魂の行方を道しるべに
一ヶ月ぶりです!
いつもより量が少ないものの、これでキリがいいと思い、投稿させていただきました。
亡霊×少年少女第二十二話、どうぞお楽しみください〜!
亡霊×少年少女 第二十二話『魂の行方を道しるべに』
楽園において、人を殺すことは神によって絶対の禁忌とされている。
しかし人間の最初の罪は、神よりも先に《愛》を知ったことだった。
地上に蛇が堕とされたのは、神様の怒りを買ったからだと人間のあいだでは伝えられているが、真実は違う。蛇が自ら地上を望んだのだ。
蛇は純潔で無垢な恋を知り、その大きく優しき愛を貫いて自ら地上に堕ちる決意をした。
それはただ、ひたむきで純粋な想いから。
邪蛇————ヨルムンガンドは地上に堕ちてから、神の國に残る愛しき人へとひとつの詩と、もっとも愛しい魂を遺した。
————ここは箱庭。
————我らその小さき天地を生み出し、かの地を七日にて創造す。
————全能の創造者たる我らは月詠の夢現を以て、かの地に汝らを残す。
————いざ征かん、我らが生地。
————流れ落つれば、乃ち『解放』。
その詩は永い時が流れた今でも、神と使徒たちに受け継がれている。しかし彼が愛した魂の行方は、いまだ誰も知らない。
大きな愛が世界の扉を叩いた。それは小さな小さな、運命と魂が交錯する物語の序章に過ぎない。
————これは、魂が幾度もめぐるとこしえのお話。悠久なる神々なんかいない、天国もないせかいのお話。
あまたの星ぼしのしたで、小さな月はひときわ淡く眩しく輝いている。地上の人々を優しく照らし、道しるべとして存在している。
その光なくして、人々は夜の闇を歩けはしないだろう。人が独りきりでは生きていけないように。
こころが弱って折れてしまっても、その光だけは届くようにと、人々は祈りを捧げる。いつかの大切な人への想いを、そっと乗せて。
生きることでこころが折れて、泥だらけになり、傷だらけになり、どんなに汚れてしまっても。
その魂を、月の光が優しく導いてくれますように。
月光虫の銀色に包まれた街の中心地、クリスタルパレス。その遥か上階にある広く豪奢な一室で、一覇はとんでもなく美しい女性とふたりきりになってひどく緊張していた。
「妾はカグヤ————この月の女王なる者だ」
彼女は確かにそう言った。
古い寓話の存在……月の女王————カグヤが、一覇の目の前にいる。絹糸のような滑らかな金色の長い髪、青空のように澄んだ碧眼。白く薄い衣を纏う均整の取れた肢体は、思わず見とれてしまう、ヒトを超越した神々しさすら感じるほどに美しい。
まさかこんなに美しい人が存在するとは。ゆったりとした白い長衣に包まれた豊かな双丘と、歩く度にはらりと見え隠れする白い脚の存在感に、純粋な男としての欲望をわずかに感じて、思わず息を呑む。
「……どうかされたか?」
つま弾いた精緻な琴のような聴いているだけでとろけてしまう声に、わずかに戸惑いの色が見えた。
「えっ……あ、えーとスミマセン!えと、オレは決して怪しい人じゃなくってですね……!」
一覇が顔を火照らせながら、慌てて言い訳を始める。内心では、場違いにもカグヤの美貌に心が揺らいだ自分を、激しく叱咤していた。
————こんなところでなにを考えてるんだ、オレは!!
しかしカグヤという眼前の女性は、一覇のことをまるで不審者あるいは危険人物だとは思っていないようだ。豪奢なベルベットの天蓋付きのベッドに腰を下ろし、ゆったりじっくりと一覇を眺めている。そして美しく、しかしわずかに哀しそうに息を漏らして微笑んだ。
「お主は……似ていないな(、、、、、、)」
「へ……?」
思わず呆けた声を上げてしまった。
それはいったいどういう意味なのか。誰と比べられているのだろうか、一覇にはさっぱり見当がつかなかった。
不思議に思っていると、カグヤは気軽に尋ねてくる。
「お主の名は、なんという?」
「い……一覇……日向一覇……」
「いちは……一覇か、良い名だ。ところで一覇」
カグヤは意味ありげに肩をすくめ、話を大きく変えた。
「箱庭の人間は《愛》を知っているのに、何故その主である我らは知らぬのだ?」
————愛……?
