから伝わる、幻の『陰陽術』よ」
「きいたことくらいはあるでしょう?」と鷹乃は目配せをする。
《陰陽術》。
それは古代スカンディナヴィア時代より、太陽の都と月の都にのみ脈々と受け継がれた最高の魔法であり最大の科学技術である。
ある者は金を動かし、ある者は時を操る。ひとの数だけ無限に存在する種類。陰陽術は人々の生活に根付いて、『生きて』いた。
陽は『太陽』と『男性』を、陰は『月』と『女性』を表した隠語で、太陽の都民と月の都民にしか扱えないとされている。つまり生まれつき能力のない《籠人》には絶対に使えない、神聖なる技術なのだ。
ところが栄光なる古代スカンディナヴィア時代の終わりに起きた大事件によって、その輝かしい歴史は表では幕を閉じ、裏のものとなった。
月の都から二百里ほど離れた【時の都市】アクロポリスが、陰陽術によって一夜で滅んだのだ。
元々アクロポリスはその複雑な成り立ちから、宗教観も月の都の中では異質で閉鎖的である。生き残った民はほとんどいないので、その詳細は誰も知らない。だがこの事件によって、月の都では陰陽術は絶対の《禁忌》とされた。今では月の都民で表立って使える者はいない。しかし。
「よもやお主……その禁術を使って助けようというのではなかろうな?」
カグヤは厳しく追及する。
表立って使えないというだけで、裏世界に一歩でも踏み入れれば術者は現代でも確かに存在する。しかしこの現代では明らかな違法行為だ。仮にも月の女王がその術者だと言うのであれば、ここで見逃すわけにはいかない。
ほんのわずかだが、「違う、術者ではない」と鷹乃に言って欲しいと、カグヤは祈っていた。なにがあっても、鷹乃はカグヤのことを想っていると、そう言って欲しかった。端的に言えば、まだ鷹乃のことを信じたかったのだ。両親もきょうだいもいないカグヤに優しくしてくれた、いつもの鷹乃でいて欲しかった。
だがその小さな想いは、いとも簡単に裏切られた。
鷹乃はどこか含みのある笑みを浮かべて言う。
「公にはできないけれど、わたくしは陰陽術を学んでいた時期があるの。可能であれば、なんでも使うつもりよ。大切なひとのためなら、ね。ただ……」
わずかに澱ませた言葉。
しかしそのわずかな逡巡さえも罠という真実は、このときのカグヤには見抜けなかった。
鷹乃は目線をわずかに上げて、しかつめらしく腕を組んだ。
「カグヤちゃん、貴女のお手伝いがどうしても必要なのです」
カグヤは渋い顔で弱々しく答える。
「妾が動けば、あの男……ギュルヴィが黙っていない。だから……」
四六時中ギュルヴィの息がかかった侍女が見張っているこの環境で、カグヤが下手に動けばヨルムンガンドは即時処刑されてもおかしくない。ここはギュルヴィの顔色をうかがって、大人しくするべきだ。
だが鷹乃は、ヨルムンガンドの安全を揺るがす発言をさらりとのたまう。
「ギュルヴィはどちらにしろ、彼を処分させる気よ。貴女がしおらしくしていても、関係ないわ」
「……っ!!」
カグヤは喉を詰まらせる。
そう、カグヤの中にもたしかにその危惧はあったのだ。
ギュルヴィは狡い男だ。他人を蹴落として自分より立場が上の人にどうやってゴマをするか考える頭があって、決して約束を守るような温かい人物ではない。ましてや彼は、ヨルムンガンドのことを立場を争う天敵として見ている。わずかにもその温情をかける謂われはない。
————ヨルムンガンドを、確実に助けるためには……。
肌が白くなるほど握りしめる手のひらには、じわりと汗が滲む。
人生で初めてかもしれない、とても大事な決断を下した。すべては愛するひとのために。
「……わかった、お主の言う通りにしよう。妾がどうなっても構わん、だがヨルムンガンドは助けてくれ」
カグヤの答えに、鷹乃は声を弾ませた。しかし。
「いい子ね、とてもいい子だわ……それじゃあ」
鷹乃はカグヤのその固い決意を、奈落へ落とすような条件を突きつけた。
「貴女のそのとても貴重な姫巫女の能力、わたくしにくださらない?」
「……っそれは……!」
カグヤの決意が、目に見えて大きく揺らぐ。
ヨルムンガンドを救いたい。もちろん心からそう思う。彼のためならなんでもする、その言葉は誓って嘘ではない。だが。
「あら、できない?」
「…………こ、これだけは……っ」
生まれてからずっと大事にしてきた、姫巫女の力を手放す。そんなこと、到底考えられないことだ。
確かにこの能力があることで疎まれたこともある。だから消えてしまえ、と憎んでいた日もあった。だが逆にこの存在に救われた時期もあって、大人になった今は「姫巫女である自分が好き」だとさえ思える。
「でも逆に考えてみて。たったこれだけの犠牲で彼が救われるなんて……安いと思わない?」
悪魔なのか天使なのか。鷹乃の囁きが甘ったるく広がる。
鷹乃はカグヤの気持ちをわかっている。わかった上で、試しているのだ。
この能力がある自分のことが好きでいられる理由のひとつに、ヨルムンガンドの存在がある。ヨルムンガンドと出会えたのは、自分が國で唯一の姫巫女として生かされたから。
姫巫女でなかったら、きっとヨルムンガンドと出会うことはなかった。自分が姫巫女ではなかったら……。
————ヨルムンガンドは、妾のことを好きになってくれただろうか……?
