表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡霊×少年少女  作者: 雨霧パレット
亡霊×少年少女
8/88

少年少女は立ち上がる。

鋭い痛みが腹と背中を襲った。

確かな浮遊感が去って路地に投げ出されたとき、一覇は肋骨に鈍い痛みを感じた。これは多分、骨が折れている。

呻きながら痛い部分をさすったが、痛みを誤魔化すどころか痛覚が強まった。

「あ……しゅで……しゅでん……どうじ、さま……?」

次いでやけに掠れて耳障りな声が、一覇の耳を打つ。

痛みをこらえて視線を上げると、細くて大きなシルエットが目の前にあった。

暗い中でもぬらぬらと輝く、皮を剥いだような赤黒い肌は、心臓のようにどくんどくんとやや不規則に脈打っている。

ぎょろりと大きな双眸はぎらぎらと赤く輝き、ひどく血走っている。

手足が異様に長く、黒い爪は恐怖を覚える鋭さを誇っている。耳は尖って横に張り出していて、さながらロールプレイングゲームに出てくるクリーチャーのようだった。

霊子体……いや、これは原子体に害なす「鬼魔」にカテゴライズされる————悪魔だ。

悪魔は大きな口を三日月型に開き、黄ばんだ鋭い歯を見せつける。

肉を削がれた骨だけのような手には、血で錆び付いた汚いノコギリ。

そのノコギリを紙を持つように軽々と持ち上げて、ひたひたと近づいてくる。

「しゅで、ん……どうじ……さま……」

相変わらず、言葉が不明瞭である。

察するに「(しゅ)(てん)(どう)()」とでも言いたいのだろうか。

酒呑童子といえば、確か鬼魔カテゴライズの最上位・鬼の中でも最強の頭領だ。

平安時代にかの()(べの)(せい)(めい)の子孫である高名な陰陽師、()(べの)(ふじ)(なみ)が封印しているという横浜でも有名な伝説があることをちらりと思い出した。

しかし今はそんなこと、どうでもいい。

にじり寄ってくる悪魔から逃れるために、一覇は痛む体を無理矢理に引きずる。

だがそれも、長くは続かなかった。背中と踵に冷たいコンクリートの感触が当たったので振り向くと、そこはもう袋小路だった。三階以上ある雑居ビルに囲まれていて、どう足掻いても逃げ場はない。

死を、覚悟した。

両親に、弟に、義父に、義母に義妹に心底で申し訳なく思う。

せっかく助けてくれた命を、こんな形でこんな簡単に終わらせてしまうなんて。

そしてそれよりもなによりも単純に、死に対する純然たる恐怖が胸を貫いた。

死んだら、どこへ行くの?ここより痛くて暗くて怖くて、冷たいところ?

「……あ……っ」

助けを求めようと、声をあげようとした。

だが変声期前の甲高い声は、今は嗄れて詰まり、声というものにならない。

感情に呼応して肋骨が痛み、苦痛で顔を歪める。歯を食いしばり、心拍数が上がって、冷たい汗が流れる。

じゃり、と自分の足がコンクリートを踏みつける音も、遠くで響いているように聴こえる。

悪魔との距離は、目に見えて近くなっている。

————……誰か、誰か助けて。

あと数歩で悪魔と一覇の距離がゼロになる、そのときだった。

突然、悪魔の長躯は右に吹き飛ばされ、冷たいコンクリートに乱暴に打ち付けられた。悪魔の体を打ったのは、そこら辺に転がっていたはずの古びた角材だった。

悪魔は何が起きたのかわからず、ただ痛みに呻いている。

その間に、一覇の左腕が誰かに強く引っ張られて、無理矢理立ち上がらせてくれた。

その誰かは夜の闇のように長く美しい黒髪をたなびかせて、一覇の腕を強く引いて夜の街を駆け出した。

————菜奈……。

一覇はその背を映画館のスクリーンで見ているような遠い感覚で、ただ黙って全力疾走した。

中華街のネオンサインがだんだん遠ざかっていって、すぐ近くの山下公園まで来て、適当な茂みに隠れた二人の息は上がっていた。冷たい空気をいっぱい吸い込んで、荒くなった息を整える。

「……どうしてあそこにいるって、わかったんだ?」

開口一番に尋ねると、菜奈は無理矢理に笑ったような努めて明るい声音で答えた。

「偶然だよ」

そこで一覇は、菜奈と手を繋げたままであることに気づいて、頬の温度が一気に熱くなる感じを覚えた。

悟られないように離そうとするが、菜奈は一覇の腕をがっちりと握っていて無理だった。

なかば()()になって、話を逸らせる。

「……悪魔は?」

一覇の問いに答えるために菜奈は茂みからそっと顔を出して、周囲を見回す。

それから柔らかい芝生に腰を掛けて、

「追いついていないみたい」

菜奈のその答えを聴いて、一覇は心底安堵した。いかり上がっていた肩が、すとんと落ちる。

だが菜奈は体を強ばらせて、きわめて真剣な声を引き絞る。

「でも、どちらにしろわたしたちがあいつを引きつけて、時間を稼がないと。このままにしていたら、あいつは……たくさんの人を殺すかもしれない」

「そう……そうか……」

それもそうだ。あの悪魔を放っておいたら、何人もの、何十人もの死者が出ることは請け負える。

頼りの霊能力者は近年では科学的に証明、立証された存在だが、本来はそうそういないものである。

そして霊障士は、その霊能力者の中でもほんの一握りの()()な存在なのだ。その辺を適当に探して、すぐに見つかるようなものではない。

となると、一覇たちに残された選択肢はたったひとつ。

一人が(おとり)としてあの悪魔をできる限り引きつけて、残る一人が短時間でどこかの電話を借りて通報するか、警察に直接赴いて知らせる。霊障士を呼び、退治してもらうのだ。