何故と言われても、一覇はあいにくと『神様』などといった存在のことは、とんとわからない。
しかしカグヤは自ら問いかけておいて、正しい答えは求めていないようだ。
「我らは両親という身近な存在さえ、かりそめのものでしかない。我らの命は愛し合って生まれるものではなく、神術で創り出されるものだ。名も、両親が与えるものではない。神託といい、姫巫女が決める……徹底的に《愛》を排除している仕組み」
カグヤは長い脚を組み、生来の妖艶さがもつわずかな笑みを浮かべる。
「おかしくないか?主が知らぬものを、たかが人間が知っている。我らが馬鹿にしてきたモノが、我らよりも優れているなど」
ぞくりとするほど美しく、ひたすら無垢な青い瞳が一覇を見つめる。口調こそどこか雄々しいものの、その本質はひどく女性的な悲哀が見え隠れしている。
カグヤは衣擦れの音を部屋に響かせ、一覇のそばに来た。女性としては背が高く、顔が一覇のすぐそばに寄る。吐息が混じり合う距離の中で、白くきめ細やかで細い指を、一覇の頬にするりと這わせる。
「実に人間らしい瞳だ……お主は《愛》を知っているのだな。両親兄弟への愛、友人への愛、恋人への愛、動物への愛、所有物への愛。妾の知らぬ、そのすべて」
頬から剥き出しの首筋、鎖骨、胸へとカグヤの指が移動する。
くすぐったい、相手が美しい女性なだけに、妙な気恥ずかしさを感じるが、一覇は必死に我慢した。やがて心臓の位置で、ぴたりと指が止まった。つ、と指が胸を這う感触。
「『愛』という文字には、真ん中に心……心臓が記されている。ここで相手を感じることが《愛》。心臓があれば《愛》を知る者、知ることができるという意味だ。だが残念ながら、例外がある。我らだ」
カグヤは一覇の手を取り、自分の左胸に当てる。いきなり手のひらに柔らかい胸の感触を受けて、一覇は一瞬だけあわくった。
どくん、どくんと、自分と同じように規則正しく動く心臓。人間とまったく変わらぬ、優しい心臓の鼓動。
「妾にも心臓がある。なのに、《愛》がどういうものかわからぬ……この國の者は、皆知らぬのだ」
わずかに逸らしていた視線を上げて、一覇の瞳を真っ直ぐに見つめる。震える瞳は、一覇のことを見ているようで見ていない。愛を知らない女神は、一覇を不思議な愛おしさで見つめる。
「お主は知ることが出来たのか、ヨルムンガンド(、、、、、、、)」
【ヨルムンガンド】。
北欧神話に登場する邪神ロキが、巨人アングルボザの心臓を喰らって産んだ己の尾を咬む邪蛇。世界蛇とも言われる。日本では白蛇の化身として知られており、『大地の杖』を名に冠している。
神話では雷神トールとの戦いで、人界の海に沈んだとされている。
その蛇の名が、どうしてここで出てきたのか。一覇にはわけがわからない。
一覇の手からカグヤの手が離れる。ほっとしたのもつかの間、カグヤはまたしても、聞き逃せない発言をした。
「そうか、人間たちはお主を『酒呑童子の生まれ変わり』としていたな……奴の息子、と」
わずかに考えるように細いおとがいに指を当てて、カグヤはやや遠まわしにその答えを教えてくれた。
「まぁ妾にとっては、奴であること(、、、、、)には変わらん」
さきほどと同じ、感情は薄いが妖しさが輝く笑顔を浮かべていた。乏しいなかにも喜び、あるいは悲しみが滲む。もしくはそのすべてが綯交ぜになった、ひとことでは表せられない感情。それすらないのかもしれない。
この短い時間で、彼女の感情の乏しさはどことなく理解した。言葉の表現も、いや、説明するという行為そのものが苦手なのだろうか。とにかくカグヤの言葉の端々で一覇自身が当てるしかない。
まず、一覇は『酒呑童子の生まれ変わり』ではないらしい。……カグヤ曰く。
さきほどからカグヤが言う《奴》というのは、推測から【ヨルムンガンド】のことを指すのだろう。そして酒呑童子は、ヨルムンガンドの息子らしい。
確か二年ほど前に、酒呑童子の異父妹である茨木童子からきいた話では、酒呑童子の父親は白蛇だった。白蛇とはつまりヨルムンガンドを指している。ここまでで得た情報は、どうやら正しいようだ。
いよいよ本題に入るが、カグヤの言葉をそのまま受け取ると、一覇は《奴》、つまりヨルムンガンド本人だということになる。
一覇は人知れず、冷や汗をかいた。
————辻褄が合わない。オレは、『自分が酒呑童子だ』という認識がある。そしてそれは前世の、東雲基のときからのものだ。四季と逸覇も、彼ら自身の存在と受け継がれた記憶で証明している。オレと四季と逸覇は、酒呑童子のドッペルゲンガーだ。ドッペルゲンガーは三人いることで、ドッペルゲンガーたらしめる。しかしそれが……そのロジック自体が間違っているというのか?いや……
よく考えてみると、今や頼りは『記憶』という曖昧で頼りなげな情報しかない。それに四季と逸覇も、間違った記憶を持っているのかもしれない。
すべての真実を確かめるすべがどこにもない。もし本当に一覇がヨルムンガンドだとしても、知っているのは現状で、カグヤその人しかいない。
————どう証明する。オレが『酒呑童子の生まれ変わり』であることを。