ずっと自分に自信がなかった。ヨルムンガンドのおかげで、ほんの少しだけ好きになれた。
今、ヨルムンガンドと引き換えにこの能力を守ったら。
絶対に後悔する。自分のことが世界で一番嫌いになる。二度と自分のことを、見つめることができなくなる。
握られた拳を、もう一度握り直す。
「…………わかった、なんでもすると言ったのは妾だ。これしきでヨルムンガンドが助かるなら」
カグヤの瞳にあった迷いは消えていた。ただ真っ直ぐ、離れているヨルムンガンドを見ている。近くて遠い彼を、ただひたすら純粋に想っている。
これは一方的な【恋】ではなく、想い合う《愛》であるという証をずっと探している。
ヨルムンガンドが好きになってくれた『カグヤ』でいるために、生涯で一番大事なものを棄てると決めた。
「いい子ね……本当に」
鷹乃が妖しく微笑い、改めて場所と時間を指定して部屋をあとにした。
鷹乃はギュルヴィの屋敷から用意された篭に乗って、窓からひょいと顔を出した。
先々代の趣味で太陽の都調に造られた白い大きな屋敷の二階窓際から、こちらを覗いているカグヤに笑顔で手を振って、それから手振りで指示を送って篭を出させた。
ゆったりした振動を感じながら、鷹乃にしては珍しく、くっくと笑った。
「本当に馬鹿な娘ね。恋に焦がれると、ひとはここまで愚かになるのかしら……ねぇ、ヨルムンガンド」
想い合いなど、しょせんはただの綺麗事だ。
ちょっとつつけば呆気なく壊れてしまう、くだらない幻想。
鷹乃はそんな幻想が大好きで、他人のそれを壊すのがもっと好きだ。楽しくて楽しくて、心の奥がうずうずする。
でもこの世界は大嫌いだ。神様などという目に見えない存在がすべてを支配する、馬鹿みたいなこの世界。だから、ぐちゃぐちゃに壊してしまえ。
そしてこの手で新しい世界をつくるのだ。隅々まですべてが理想通りの、最高のボックスガーデンを……この手に入れるのだ。
翌日の夕方。カグヤは鷹乃に指定された通りに、クリスタルパレスの地下祭殿に赴いた。
今日の朝までギュルヴィ邸の侍女たちをどう言いくるめようかと考えていたが、鷹乃がなにか口添えしたのか、ギュルヴィには内緒で篭が用意されていて、あっさりここまで来れた。
この地下祭殿に来るのは、ほとんど一週間ぶりだ。ここで毎日、神託の舞を舞っていたあの日々が、もう懐かしく感じる。
「ところでどうやって能力を妾から取り除くというのだ?いくら発展した古代の秘術といえど、目に見えない『能力』なんて、他人に譲渡する術などというものは……」
陰陽術は『魔法』とも呼ばれているが、その実態はきちんと世界の理に則った科学技術であり薬学、占星術の総称である。
科学あるいは薬学や占星術である以上、そこにはちゃんと自然界の理論と重ねられた歴史の裏付けがあり、数々の法則もあるので、それを理解できるならなんら不思議はない。理解のできないひとが『魔法』だと思ってさまざまな記録に残すのであって、陰陽術というものは本物の魔法よりもずっと現実的だ。
「これを使うの」
鷹乃が懐から、手のひらに乗る小さな瓶を取り出して見せた。
「……赤い、水?」
透き通った紅色の水が、小瓶の半分程度入っている。
その紅は不思議なことに、とても強く惹き付けられるほど鮮やかだった。
その水の正体を、鷹乃は厳かに告げた。
「賢者の石よ」
「!!!」
「といっても、正確には賢者の石から抽出した成分を、他の有効な薬品と混ぜ合わせた特製の薬よ」
カグヤは素直に驚き、そして同時にこの小さな瓶の中身に最大の畏怖を込めた。
『賢者の石』という鉱石は陰陽師にとって、歴史上最高にして最大の、あるいは最悪の発見である。
霊薬、エリクサーやムップなど、地方によって呼称は無慮百に及ぶが、共通するのはその存在が《万能の鉱物》として有名であることだ。あらゆる薬や術式の材料として使える、そしてそれが強力な効果をもたらす究極の存在。
水銀や塩で出来ているとか、さまざまな憶測が飛び交うものの、今より技術が発展していた古代スカンディナヴィア時代でも正体ははっきり掴めていないはずだ。
そんな幻の代物ともいえる鉱物を、鷹乃は一体どこからどうやって手に入れたというのだろうか。
月の都で唯一の姫巫女……一介の術者として、カグヤは知りたかった。自然、喉が鳴る。
「この賢者の石は、どこで……?」
しかし鷹乃は残念そうに、首を横に振りかぶる。
「……知ったらきっと、カグヤちゃんは苦しむわ」
賢者の石に関してきけたことは、ここまでだった。鷹乃は小瓶をカグヤに差し出した。
「さぁカグヤちゃん…………飲んでくれる?」
「…………」
美しいような不気味なような、とにかく吸い込まれそうな深い紅に輝く小瓶を無言で受け取り、手の中で転がして検分する。
ひんやりとした液体は、揺らすと少しとろみがあるように感じられる。
結晶のような形状の蓋をそっと摘んで開ける。鼻を寄せて匂いを嗅いでみると、ほんの少し薄荷の香りがした。
————これを飲んだら……この力が、なくなる……。
恐怖と不安が綯い交ぜになって、全身が震える。やはりわずかでも、抵抗を感じることは否めない。
「カグヤちゃん?」
「…………っ!!」
やんわりと促されて、覚悟が揺らいだまま小瓶の蓋を開けて、ひと息に飲み干した。
冷たい薬が、喉を通る感覚が走る。そのやや不快な感覚が消えるまで、カグヤは両まぶたをきつく閉じていた。甘くもなければ苦くもない、味というものがまったくしない不思議な薬だ。舌触りも極めて滑らかで、喉を通るときの感覚以外はなにも残らずするっと通る。
一分くらい、なにかが起こるのを想像して待った。だが身体に変化はない。
「……なにも起こらないぞ?失敗ではないのか?」
強ばっていた肩の筋肉が、わずかに弛緩する。
時間が一秒進むごとに内心で「失敗した、よかった」と思い始めた。だが。
「いいえ、成功よ」
鷹乃の唇が、嗜虐的な三日月型に歪んだ。
突然胃の奥が痛みだした。今まで感じたことのない種類の痛みに、カグヤはたまらずその場に膝をついて呻いた。冷や汗が背中を伝う。鋭く重い痛みに、文字通り腹を抱える。