二〇〇六年現在の日本において、有事の際に霊障士に直接繋がるようなホットラインはいまだ普及していない。

関連法案が先月初めの国会で、ようやく提出されたレベルだ。

肝心のそれも議員の間でひどく揉めていて、いつ成立するのか見通しがまったく立たないと、今朝のテレビニュースでも混乱の議事堂内が放映されていた。

「……囮役は、わたしがやる」

「え……」

菜奈の静かな決意と熱い闘志に、一覇の心臓はひどく跳ね上がった。

今はそれしかない、と頭では理解できる。

一覇には霊子科学において、一般以上の知識があるわけではない。喧嘩もろくに経験がなく、ましてや自分の手でひとを傷つけたことなんてほとんどない。

そんな一覇と、かたや国内最高峰の霊子科学学科在学の————比較的に最近のことだが、生前において————菜奈を比較すれば、これが今の最善の選択であると、誰が見ても理解できる。だが、それでも。

「だめだ」

「なんでよ!?」

どんな反論を受けても一覇の気持ちは、なによりも固いものだった。

菜奈も必死に訴えるが、それでも一覇の想いは一ミリとも揺るがない。

「もう二度と、大切な人を失いたくないんだ」

両親、双子の弟。

みんな、自分を守ってくれて死んだ。

もうそんなことは御免だ。もう守られるだけなんてことは、絶対にあってはならない。

オレにだって誰かを守ることができるんだって、そのために生きているんだって、証が欲しい。

誰かを愛する資格が……。

「それって……」

————わたしのこと、少しでも大切だって思ってくれてるってこと?

菜奈の言いたいことを最後まで聞かずとも、一覇は自分が言った意味のすべてを理解したらしい。意識して、真っ赤に染まった顔をうつむけ、こくんと首を前に傾ける。

その瞬間、菜奈の頬は急激に熱くなり、蒸気する。

十七年と少しだけ生きてきて、男の子に告白されることなど初めてのことだった。しかも年下の男の子に。

いや、これを告白ととっていいものか、一覇の真意はわからない。

一覇は顔をうつむけたまま、菜奈の手を握った。

その手は成長期の少年らしくやや骨ばっていて、ひどく熱い。一覇の熱が霊子が、じんわりと菜奈に移動するさまがわかった。

「だから……行くな、菜奈」

ようやっと合った視線は、痛いほどの悲しみに溢れていた。一覇の青く大きな瞳は、心なしか潤んでいるように見える。

違う……違うよ、これは《恋》じゃない。

この子はただ純粋に、わたしのことをひととして大事に想っているんだ。それだけ……なんだよね?

そう気づいたら、なんだか恥ずかしくて更に頬が上気する。

なにを勘違いしていたんだろう。期待していたのだろう。

「で、でもね一覇……一覇は携帯、持ってる?」

照れ隠しで菜奈の方から顔を逸らして、たなびく艶やかな黒髪をするりとかきあげる。

「……ない」

そういえば、とたったいま気づいたような暗い顔をして、一覇は頷いた。

携帯電話は義母が一覇の身の安全のために持たせたがっていたが、一覇本人と義父が必要性を感じないからと突っぱねたのだ。

普及が進んではいるものの、中学生で持っている子の方が少ないし、なによりべつにそこまでマメに連絡をとる相手もいない。

だがよもや、こんなときにあればよかったと後悔する羽目になるとは。

菜奈も弱ったな、とため息混じりに相槌を打つ。

「でしょ。わたしも死んだときには持ってなかったみたいだし。ここから派出所とかがある通りもない。つまり、助けを呼ぶには公衆電話を頼るしかないんだけど、それも無理じゃない」

携帯電話の広まりに伴って、公衆電話は町から徐々に姿を消してきている。公衆電話を探すよりは、交番を探した方がまだ確率は高いと思われる。

だがここから一番近くの派出所は、せいぜいみなとみらい線の元町駅の前だろう。

少なく見積もっても、走って五分はかかる。

それでも一覇は反論の言葉を探した。

「でも」

「でもじゃない。わたしに……今はわたしたちにしか出来ないことなの。あいつをこのまま放っておいたら、絶対に死者が出る」

「…………」

形成は逆転した。

一覇はこれ以上は一言も発さずに不承不承で頷き、呑み込んだいろいろな言葉の代わりに菜奈の手をいっそう強く握った。

菜奈は微笑んで一覇の手を優しくふりほどき、スカートに付いている右側のポケットを探る。指先に冷たいそれが触れ、たどって引っ張り出した。

強がりかもしれないが、一覇に堅い笑みを向けた。

「希望がないわけじゃないよ。わたしには、武器がある」

長さ十五センチほど、厚みは一センチくらいの細い銀の板。彫り込みなどの余計な装飾は一切なく、無骨なボルトで四辺が留められている。

それは————(れい)(しょう)()()()(ばん)

霊子科学と古来からの陰陽術、最先端の機械工学を融合させて作られた、発現者の霊子をエンジンにして駆動する霊障士唯一無二の武器だ。

一部の高位な鬼魔しか持っていない武器に限りなく近い構造を再現しているため、原子が通じない鬼魔に唯一有効とされている攻撃方法である。

菜奈は物言わぬ基盤にささやかな祈りを捧げて、強く握る。

一覇はそれを不安そうに見つめる。

「来たよ、一覇……お願いね」

菜奈は悪魔の姿を遠目から確認すると、勢いよく茂みから飛び出した。

その菜奈の勇敢な背に、一覇は投げかける。

「絶対……絶対に死ぬなよ……っ!」

菜奈は有名なアクション映画さながら、角材を握った左手の親指を突き立てて返事をした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