逆に否定することは容易だ。前世などという話は、占いという曖昧かつ、不確定なジャンルのひとつであり、例えば役所でその町の人間であると証明する戸籍謄本のような、生まれてから今まで保存された媒体は無い。その戸籍謄本すら、難しいが改ざんすることが可能なのだ。もしかしたら『日向一覇』などという人物は、まったくの別人を引っ張り出して仕立て上げて作られた架空の住人かもしれない。日向家の人間ですらないのかもしれない。そういう可能性だって、完全には否定できない(、、、、)話なのだ。
まさに『歪み(パラドックス)』。
するとカグヤが不意に、一覇の頬をほのかに温かな手のひらで、ひたひたと撫でる。
「お主、妾の言うことが信じられんのか」
責めるわけでもなく、一覇の疑念をはっきりと言い当てた。どうやら彼女は、他人の感情にはやけに敏いらしい。言い合いになれば、核心を突かれてこちらが必ず押し負けると確信し、一覇は素直に頷いた。
カグヤは白魚のような指をすっと、一覇の目元に寄せる。
「お主には“視える”のだろう。その魂がなによりの証拠にはならんか?」
カグヤの言う通り確かに、魂は手を加えられるものではない。そして幽霊や鬼魔など、その霊子が視える体質の一覇には、理論上では生きている魂も視えるはずだ。しかし、あえて生きている人間の魂を視るなど、今まで必要がなかったのでしたことがない。ましてや『視分ける』など。
「そ、そもそも……どう証拠にしようっていうんだよ」
霊子はその五つの性質によって、色が違う。火の性質ならオレンジ、金の性質ならライムグリーン、といった具合だ。プリズム、空気の反射によって決められたそれは、人の個性うんぬんで決まるものではない、と一覇は学園の授業でさんざん学んでいる。
しかしカグヤはなにも揺るぎも淀みもなく語りだす。
「『アカシックレコード』というものを知っているか」
アカシックレコード。
宇宙誕生以来のあらゆる事象、想念、感情を記録している、世界記憶概念を指す。
その存在は物理学や人智学などで積極的に語られているが、不思議なことの代表格である霊子科学分野においても、未だ証明されていない未知の存在だ。
また、解読不能の言語で記されているとも言われていて、例え発見されたとしても人間にはとうてい理解できないとされている。
「そのアカシックレコードが、人類のお主でも容易に解読可能になる道具があるとすれば?」
カグヤが地球四十六億年史をまるまるひっくり返すようなとんでもないことを言い出し、一覇はその壮大さに呆れたようにため息を吐いた。
「いやいや、そんな未来のネコ型ロボットが、未来デパートでホイホイ買ってくるような都合がいい道具があるなんて……」
「妾を誰と心得ておるのだ、月の女王ぞ」
そう多少ふんぞり返るように大きく豊かな胸を張って立ち上がり、ひたひたと裸足で歩んで観音開きの重い樫の扉をそっと押し開ける。振り返り、素っ気なく一言。
「付いてこい」
当然のように怪訝に思うが、とりあえず黙って付いていくことに決めて、こそこそと廊下の様子を気にしつつ歩を進めた。
クリスタルパレスの内部面積は、合計するととてつもなく広い。おそらく東京二十三区を余裕ですっぽり覆えるだろう。しかし上階に行くほど先細り、最上階の『永久の間』に至っては、わずか八畳ほどしかない。
その『永久の間』より一階層下にある全面窓しかない部屋に、一覇はカグヤによって誘われた。
絨毯やカーテンを含めて一切の装飾がない、予備の蝋燭さえ置かれていない。外にいる月光虫の銀光のみが頼りになるこの部屋に、いったいなんの用があるというのだろうか。
「この部屋は普段は使用人はおろか、女王の妾でさえ気軽に入ってはいけない場所だ。『永久の間』以外は仮にも『都民に全棟開放』をうたっているのに、その都民が見るタウンマップにも紹介されていない。クリスタルパレスでも上層部の一部の者しか存在を知れぬ部屋だ」
カグヤのよどみない解説を聴きながら、一覇はガラス窓だと思っていた全面の壁を気にした。よくよく見ると透明ではなく、やや赤みの強い虹色をしているのだ。
————少しだけ……何度か見たことがある、散り際の霊子と似ている気がする。
両親が死んだときの、敵だったはずの青年が死んだときの、いっときだけ心を交わした幽霊の少女が死んだときの……なにがあっても忘れられない、儚い生命の瞬き。手の中の万華鏡のような、空に流れるしゃぼん玉のような美しさを感じる。
命とは金にも、別の命とも替えられない気高いものだが、本質はこんなふうに案外『ささやかな美しさ』なのかもしれない。
————……なんて、死者への冒涜ってやつかな?美しい、なんて。
などと心の端で考えていると。
カグヤはそばにある、もの言わぬ壁を指で丁寧になぞり、わずかに慈しむような声で一覇への解説を続けた。
「ここの壁と床、天井は、ここから真っ直ぐ北にある“朱の鉱山”で採掘された、《賢者の石》で覆われている。————箱庭で死んだ者たちの、霊子の塊だ」
「オレたちの世界で、死んだ人の……?」
言われて一覇もそっと、《賢者の石》といわれる物質でできた壁を五指でなぞる。
ひんやりと冷たく、見た目にも明らかにガラス質の石だとわかるのに、肌に吸い付く不思議な柔らかいとも硬いとも言えない感触。わずかに心臓の鼓動のように、規則正しく脈打っている気がする。