せり上がるような気持ち悪さがこみ上げて、胃の中のものをすべて吐き出す。その吐瀉物に紛れて、拳大の大きな赤い石が出てきた。新鮮な血液のように透き通った、しかし深みのある赤。
鷹乃はその石を拾って、いたく満足そうに微笑む。
「……素敵ね。まるで生きているみたいだわ」
生まれたばかりの我が子であるかのように愛おしそうに指先で石を撫でて、うっとりとしている。
よもやこの赤い石が、カグヤの能力だというのだろうか。
「…………それは?」
カグヤが喘ぎ喘ぎ尋ねると、鷹乃はいまだ上機嫌ですらすら答えてくれた。
「カグヤちゃんが持っていた、姫巫女の能力よ。能力をこうして形にした石のことを、【石榴石】というの。誕生石で一番最初に定められた石も、この【石榴石】なのよ」
陰陽術は占星術の一種でもある経緯から、誕生花や誕生石、誕生色などの『ひとの運勢』に関係がある物事が必ずといっていいほど絡んでいる。
【石榴石】は聖地のひとつである太陽の都では『ガーネット』と呼称されている、もっとも名の知られた最古の鉱物のひとつだ。しかし硝子のように透き通っていてとても美しい輝き、そして特殊な出自による希少性の高さから陰陽術師のなかでも、ほんの一握りの者しか本物を見たことがないだろう。
カグヤもその名だけは世界の伝説として耳にしたことはあるが、こうして間近で本物を見るのは生まれて初めてだ。そもそもこうしたおぞましい方法でこの世に生まれるなんて話さえ、まったくの初耳である。
自分の腹から生まれ出たそれを、カグヤは鷹乃のように愛おしいとはとても思えない。その丁寧に研磨された曇りのない硝子のように透き通った輝きさえ、どこか底知れない不気味さを感じる。
「ありがとうカグヤちゃん。これでヨルムンガンドは助かるわ」
その笑顔はまるで毒の華だと、背筋がぞくりとした。
本当にこれでよかったの?心のなかで繰り返し何度も問われるけれど、それでも今は答えが出ない。
こうしてカグヤは、民の噂ではなく本当に力を無くしてしまった。
姫巫女ではなくなった自分に、果たしてこれからできることはあるのだろうか。とてつもない不安が押し寄せる。
ヨルムンガンドの無罪放免、釈放が決まって放逐されたのは、それから一晩経った翌朝だった。
カグヤはそのことを、ギュルヴィとの朝の食卓で知ることになった。ギュルヴィと手を組んでいた裁判官から、内密に文書が届けられたのだ。
ギュルヴィは当然、怒り狂っていた。
重々しい濃茶色の食卓を、ギュルヴィの文書を握った拳が激しく叩く。その度に、載せられた食器が騒がしく音を鳴らす。
「なんで……なんであいつは釈放されたんだ!!決まっていたはずの俺の昇進もなくなった!!なんでだ!!」
なんでだおかしいじゃないかと、繰り返し叫んでは食卓を叩き、足は毛足の長い絨毯を床を蹴り続ける。終いには手の中にあった文書をくしゃくしゃにして、床に叩きつけて踏みつける。
荒々しく息を切らせて上下する肩越しに、今度はカグヤのことを睨みつけた。
「……そういえばお前、女王陛下と密会していたそうだな?」
それまで平然と食事を続けていたカグヤが、茶碗に盛られた白米を拾おうとした箸を置いて答えた。
「文句なら女王に言えばよかろう。女王の決めたことだ」
カグヤの答えをギュルヴィは「カグヤが女王にヨルムンガンドの命の保証を懇願した」と受け取り、ついに怒りの矛先はカグヤに向かった。
「っお前のせいか!!!!!!!このアバズレ!!!!!!!!!!!」
「……っ!」
「おやめください旦那様!」
カグヤを椅子ごと蹴り倒したギュルヴィを、とうとう使用人たちが数人がかりで止めに入る。
床に倒れたカグヤの視線に気づいたギュルヴィは、さらに激昴した。
「なんだその目は……誰が生かしてやってると思ってんだ、誰が!!!!!!!!!」
何度も何度もカグヤを蹴りつけるギュルヴィを、もう誰も止められなかった。カグヤも黙って受け続けて、身体はあっという間に痣だらけになった。
それでもカグヤは、ヨルムンガンドのことを考えて安心していた。
今頃彼は、広い空の下で自由にしているのだと思うと、とても安らいだ。
キンモクセイの香りを、思い出した。クリスタルパレスにある中庭の隅に植わっている、たったひとつのキンモクセイ。
『ずっと、ずっと考えていました。大好きだった母が死んで、代わりに生き残った私に、どんな意味があるのか……』
陽だまりの温かいあの日、ヨルムンガンドはそう言った。
自分の生命の意味がわからない。神様はどうして自分を選んだのか。
それは自分で決めること。神様にも、誰にも決めさせてはいけない大切なもの。
生きて、ほんとうの最期に決めること。この世界で生命を与えられたものの、最初で最後の課題だ。
ヨルムンガンドがそっと差し出す小指。
『だから……お互いにわかるときが来たら、このキンモクセイの下で、そっと教え合いませんか?』
だからカグヤは答えた。小指と小指を結んで、この温もりを目印に。
『……あぁ、わかった。約束、だ』
このキンモクセイの下で、いつか……————
————でもきっと、もう二度と会えない。この約束は果たせない。だからせめて、妾を忘れて幸せでいて……。
「……カグヤ」
ギュルヴィに負わされた怪我を侍女が丁寧に手当てしてくれて、包帯だらけになってようやっと落ち着いた頃だった。幸いにも怪我は打撲と打ち身程度で済んだので、自室で休んでいた。
てっきり仕事に行ったと思っていたギュルヴィが、突然カグヤの部屋を訪れたのだ。
「さっきは済まない、取り乱して君にひどいことをした。反省しているよ」
「…………」
先ほどとは打って変わって妙にしおらしい態度のギュルヴィを、カグヤは警戒するように俯いて、こっそり横目で観察した。
ギュルヴィは窓際の椅子に座っているカグヤの頬に触れた。カグヤの白い頬には、痛々しい青紫の痣がいくつも浮かんでいる。もちろんこれも、ギュルヴィの仕業だ。
カグヤの反応を待たず、ギュルヴィは口を開いた。
「お詫びとしてこれを受け取ってほしいんだ。最高級の月長石で作らせた耳飾りだ。結婚式のときにつけて欲しい」
「…………」
ギュルヴィが差し出す化粧箱を一瞥し、ため息を漏らす。