真っ先に、自分の目の前で死んでいった人たちの最期を思い出した。
死にざまはそれぞれ違うのに、共通しているのは霊子の輝き。《賢者の石》と同じ赤みがかった虹色で、ふわふわと飛んでいく粒子。
まったく気にしていなかったわけではない、考えたことは幾度もある。
虚空に揺られて消えていく魂の行方。
『この霊子は、どこに行くのだろうか』。
祖父は敬虔な仏教徒だったらしいが、一覇は両親と同じく、信心深い仏教徒でも、ましてや博愛主義のキリスト教徒でもない。かといって神の存在をまったく否定する、超現実主義者でもない。それでも死者が優しく迎えられると、生者が勝手に信じる天国なんて身勝手なものは、簡単には信じたくなかった。
死者の行先は、天国か地獄……果たして本当にそうなのだろうか。それだけなのか。
父さんと母さんは、いったい世界のどこに消えたのだろうか。
一覇はひたすら惑っていた。
昔レンタルビデオ屋で借りて、弟と観ていた古い名作アニメのように、純白の翼を持った天使たちが迎えにきて、どことも知れぬ世界に連れて行ってしまったのか。
あのシーンを初めて観たとき、幼かった一覇に不安と恐怖が襲いかかった。
描かれているのは可愛らしい天使で、主人公の少年と飼い犬もとても安らかな顔だった。
きっと多くの人が、悲しみのなかに儚さと美しさを感じると称賛するシーンのはずだ。それなのに一覇には、どんなに恐ろしく描かれた死神や悪魔よりも、恐ろしく残酷なもののように映っていた。
簡単に人に説明するなら、『死』を初めて恐れた瞬間なのだと、表現すべきなのだろう。母もそう思い、めずらしくわんわんと泣き出したわが子を優しく抱きとめていた。だが一覇がもっとも恐れたのは、死の先にある魂の行方だった。
自分はなにも残さず、消えてしまうのだろうか。思い出も記憶も、家族から受けた愛も、魂の欠片さえも残すことなく、『日向一覇』という個人は完全に消去されるのだろうか。
自分はどこへ向かい、どこで終わりを見るのか。父と母は、どこに消えたのだろうか。
しかし二年前、初めて自分が別の人間の生まれ変わりだと知ったとき、必死に隠していたが確かに喜びを感じた。わずかに辿れる魂の行方に、両親への想いと期待を馳せていた。なのに。
やっと手に入れたはずなのに、記憶という情報の曖昧さに気付かされて、一覇の気持ちは萎んだ。長年渡ってきた希望の綱の先は、ぎりぎりと刃物で断ち切られようとしていた。一覇のこころは再び、宙をさ迷いだしていた。
しかしその答えがいま、一覇のもとにようやく届いた。
どうしてか、熱い涙がつぎつぎとこぼれてきた。手のひらに感じる《賢者の石》の鼓動が、優しく教えてくれた。
「父さん……母さん……」
手で押さえた口元から、濡れた声がぽつりと漏れる。一覇はたまらずその場で崩れ折れた。
やはり父と母は、天国にはいなかった。ここでずっと一覇を待っていたのだ。
天国など存在しないという真実が、一覇のこころを優しく凪いだ。
ここに来たのは必然か。あるいは運命か。
運命なんて信じないと頑なだった気持ちなのに、信じたくなってしまう。信じそうになる。
少しだけ、ほんの少しだけ、信じてみよう。
なにかが自分を両親のもとへ導いてくれた。あのときから置き去りだった幼い自分を、迎えに来てくれたのだと。
「……ありがとう」
涙をぬぐって、カグヤに心からの笑顔で礼を述べた。彼女はしばしきょとんとしていたが、やがて薄く微笑んで頷いた。
一覇の涙が落ち着いて、ようやく本題が再開されてから、しばらく経った。
「じゃあこの《賢者の石》で造られたここで、例のアカシックレコードが自由に読み取れる……というわけか?」
《賢者の石》の壁をいたわるように優しくさすりながら尋ねる一覇に、カグヤはこくり、と静かに頷く。
「この部屋はアカシックレコードを読んで、未来を予見するために作られたのだ。しかし数少ない『最上の巫女』である妾が、とある者に能力の大半を分け与えてしまったいま、使える者はごくわずか……おそらく、その者とお主くらいだ。お主が真に奴の、『ヨルムンガンドの生まれ変わり』であるならば」
人々の命が結晶化した鉱石《賢者の石》には、宇宙にある流体の『アストラル光』を集める能力があると伝えられている。
アカシックレコードは主にそのアストラル光で出来ていて、月の姫巫女には《賢者の石》を媒体としてアストラル光を寄り集める能力————『神術』が備わっている。神術で子どもを生み出し、両親と名前を与えることで、この國が回っていた。
「《ミニチュアガーデン・プロジェクト》はそもそも、そうした神術に頼った生殖活動を打開するために発案されたものだった。だが……」
一覇は初めて、カグヤの美しい顔が苦悶と後悔、さまざまな負の感情に崩れる瞬間を見た。
両手が恐怖や怒りで震えるさまを必死に押さえつけているせいで、皮膚が赤や白のまだらに変色している。紅をささなくても充分に美しい唇を強く噛んで、眉を大きくひそめる。晴天のような瞳も、精彩をわずかに失っている。
「あの者が……魔女がすべてを一変させた……」
「魔女……?」
カグヤのこれまで見なかった強い感情に呼応して、一覇の声もわずかに歪んでひび割れていた。カグヤは虚空を睨みつけ、その忌まわしい名を口にする。
「“なよ竹の鷹乃”……お主の世界での字名は、皇槻鷹乃、といったか。妾の前の女王だ」
「……!鷹乃さんが……!?」
『史上最強の予見者』、『現代に残る高名な陰陽師』、『最上の巫女』……彼女の輝かしい二つ名は多数あり、三つの絶対血統家でももっとも古い歴史を持つ皇槻家の現当主。政財界にも広く顔がきき、だが人格者として知られる穏やかで茶目っ気のある女性。その一方で、なにか裏のある油断できない人。一覇のなかの『皇槻鷹乃』の印象は、ざっとそんな感じだ。
世界でも確立した立場のあの人が、よもや別の世界で『魔女』とまで呼ばれる忌まわしき存在だとは、とても思えない。
————……いや。オレが知らないあの人の顔は……たぶんたくさんある。きっとこれも、そのひとつなんだ。
と思い直し、驚愕する自分の心をどうにか落ち着かせた。
「鷹乃さんは、いったいなにをしたんだ……?」
一覇の至極自然な問いに、カグヤは口にするのも恐ろしく、おぞましいとでも思っているのか、唇がわななく。意を決して、鷹乃が多くの民に魔女と呼ばれる所以、その大きな罪を口にした。
「力がないことだ」
カグヤの声が、《賢者の石》の壁で反響して一覇の耳朶を打った。それほど大きな声ではないはずなのに、やけに強く感じたのは気のせいかもしれない。
「力が……ないこと?」
あまりにも予想だにしない答えに、一覇はただオウム返すだけ。一覇はこの國の事情や価値観、すべてに明るくない。だからカグヤが恐れる罪がどれほど深いものなのか、どういう意味を持つかすら想像できない。
「どういうことなんだ?」
カグヤの気分を害してしまう、と今までの様子から容易に考えつくが、一覇には彼女に尋ねるしかできない。思った通り、カグヤは苦しそうにまぶたをきつく閉じて、それでも答えてくれた。
「言葉通りの意味だ。この國では、神力のない者は存在自体が罪。《籠人》と呼ばれ、最果ての監獄所————籠場で永遠のときを過ごすはずだ。だがあの者はどういう仕掛けか、神託で女王に選ばれ、すべての民を欺いていたのだ……!」
カグヤの肩が小刻みに震えている。
これは怒りか。カグヤと鷹乃、そしてこの國の民とのあいだにあった出来事を知らない一覇にはなぜ、怒りに相当するのかわからない。だが、首筋がちりちりと焼け付くほどのカグヤの怒りの炎を、痛いほどに感じていた。
謎が多い。だが一覇には、もっとも謎を感じる部分があった。
「力を分け与えた、って言ってたよな?それはどうして……」
カグヤは鷹乃に、『最上の巫女』たる能力……神術を分け与えたと言っていた。ここまで蔑み、憎む相手にどうしてそんな国事にも関わる大事なものを、しかもその大半を捧げたのだろうか。
しかしカグヤは答えなかった。代わりに一覇の手に、自らの手を重ねる。
「視れば、わかるだろう。これがすべての答えだ」
瞬間。
一覇の視界は、光の奔流に包まれた。思わずまぶたをきつく閉じる。
体感でたった数秒間。光がおさまったと感じて目を開けると、そこはもう《賢者の石》の部屋ではなかった。
見渡せば鮮やかな朱色の柱が並ぶ、長く広い廊下。周りは草木が生い茂る中庭だ。クリスタルパレスのどこかであることは、建物の意匠でわかる。
視界が揺れた。歩いているようだ。自分では足を一歩も動かしていないのに、視界は黙々と歩を進めている。そしてその視界の端で、舞姫を見つけた。
誰も通らない中庭で、ひとりきりで典雅に舞う姫巫女。
衣装は赤と白のコントラストが眩しい、演舞用の巫女服。よく磨かれた金の髪飾りと耳飾り、首飾りと腕輪がしゃらんと鳴る。風に躍る長い髪は、光そのものを閉じ込めたような金髪。そして。
大きな碧の瞳には、なぜか大粒の涙が光っていた。
「……カグヤ姫?」
一覇の声ではない声が、彼女をそう呼んだ。
舞姫————カグヤが振り返って、こちらを見ている。さきほどよりかなり、幼い印象を受けた。一覇と会ったカグヤが二十代前半くらい、今見ている彼女は十代中頃から後半といったところか。元から年齢が判りにくいので、たぶんだが。
丁寧に塗られたおしろいが崩れるのも構わず、カグヤは涙を乱暴に袖口で拭う。
「何用だ、文官よ」
わずかにこもった鼻声で、カグヤは憮然と尋ねる。一覇の視界がまた揺れた。さくさくと小気味よい音を立てて芝生を横切り、カグヤに近寄った。視界の主である文官の男が恭しく跪き、挨拶をした。
「失礼いたしました、カグヤ姫殿下。私は月の都第三位文官、ヨルムンガンドと申します」
文官の男————月の都では王族にしかいないはずの、金髪碧眼を持つヨルムンガンドの挨拶を受けて、カグヤはフン、と鼻で笑った。
「お主のことだったか、蛮族……太陽の都出身の、言葉がうまくて手が早いだけの成り上がりバカ文官というのは」
カグヤの態度と言質は明らかに馬鹿にしているというのに、ヨルムンガンドは余裕のある笑顔で応対する。
「姫殿下に覚えていただいて、光栄にございます」
その態度がものすごく気に食わなかったのか、カグヤは思い切り舌打ちをし、顔を大きく歪める。口はへの字で目は半眼。その顔は、せっかくの美貌が台無しだった。とてもさきほどまで、美しい舞をまっていた女の子とは思えない。
————なんだか……本当にあの人と同一人物なのか?