口ではなんとでも言えるし、飾れる。この男の本性は最初から見抜いていて、今日のこれでさらに呆れた。
途端に、先ほどまで微笑みすら浮かべていたギュルヴィの態度が豹変した。
「……おい、こっちを見ろ」
「…………」
答えないカグヤにしびれを切らして、ギュルヴィは耳飾りが入った化粧箱を投げ出して、彼女の頬を殴りつけ怒鳴りだした。
「このくそ女!!!!!!!俺を!!見ろ!!」
「…………っ!!」
殴る蹴る、突き飛ばす。絶え間ない暴力の嵐に、カグヤは歯を食いしばって必死に耐えた。
巻かれた包帯はところどころ切れて、ただの襤褸切れになった。口の中は切れて、血の味がする。それでも耐えられたのは、ヨルムンガンドの無事の知らせが大きい。
だが。
ひとしきり暴れて息を切らせたギュルヴィが、カグヤの胴に馬乗りになった。
「……?」
無言で天井をあおぐギュルヴィの様子を、カグヤは不審に思った。沈黙に嫌な予感がふつふつと沸き上がる。そして予感は……当たってしまった。
「ははは……ちょうどいい。この際だから、俺が直々にお前の真新しい尻に突っ込んでやるよ。光栄だろう?」
もはや、その眼は狂っていた。いつも以上に濁っていて、もはや溝のようだ。
ギュルヴィはカグヤの着物の帯に手を掛ける。自分の腰から引きちぎるように帯が取られる光景に、カグヤはとうとう悲鳴をあげた。
「っや……っやだっ!!!!ヨルムンガンドっ!!!!!」
逃げようと脚をばたつかせて思い切り身をよじるが、筋肉が詰まったギュルヴィの重い体は、華奢なカグヤの力ではびくともしない。
「ふはは!!!いくら呼んでも来れないぞ、あの阿呆皇子サマは!この様を目の前で見せてやりたいところだがな!」
来る前にギュルヴィが人払いでもしておいたのか、いくら叫んで助けを呼んでも、使用人は誰ひとり来る気配がない。使用人を呼ぶ時に使う鈴も窓際の円卓に置かれているが、とても手が届きそうにない。
着物が無残に剥がされる。最後の肌着にいたっては易易と破られて、抵抗する腕に虚しくぶら下がっている。
真紅の絨毯の上に転がる月長石の光が、カグヤの頬を伝う涙と同じ色をしていた。
民の噂にたがわず、本当に純潔も無くした。もう失うものはなにもない。
生きている意味すら、もう失った。
週末になり、カグヤとギュルヴィの結婚式が、城下町で一番の会場にて催された。
「本当にお美しいですわカグヤ様。旦那様が選ばれた着物も、よくお似合いです」
俯いているカグヤに、侍女が務めて明るい声をかける。
カグヤは新婦の控え室で、侍女に化粧と衣装の着物を着付けてもらった。
ギュルヴィの趣味で、今は亡き太陽の都で一般的な『ドレス』という変わった着物が選ばれた。上等な純白の絹で縫い合わされたそれは、肩は剥き出しで胸元が大きく開いている。首には真珠の首飾りが、耳にはギュルヴィに贈られた月長石の耳飾りが付いている。
ドレスと同じ純白の長手袋に包まれた手で、そっとドレスの裾をまくった。
いまだ青紫の痣が目立つ足には、白い靴が履かされていた。履き慣れない踵が高いもので、何重にも織られたドレスの重さも相まって身動きが取りづらい。
まるで鎧だ。身体と一緒に心も縛り付けられているようで、ひどく息苦しい。
「参りましょうカグヤ様。旦那様がお待ちです」
案内係の侍女が声をかけにきたので、カグヤは侍女の手を借りて椅子から立ち上がった。
生けられた花も壁紙も全体的に白で配色された式場に入ると、非常に多くの人が参列していることがわかった。純粋な名家貴族を除くと、執政部などの國事に従事する人が多いのは、曲がりなりにもカグヤが元姫だからだろう。貴賓席には、当然のように鷹乃もたおやかに微笑んで座していた。
式場の一番奥、中央に鎮座した太陽の都式にあしらわれた祭壇の前で、こちらも太陽の都式の白い礼服に身を包んだギュルヴィが、いつもの貼り付けたような笑顔を浮かべて立っていた。
なにも知らない人から見れば、絵に描いたようなとても幸せな結婚式なのだろう。
ギュルヴィは古くからの貴族で、武官としても優秀だときいている。それに見た目だけならとびきりの美形だ、密かに憧れている女性も多い。実際に参列者の中には、この式場と雰囲気、衣装の美しさに見蕩れている顔がちらほらいる印象だ。
カグヤは一歩ずつゆっくり、ギュルヴィが笑顔で待つ祭壇に向かって進む。
一歩進むごとに、頭の中はヨルムンガンドのことでいっぱいになる。
今どこにいるの?
なにをしているの?
なにを思っているの?
————どうしてあのとき、妾の告白を遮ったの?
祭壇までの道は、もうあと五歩くらいだ。ギュルヴィが差し出す手に、手を伸ばす。
会いたいよ。————今すぐ妾をさらって。躊躇う間もなくヨルムンガンドでいっぱいにして。好きなの……。
ささやかにこぼれる涙と一緒に、唇から自然に漏れ出る言葉。
「…………ヨルムンガンド……」
それは誰にも気づかれていない、叶わない最後の祈り。
だったはずだったのに。
背後にある両開きの扉の向こうが、急に騒がしくなった。衛兵が何者かと争っているようだ。この日のために配置された衛兵の声は、ひどく狼狽えている。ギュルヴィも参列者たちも何事かとさざ波のように騒ぎはじめた中で、重い扉が勢いよく開け放たれた。
「カグヤさま……っ!」
瞬間。式場にいる全員が、闖入者に注目した。
この國では珍しい金髪碧眼で、柔和な顔つきの長身痩躯の男。身につけた着物の色柄の選び方から、本人の育ちの良さが窺える。しかし髪も着物も乱れて汗をかいており、ここまでの衛兵との乱闘ぶりが容易に想像できる。
「…………っ!」
カグヤは息を詰まらせた。
ヨルムンガンドだ。彼がここにいる。白昼夢じゃないだろうか。幻じゃないだろうか。瞬きをしたら消えてしまうのではないか。信じられない。
「ちっ……衛兵、そいつを捕らえろ!」
ギュルヴィの命令に、衛兵たちは弾かれたように動きだして、ヨルムンガンドを包囲しようとする。
なにかが、カグヤの背中を押した。
ヨルムンガンドから守ろうとする侍女と衛兵たちを乱暴にかき分けて、カグヤは突き動かされるままヨルムンガンドの元に駆け寄る。
「どう……して……?」
どうしてここに来たの?君はもう自由なんだよ?