一覇が知る限りの『カグヤ』という人物は、このように感情を明け透けにする女性ではなかった。言葉遣いがやや雄々しいものの、もっと言葉も、感情も表情も、控えめだった。それからさきほどから気づいていたことだが、一覇の視界がヨルムンガンドのものということは。
————やっぱりオレは、ヨルムンガンドの生まれ変わり、ということか……?
ここが《賢者の石》の作用で視えている、記憶の世界……アカシックレコードの中だということは、間違いないだろう。
てっきり見知らぬ文字の羅列の、古めかしい書物が出てくると想像していたので、少々拍子抜けしたが、こちらの方がわかりやすくて結果オーライだ。
「で、いったい妾に何用なのだ。この男ビッチのド腐れ変態が」
言葉ついでにカグヤはその清らかそうな白く細い中指を、上に思い切り突き立てていた。顔はやはり、大きく崩れている。
————なにもそこまで言わなくても……というかあの人、姫なのにくっそ口悪いな!
一覇のなかのカグヤ像が、がったがたに崩れて、粉塵となって飛んでいった。
「いえ、特に用はなかったのですが」
ヨルムンガンドの余裕しゃくしゃくの声に気を取り直して、一覇は事の成り行きを静かに見守った。
「姫殿下は?今日は神託の儀式があると、人づてにきいておりますが」
「フン、お主に話すことはない。そこらのビッチと乳繰りあっておれ」
人好きのする笑顔で話しかけているヨルムンガンドを、しっしっ、と犬畜生のようにぞんざいに追い払おうとするカグヤのジェスチャー。しかしヨルムンガンドは嫌がりもめげたりもせず、カグヤに笑顔を向けた。
「サボり、ですか?」
「やかましい」
美しい紅がさされた唇を尖らせて、芝生にどかっと腰をおろすカグヤの隣に、自然な所作で気軽に座るヨルムンガンド。その態度は、妙に馴れ馴れしいとも言える。
「私も少しだけ、休憩中です。なにせ仕事が多くて、肩がこるのなんの」
「きいてない。肥溜めに帰れクソビッチ」
とうとう唾を吐く姫巫女だが、ヨルムンガンドはまるで気にしない。会話にならないこともお構いなし、よっこらせと芝生に背中を預けた。さぁ、と心地いい風が肌を撫でる。カグヤの美しく長い金髪が、ゆらゆら揺れる。
「ここはいつ来ても、風が優しいですね。まるで神風のようです」
カグヤが初めて、ヨルムンガンドの顔をまともに見た。ヨルムンガンドのどこまでも澄み渡る青い瞳を見て、目が合った瞬間に逸らす。両膝を抱えて、唇をひどく不服そうにすぼめ、呟いた。
「……神などいない」
彼女の絶望の淵に立たされたような呟きを、ヨルムンガンドは隣でただ黙って聴いていた。
「神などクソ役立たずだ、死ねばいい。いるならなぜ、父上と母上を見殺しにした。いない方がマシだ。クソ……クソ……」
文句を呟いているうちに、カグヤのその大きな目に涙がにじんできていた。膝を抱く細い両腕に、徐々に力がこもっていく。
カグヤの両親は、先のクーデターでともども公開処刑された。都に姫巫女はカグヤだけだったという現実が、彼女の命だけを救ったのだ。
しかしクーデターにより多くの民を喪った都は、急ピッチで人口を増やそうと、カグヤに多くの神託を要求する。今のカグヤにまともな休みはない。まだ幼い彼女には、心にも体にも相当の負担になっているだろう。
「クソだ……父上と母上を殺した奴ら……妾たちを見捨てた兵士たち……みんな、みんな死ねばいい……神も、月の民も、みんなみんな……みんなッ!!」
とうとう涙は決壊し、滝のように流れて、半ば叫んでいた。小さな両拳が豊かな芝生を乱暴に叩く。徐々に草がはげて、土があらわになる。白い拳が土で汚れ、傷ついていた。それでも構わず、地面を仇であるかのようにように力いっぱい叩き続ける。
最後に一段と強い力で殴りつけて、肩が息を切らせて上下していた。歯ぎしりの奥で、荒々しく叫ぶ。
「この世界は……クソッタレだ……ッ!!」
その瞳は怒りで燃えたぎっていた。痛いほどの、怨み怒り憎しみ苦しみ。視線で見えない相手を射殺さんとばかりに、ぎらぎらとしている。
「……そうですねぇ、それには同意です。この世界はクソです」
ヨルムンガンドがかなり場違いな、のほほんとした口調で、しかしきっぱりと言った。その声に、カグヤはいっとききょとんとして、しかしすぐにヨルムンガンドを睨みつけて声を荒らげる。
「わ、妾を愚弄しているのか!?」
「素直に意見を述べたまでですよ」
ヨルムンガンドはあくまで態度を変えず、あまつさえ男前の笑顔で、穏やかな口調でぺらぺらすらすらと、口汚い言葉を次々に並べ立て始めた。
「世界はクソ。神様も王様も、民もみんなクソ。うんこですようんこ。肥溜めから生まれる~とかよく言いますけど、肥そのもの、つまりうんこです。低脳な銀バエのエサですよ。ぶんぶんたかられる、くっさいうんこですよ。あーやだやだ、うんこはやだなーっと」
「そんなにうんこうんこ言わんでも……」
そこまで徹底して連呼されると、逆に頭が冷えてきた。だがヨルムンガンドの口は、マシンガンのように止まらない。さらに際どい言葉が呼吸するかのようにぼろぼろ出てきて、カグヤの方が耐えられなくなり、いよいよ止めにかかった。
「も、もうよいだろう!この辺でやめておこうぞ!」
するとヨルムンガンドは、心から非常に残念そうな表情をとる。
「えー、姫殿下の方がすごいことおっしゃってたのに?蛮族のド腐れクソビッチとか」
「そこまで言っておらんわ!」
「まるっとほぼそのまま、おっしゃってましたよ」
「うっ!いや、その……その件に関しては……わ、妾が、悪かった……デス」
「まぁ噂と紙一重のことしてきましたしね。あながち嘘でもないので、私は特に気にしておりませんよ」
風が優しく穏やかに、ふたりのあいだを撫でる。
ヨルムンガンドの横顔を、カグヤはそっと上目遣いで覗いた。彼の顔には相変わらず清潔そうな笑顔が張り付いていたが、言葉には心の奥が、本当の心が見え隠れしているように感じた。
「すまない……」
「どうして謝るんですか?」
前で組み合わせたカグヤの両手に、自然と力がこもる。
「わ、妾は父上と母上以外に、まともな人付き合いをしたことがないのだ。だから昔から、他人の心を慮ることが苦手で……」
カグヤは緊張していた。喉が乾く。
対等の人として、こうして話す相手はいなかった。周りの人はみな、自分より下の存在であり、心を読んで気遣う必要はない。なかったはずだ。
この男も、自分より下の相手。そのはずなのに。
ヨルムンガンドの横顔に秘められた気持ち。それを軽々しく踏みにじった自分が、許せなかった。
しどろもどろ、しかし不用意な言葉は使わないように、カグヤは生まれて初めて素直に頭を下げる。
「お主の心を、ひどく傷つけた。すまない」
人に嫌われることなんて、今まで考えもしなかった。嫌われたところで、世界はなにも変わらない。
————でも、妾はこいつに……嫌われたくない。
どこか似たような気がする青年と、仲良くなりたい。そう思った。似ていると思った理由を、いつか知りたい。
かの高貴な姫殿下に頭を下げられて、ヨルムンガンドはあわくった。
彼女の良くない噂は、太陽の都にいた昔からよくきいていた。ワガママし放題の、最低最悪な暴虐の姫君。
しかしクーデターのしばらくあと、文官になってから、もしかしたら会う機会ができるのでは、会ってみたい、という思いが生まれた。できるなら自分と彼女の『同じ部分』を共有したいと、思うようになった。
この気高く美しい、月の都の姫巫女と。
しかしすぐに、自分の望みを否定する声。
————彼女と同じだなんて、おこがましい。彼女と僕は、違う……。
姫殿下に伸ばしかけた手が躊躇い、悲哀と現実に震えた。
「……頭を上げてください、姫殿下。そうだ、お腹すきませんか?おやつにしましょう。ちょうど城下の市場で買ってきた、どら焼きがあるんです」
ヨルムンガンドはそう言って、小脇に抱えていた小さな紙袋を漁りだした。
「どら……やき?なんだそれは」
「小麦粉の甘い生地に、あんこを挟んだ月の都伝統の、庶民のお菓子ですよ。はい、どーぞ」
紙に包まれた、こんがりときつね色に焼かれた丸い柔らかな菓子が差し出される。カグヤは初めて見た食べ物を慎重に受け取り、匂いを嗅いでから、おそるおそる口に運んだ。
「……甘い!!うまぁ!!なんだこれ、すごくうまいぞ!」
年相応の少女らしく、瞳を輝かせてどら焼きの断面を熱心に見つめては口にしていた。
その可愛らしい様子に、思わず微笑みがこぼれる。
「姫殿下は甘いものを召し上がったことがないのですか?」
少し大ぶりなどら焼きをぺろっと食べ終えたカグヤに尋ねながら、自分も食べようと紙袋に手を差し入れる。