……声が聴こえたのかな、届いたの?
そう言いたいのに、ききたいのに、まるで望外の喜びと戸惑いに言葉がうまく出てこない。
ヨルムンガンドの手が、カグヤに差し出された。
「君をさらいに来た。もうオレは、この手を握ることに躊躇わない」
彼の真っ直ぐな眼差しは、どこまでも広い空のように澄んで輝いている。カグヤの心臓は今すぐ踊りだしそうで、必死で胸を押さえた。
「……それって?」
カグヤの問いかけに、ヨルムンガンドは両腕を伸ばして穏やかな声で答えた。
「一緒に生きようカグヤ。好きなんだ」
待ちわびた言葉。貴方にしかもらいたくない、貴方しかくれない言葉。繰り返し頭に響く、貴方しか使えない本物の魔法。
ヨルムンガンドの腕のなかに、躊躇いなく飛び込んだ。細いがしっかりした腕に抱かれて、見つめ合って、唇が重なる。溜まっていた涙がこぼれて、頬を伝う。おしろいが崩れるのも構わず、涙は滝のように流れた。
まるであのきらきらした、大好きな小説のような恋ね。でもこれは現実。すぐ傍らにある温もりのたしかな、かけがえのない《愛》だから。
ヨルムンガンドに手を引かれて、ギュルヴィの真っ赤な怒号と衛兵たちと参列者の混乱の声のなか、式場を飛び出した。式場の騒音が、どんどん遠くなっていく。
「ま、待って……妾、うまく走れない……!」
ヨルムンガンドに手を引かれて走っているカグヤ。
ふわふわの美しいドレスも踵の高い靴も、走るには邪魔でしかない。
「靴なんて捨てちまえ!裸足で走ろう!」
ヨルムンガンドがあまりにも無邪気な笑顔で言うものだから、勢いに任せて靴を脱ぎ捨てる。靴を脱いでみると踵が擦り切れてとても痛かったのに、驚くほど足取りが軽くなった。
幼い頃に母が読んでくれた外の國の童話の中で、王子様に追われて靴を脱ぐ姫君がいたことを思い出した。カグヤはその話が大好きで、母にせがんで何度も読んでもらっていたことも思い出して、おかしさがこみ上げる。すべての状況が違うのに、姫君が『王子様』を求める気持ちは自分と同じだと思えた。
カグヤが着ている純白のドレスを見て、何事かと驚く都民の間をすり抜ける。どこまでも、どこまでも跳ねるように町を駆け抜けていく。
そのうち、ふたり揃って笑い声をあげた。
なにがおかしいのかと問われると、まったくうまく説明できない。ただ、今この瞬間が、長く生きてきて初めて『生きている』と感じられる最上の爽快感。そんな気持ちが全身を駆け巡った。
町を駆け抜けたヨルムンガンドとカグヤは、町外れの小高い丘の上にいた。クリスタルパレスとは反対の方向に、もうひとつ丘が望める。そちらの丘にはこの國で唯一にして最悪の処刑具、『白の門』がぽつりと建っている。
名前の通り、真っ白で細かな模様が彫られたひどく巨大で美しいレリーフだ。離れた位置にいるというのに、距離感が狂ってしまいそうである。
この門をくぐった者は、たとえ永久の命をもつ月の都民であっても、その命は消える。……と民話のひとつとして広く伝えられている。
本当のことは誰にもわからない。なにせくぐって戻ってきた者がいないのだ、証明できるものはなにもない。「ある」ものはあると証明できるが、「ない」ものをないと完璧に証明する術はない。
そんな美しくも残酷な『白の門』を含めて、快晴の広い眺望のした。柔らかい草が生い茂った地面に、走り回ってへとへとになった身体を預ける。
「…………相変わらず……驚かされるな、お主には」
カグヤが途切れ途切れに冗談ぽく言って笑った。ふたりとも、息を切らせてひどく肩を上下させている。
ヨルムンガンドもそれに冗談を交えて答えた。
「だって……カグヤさまが泣きそうな顔をしているから……」
「るっさい泣かんわたわけ!!……っ!」
突然塞がれる口。熱いとろけるような甘い口付けが、脳を麻薬のように支配する。息ができない。
熱と熱を交換することで、今まで抑えていた互いの気持ちを確かめるように。永遠に思える時間が経過した。
唇が離れた。少し惜しい気持ちですぐ近くのヨルムンガンドの瞳を覗くと、彼は悪戯っぽく片頬で微笑んだ。
「……うそつき」
強がりも弱音も本音も、全部見透かされているようだ。
「む……むう……」
ばつが悪くて唸りながら俯いたら、ヨルムンガンドは軽く笑って抱きしめてくれた。
ふたつの心臓の音が重なる。風が吹いて、カグヤの長い金髪が揺れる。火照った身体には心地よい風。草も木も音を立てて踊っている。鮮やかな色彩で丁寧に描かれた絵画のような風景を、しばらく黙って眺めていた。
「なぁ……ヨルムンガンド」
「なんですか?」
ヨルムンガンドの温かい腕のなかで、カグヤはわずかに身じろいだ。
言わなくちゃ。自分でも背けていたこと、もう綺麗な身体じゃないのだ。それはこの國では罪だから、ひたむきに向き合う強さを手に入れたい。————このひとのために。
「妾……妾はもう、純潔ではなくなってしまったんだ……!」
「…………」
「の、能力……ほんとに、なくなってしまった、んだ……」
自分でも声がすぼまっていく経過がわかったのだから、ヨルムンガンドからしてみたら明らかだろう。
言葉にすると、悲しく切なくなる。絶対に取り戻せないものを失った、その現実の重みがカグヤのこころにのしかかった。
カグヤの独白を、ヨルムンガンドはただ黙ってきいていて、特になにも応じてくれない。
言うべきではなかったのだろうか。だんだん後悔が紙に落とした墨のように広がってきたそのとき。
ヨルムンガンドは穏やかな真顔で口を開いた。
「カグヤさまはカグヤさまです。そんなことではなにも変わりません」
その瞳には、嘘や偽りで曇った様子は見当たらない。
いつもの深く優しい声で、温かい手のひらで頭も頬も撫でてくれる。その感触は、陽に干されてふわふわした毛布のような安心感を与えてくれる。そして悪戯っぽい弾んだ声でくしゃりと笑った。
「それを言うなら僕なんて、汚れきってぐしゃぐしゃですよ。それでも」
ヨルムンガンドはカグヤよりもずっと年上だと、出会う前から知っていた。だが出会ってから今までの彼は、実際の歳より若く感じられて、カグヤの中では違和感などなかった。なのに今は、すごく大人の男のように思える。カグヤが知っている言葉の中では、包容感というものが一番相応しいだろう。多少場違いだが一種の余裕すら感じられる。
「カグヤさまは僕を愛してくださるでしょう?」
信じてやまない、ひとつの光が宿った瞳だった。
カグヤのなかの不安が泡となって消えていく。愛してくれて、認めてくれることで満たされる幸福。涙という形となって、その想いが溢れた。
「…………うん」
二人の影が重なる。
愛していて、愛される経験なんて、長い人生でも何度あるかわからない。何十回もあって迷い立ち止まるときもあったり、ひょっとしたら一生ないことかもしれない。
それでも一回ごとに、まったく違う想いを抱えて生きるのだから、とても貴重な時間だと誰もが振り返って思うだろう。
相手に幻滅して、無駄な時間を過ごしたと悔しく思うかもしれない。
すれ違い、傷つけ合うかもしれない。
恋に焦がれて、失敗することだって珍しくない。
でも愛し合うことを一生忌み嫌う人は、いないと信じている。へこんでも、怖くなってしまっても、ひとを愛することは光だ。ひとはこの壁に、何度も何度も立ち向かっていくものだ。
あの日、君が教えてくれたこと、絶対に忘れたりはしない。
生命が尽きてこの世界から消えてしまっても、たとえば違う世界に生まれついても、宝箱に仕舞っておくよ。————君がくれた「好き」の気持ち、道しるべにして歩くから。愛はきっと君の声で甦る。
さく……と、わずかに草を踏む音が、ヨルムンガンドの耳に届いた。
あとの行動は第六感としか表現できない。
「っカグヤさま!!!」
「きゃあっ!」
抱きしめていたカグヤを突き飛ばし、その音の主を受け止める。
「ぐっ……!!」
背中に痛みが走り、思わず歯を食いしばった。ヨルムンガンドの苦痛を見て、声の主は歪んだ笑みを露わにする。
「くく……おいおいヨルムンガンド君よぉ。邪魔すんじゃねぇよ、これは夫婦の問題だぜ?まぁ……テメェも殺るつもりだったけどさ。手間が省けたな」
ギュルヴィだ。
大ぶりの刃物をかかげて、ギュルヴィがそこにいた。
純白の礼服と手袋をヨルムンガンドの鮮血に染められてなお、邪悪な笑みは消えない。それどころか瞳はぎらぎらと輝いている。闇のような瞳だ。
ヨルムンガンドに再び、ギュルヴィの刃物が突き刺さる。
何度も何度も、何度も執拗に突き刺す。それは狂気としか表現しようのない光景だ。
ヨルムンガンドよりも筋肉がついた身体を生かして、ギュルヴィはのしかかって彼の身体を押さえつける。そして刺す。
武官で、しかも曲がりなりにも重要な役割を担うほどの実力者に、机で作業することが多い文官のヨルムンガンドが力で敵うはずがない。それでも必死の抵抗で、ギュルヴィの刃物を持つ右の手首を掴んだ。
ギュルヴィも滅茶苦茶に動いたせいか、疲れが目に見える。ヨルムンガンドに手首を掴まれたままで、全身を激しく上下させて呼吸をしている。
「ははっ……なぁカグヤぁ……俺はなぁ、鷹乃様に頼まれたんだよ。お前らの仲を、引き裂けってなぁ!」
「…………!!」
ギュルヴィの唐突の告白に、ヨルムンガンドは唇を噛んだ。せめてカグヤの前では、鷹乃が彼女を裏切っている事実を口にして欲しくなかった。
「!!鷹乃に……?そんな……」
カグヤはおおかたの予想通り、やや喪心といった状態になった。顔が若干青ざめているところを見ると、まだ半信半疑といった状態だろう。
しかしギュルヴィの口は容赦なく、しかし要領を得ない独白をする。
「その見返りに、お前をもらう手はずだったのに……昇進だって……なのにっ!!!」
ヨルムンガンドに押さえられた右手とは逆に、左手が暴れだす。左手は地面を好き勝手に殴りつけて、真っ白だった手袋が泥で汚れて裂ける。
とうとう皮膚が破れて、痛々しく血が滲みだした。まるでギュルヴィの心が裂けているようだ。
「ヨルムンガンド……テメェはいつも俺の先を行く……テメェの背中ばかり見る……!!」
ヨルムンガンドと同期のギュルヴィは、文官と武官、立場がそれぞれ違うというのにいつも比較対象にされてきた。
ギュルヴィと比べると体力と筋力が劣るものの、ヨルムンガンドという男は完璧な存在だった。弓術では誰にも負けない確かな実力を、知力で劣る者は誰ひとりいない。華やかな見た目で女性は寄ってくるし、上官からの受けもいい。
ヨルムンガンドと比較されることが、ギュルヴィにとって一番つらいことだった。
比べられるその度に、ギュルヴィの心は少しずつ砕けていった。
「俺はテメェが大嫌いなんだよっっ!!!!!!!!テメェのスカした顔がっ態度がっなにもかも持っていくテメェがっ…………」
比べられる者の気持ちがわからない、わかるはずがない。
この男はすべてを持っているのだから。
「だからテメェからすべて奪い取ってやるっ!!!!!!!!!!!!なにもかも!!!!!!!!!!!ふははははははははは」
ギュルヴィの高笑いに、しかしヨルムンガンドは冷静でいるように見える。
「……ギュルヴィ、お前にはオレが幸せに見えるのか?」
「…………あ?」
ギュルヴィの激しい憎しみに、ヨルムンガンドは真正面から立ち向かう。
「全っ然自慢にならないけどな……オレも不幸自(、)慢(、)にはめちゃくちゃ自信あるぜ?末端の第九皇子だから、生まれたときから父上には期待されず侍女にさえ空気のような扱いを受けた。母上とふたり、宮廷でずっと肩身の狭い思いをしてきた。ようやっと解放されたと思ったら母上は殺されて、今度は奴隷になった。奴隷は禿になって、色町一番の男娼だ。最高に笑えるだろ?」
「それがどうしたってんだ、あぁ!?」
荒々しいギュルヴィの声、そしてヨルムンガンドは今まで溜め込んでいたものを吐き出すように、犬歯を剥き出しにしてとうとう吠えた。
「他人の幸も不幸も、他人が簡単に推し量れるモンじゃねぇんだよ!!エラそうに語るな!!」
そのひとの幸せは、どれが正解か。それはそのひとにしか量れない。どういう道が幸せに繋がるのかは、最初から最後まで本人にしか決められない。
たとえ親兄弟であろうと、決めつける権利までは与えられない。死人が口出しできることはない。
たとえその道が死に繋がろうとも、最後まで止める権利はない。
そして。
生きようと思う権利もまた、そのひとだけのものである。
神様だかに与えられた生命だとしても、奪っていい権利まではないのだ。
ひとは生まれた時点で、何者にも縛られない自由を持っている。
ギュルヴィの皮膚の色はもはや赤を通り越して、どす黒く見える。目は血走って、白目がもはや真っ赤だ。
「っっっ…………この……っ!!」
突き立てようとした刃物。だがその手は強い怒りと湧き上がる不思議な感情で震えて、なかなか目標が定まらない。むなしく空を切り、柔らかい土に突き刺さる。やがてはヨルムンガンドの腕で押さえられてしまい、その途端に激しく暴れた。
「は、放せ俗物が……!くそっ……俺は……俺は貴族のギュルヴィだぞ!!月の都軍中尉のギュルヴィだぞ!!!」
ギュルヴィの半分叫んでいるような声は、しかし空虚に響いた。
彼の手首を握って、ヨルムンガンドは悟ったような極めて静かな声で制する。
「本当はわかってるんだろ、ギュルヴィ。お前にはなにもない。貴族なのも、親や先祖の力であって、お前自身のものではない。その手で必死に掴んでいるものは全部、お前のものじゃない」
「…………っ!!」
ギュルヴィの顔が、激しい悲哀に歪んだ。刃物を握る手の力が弛緩していくのがわかり、ヨルムンガンドはそっと手を緩めた。ギュルヴィの目尻には、涙が溜まっていた。
本当は欲しくて欲しくて、仕方なかった。
名誉?————違う。
栄光?————違う、そんなものじゃない。そんないくらでも買える安いものは、本当はいらない。
欲しかったものはただ、そう《愛》。無垢で純白の《愛》が枯渇していた。
父親は幼い自分に、絶対的な力である強さのみを求めた。母親は茶会で自身の自慢話にできる名声を。なにをしても褒められることはなく、ただひたすら上を目指せと呪文のように繰り返される毎日。
ギュルヴィが生きている理由は、両親の名誉を守り、家の名を上げるためだった。そこにギュルヴィ自身の意思と意志はなく、成長するたびにきつく締め上げられた。
引退した両親がギュルヴィに任せて、家を離れて世界中を自由に旅するようになっても、それらはいつまでも頑強な岩のようにギュルヴィを縛っていた。
相手を想う優しさも温かさも、ひとの愛し方というものをギュルヴィは知らない。
ギュルヴィの手からそっと刃物を奪い取り、ヨルムンガンドは静かに告げた。
「ギュルヴィ……お前の弱さは、その《愛》への無知だ。お前が変わらないかぎり、その弱さがお前を苦しめる」
その途端、立ち上がっていたギュルヴィの脚が崩れるように折れて、とうとう膝をついた。俯いていて、ヨルムンガンドには彼の表情は見えない。ただもう、先ほどまでの狂おしいほどの殺意は、一見して萎んでいるように見える。
しばしギュルヴィの様子を窺って安全を確保してから、血が抜けてふらふらの身体に鞭を打って、カグヤのそばに行く。カグヤにしてみてもギュルヴィの所業は余程衝撃的だったようで、ヨルムンガンドに突き飛ばされたときの体勢のまま動いていない。
「……カグヤさま、もう大丈夫ですよ」
茫然と立ちつくしているカグヤに努めて優しく声をかけると、彼女は弾かれたようにヨルムンガンドのそばに駆け寄ってきた。
「……すまん……すまない。妾が、助けに入っていれば……」
泣きじゃくっていて、しゃっくりをしてつっかえながらヨルムンガンドの心配をするカグヤに、最大限の笑顔を向けた。
「カグヤさまに怪我をされては、男が廃ります。僕は大丈……」
ぐらりと、ヨルムンガンドの上体が大きく傾いた。
視界がぼやけて、なにがなんだかわからないなかで、温もりでカグヤが身体を支えてくれていることだけはわかった。
「ヨルムンガンド!?す、すぐに医者に診てもらおう!立てるか!?」
カグヤの泡食った声。ヨルムンガンドは覚悟を決めた。
「あはは……それよりカグヤさま。僕……行きたい場所が……あります」
ヨルムンガンドの諦念となにか大きな覚悟を感じたのか、カグヤはしばし彼の淋しそうな横顔を見つめて、なにかを言いたげに口を開いたり閉じたりしている。
だがやがて諦めたようにため息をついて、ヨルムンガンドに尋ねた。
「……どこだ?」
「…………あそこ」
ヨルムンガンドが指し示した先には、件の『白の門』が悠々と存在していた。
カグヤはヨルムンガンドに肩を貸して、『白の門』の麓までゆっくり歩いた。
周りに建築物のない、だだっ広い丘の上。どこまでも天高くそびえる白亜の扉が、だんまりとたっている。
不思議なことに、いつもは固く閉ざされているはずなのに、今日のいまに限って開いている。吸い込まれないようになかを覗くと、ただ真っ白な世界が広がっていた。
こうしてすぐ近くで見ると、その美しいなかにある底知れない恐怖が、心臓を締めあげるようだ。
ここを通れば、永遠の命をもつ月の都民といえど、呆気なく死んでしまう。
門をくぐった魂がどこへ行くのか、それは誰にもわからない。少なくともあの小さな『箱庭』のひとびとのように賢者の石になるということは、ないらしいと伝えられている。
だからこそ処刑の道具として使われるのだ。底知れぬ真っ白な死の恐怖を味わわせるために、死神の鎌という唯一の使い道。
「……どうする、つもりなんだ?」
カグヤの声は、緊張と恐怖で震えている。
尋ねた答えは見えている。それでも否定が欲しいから、きかずにはいられない。
「…………」
ヨルムンガンドは彼女の問いには明言せず、ただ優しく微笑んだ。
すべては鷹乃の《計画》を崩すために。
彼女の駒であるヨルムンガンドは、自らかの地に堕ちると……カグヤと離れると決めた。
恐るべき《ボックスガーデン・プロジェクト》を止めて、せかいを救う。ただそれだけのために。
————くだらない英雄にでもなるつもりか?独り善がりの正義感で、彼女を置いていくのか?
こころの奥の奥にいる、もうひとりの自分が意地悪く尋ねてきた。
答えの代わりに傍らにいるカグヤの手を、そっと握りしめる。手と手が重なり、温もりが移動する。その晴天の瞳には、真珠色の涙がきらめいていた。
「できることなら……永遠に君のそばにいたかった」
それはカグヤとヨルムンガンドの恋が結ばれる運命ではないように、絶対に叶わないことだ。
今はくだらない想像をしよう。
————もしも生まれ変わって、彼女ともう一度出逢えるなら。
だんだん力が入らなくなってきたけれど、ヨルムンガンドはカグヤの小さな柔らかい手をこれでもかというほど握りしめて、きつく誓った。
「オレはもう一度、君をさがす。ここではないどこかにいても、君を見つける」
たとえ運命ではないとしても、これは大事なたったひとつの『初恋』だから。他人任せになんてしたくない。
たとえ違う世界に生まれて離ればなれになってしまっても、これだけは固く約束する。————いくら姿形が変わってしまっても、絶対に君を見つける。運命なんて関係ない。
これだけは予見しよう、もう一度出会える。どこかで、必ず。
今にも波にさらわれて、跡形もなく消えてしまうような恋だから。小指と小指をしっかり結びつけて、この温もりを目印にするよ。
僕たちがもう一度出会うために。
「だから……しばらく『さよなら』だ、カグヤ」
瞬間。
カグヤを思い切り突き放して、ヨルムンガンドは白い扉の中にその身を晒した。
最後に見えた彼の微笑みは、このせかいの誰よりも優しいものだった。
扉はヨルムンガンドを受け入れたら用が済んだとでもいうように、重い音を響かせてひとりでに閉じた。
「っ……ヨルムンガンドっ!!」
カグヤがいくら扉を思い切り叩いたり蹴ったり、爪を立てて引っ掻いて、体当たりで突っ込んでも、決してもう一度開くことはなかった。ただぼろぼろになった手が痛くて、悲しくて淋しくて悔しかった。ヨルムンガンドのたわけ者!とか、とにかくどこにぶつけたらいいかわからなくなった怒りを、叫びだしたくて唇がわなないている。
涙は滝のように流れて、丁寧に施された化粧はもうぐしゃぐしゃだ。綺麗に纏められた髪も解けて、今は背中に流れている。
やがて大きな喪失感によって身体から力が抜けて、両膝をついた。美しい真っ白なドレスの裾に泥が付いても、気に留めない。足も泥だらけだしあちこち擦りむいているのに、痛みなどどこか遠いもののような気がする。
「……………………うた?」
風に乗って、幽かに聴こえた。
ゆらりと立ち上がってもう一度、よく耳をすませる。
柔らかな歌声が空に広がり、せかいを包んだ。
————ここは箱庭。
————我らその小さき天地を生み出し、かの地を七日にて創造す。
————全能の創造者たる我らは月詠の夢現を以て、かの地に汝らを残す。
————いざ征かん、我らが生地。
————流れ落つれば、乃ち『解放』。
あぁ……これは、福音だ。カグヤの直感がそう告げた。
ひどく穏やかだがどこか挑戦的な言葉、音が空虚のアリア。それでいて戦慄の愛を思わせる、深淵の韻律。
この世界すべてを敵に回すほどの豪胆さは……実にヨルムンガンドら(、)し(、)い(、)と感じる。
空にふわりと響く不思議な詩を、大事な宝物を抱きしめるようにカグヤは胸を抱いた。そこに詩が存在しているように。
「もう一度……もう一度、必ず……!!」
それは運命より強く結ばれた、約束だ。
この約束を果たすために、カグヤはこのせかいを生きると決めた。
揺らめくキンモクセイのしたで、もう一度妾を見つけてくれ。はじめて会ったあの日のように。
————もう一度、彼と出会うために。妾は立ち上がるのだ。
気高く揺れる、君の花。
僕のなかで、庭の端にぽつんと佇むあのキンモクセイが薫っている。
あの甘く優しい香りがいつまでも、いつまでも僕のこころに染みついて離れない。
どうか……どうか。キンモクセイの香りに乗せて、僕の想いが君に届くように。
僕は君を見つけるから、君は変わってしまった僕のことを、もう一度好きになってくれ。
たとえ運命で結ばれなくても、僕は君を想うよ。
会えない時間が、僕らの《愛》を強める。
僕は僕の意思で生きるから、君も君のままでいて。
気高く美しい、君のままでいて。
亡霊×少年少女 第二十四話 了
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。『亡霊×少年少女』第二十四話をお届けいたしました。
年内はこれで最後の更新になるかと思います。なぜならリアル仕事とビッグサイトが私を待っているからっっ!!!!!!楽しみです乁( ˙ ω˙乁)
ついでにエピソードは最終章なので、第一話から全部の改稿作業も同時進行しております。
更新したらお知らせしますので、一度読まれた方ももう一度どうぞ。
年末ですので、皆さんお風邪やインフルにお気をつけて。
2016.12 ひなた