「甘いものを食べると虫歯になるからと、侍女がくれないのだ。あっ、こんなに食べてしもうた、虫歯になってしまう……!」
慌てて黄色い食べかすだらけの口を押さえるカグヤ。それもまたいちいち可愛らしいと、もし妹がいたらこんな感じなのかなと思い馳せる。母親以外は男だらけの家系だったから、年下の少女との交流はほとんどなかったのだ。
「よく歯磨きをすれば、少しくらい大丈夫ですよ。こちらもいかがですか?中身が芋あんですよ」
「おお、いもあん!!くれ!」
喜んで無邪気に伸ばすカグヤの手に、芋あんのどら焼きを握らせる。
と、そこに。
廊下からぱたぱたと忙しい足音と、女性のひどく慌てた声がした。
「姫様……!どこにいらっしゃるのです、カグヤ姫殿下!」
「……侍女が呼んでいる、もう行かなくては」
少し惜しそうに、頬をぷくっとふくらませる表情。
やがて立ち上がって、装束に付いた土を払う。侍女のもとに駆け寄った。と思ったら途中で立ち止まり、こちらに振り向いて呼びかける。
「……文官!」
「はい、姫殿下」
ごみを片付けていた手を止めて、ヨルムンガンドが応じる。
「姫殿下はやめろ、カグヤでよい。……また、お主に会えるか?……ど、どら焼きが欲しい!ただそれだけだ!べべべ別に他意はない……!」
体をもじもじとさせて、それから頬を朱に染めて尋ねるカグヤに、もう一個だけ残ったどら焼きを投げて寄越す。
「カグヤさまがお望みなら、約束いたします」
どら焼きを受け取ったカグヤに、笑顔で告げる。カグヤも花のような笑顔で答えて、侍女のもとに駆けていった。
「では約束だ。また会おうぞ、ヨルムンガンド」
それが、カグヤとヨルムンガンドのはじまりだった。
カグヤは神託の儀式や勉強、習い事を抜け出しては毎日、ヨルムンガンドに会いに中庭までやって来た。ヨルムンガンドも、仕事の合間にいつでも市場でどら焼きを買って用意して、カグヤを待った。
よく晴れた日も、寒い雨の中でも、ふたりの交流は決して途絶えることなく続いた。そのあいだに、たくさん話をして、笑いあい、ときには喧嘩もした。つい最近になって、若き姫巫女であり続けるカグヤのどんな悩みでもきき、よき相談相手であり、最大の理解者になっていた。
カグヤにとって儀式や勉強など、退屈でつらい毎日のなかで、ヨルムンガンドの存在が唯一の支えとなっていた。
しかしそのあいだで、ヨルムンガンドがカグヤに自分の話をしたことは、一切なかった。
なにが好きで、なにが嫌いで、家族は何人いて、どんな家だったのか。前評判でさえ、噂でしか知らなかったのだ。
太陽の都出身で、多くの高官に取り入って今の地位についた、女たらしで女好きの狡猾な優男。
しかし今となっては、カグヤのなかではその噂さえも、民の戯言のような気がしてならない。
彼のことを知りたい。本当の彼を知りたい。そう思うようになった。
ある日、カグヤはいつも通りにヨルムンガンドが市場で買ってきたどら焼きを食べる手を止めて、おそるおそる尋ねた。
「のう、ずっとお主に、ききたかったことがあったのだが……今きいてもよいか?」
ヨルムンガンドはどら焼きを手に、いつもと同じ、優しい笑顔で気軽に応じた。
「私に答えられることなら、なんなりと」
「……お主はどうして、この月の都に来たのだ?太陽の都といえば、この國よりもよっぽど大國であろう」
するとヨルムンガンドの顔が、途端に曇った。よどみ、迷い、口を開いては躊躇う。
やっぱり話さなくてもいい、とカグヤが話題を切ろうとしたとき。ヨルムンガンドの重い口が、とうとう開かれた。
「私はカグヤさまと同じように、國に裏切られた皇子でした」
ヨルムンガンドの真実。笑顔の裏に隠された暗い過去がいま、つまびらかに明かされる。
自分が彼に惹かれた理由が、はっきりとわかる予感がした。
ヨルムンガンドが頭をかいて困ったような、恥ずかしそうな微妙な笑みを浮かべた。
「……と言っても、ご立派な月の姫巫女であらせられるカグヤさまと違って、皇位継承権が第九位とかその辺の、いわゆる名ばかりの圏外なんですけどね。優秀な兄がたくさんいて、一番下の私には公務や政治なんて、縁がありませんでした」
ゆっくり話すつもりで、ヨルムンガンドはカグヤに、新しいどら焼きを差し出した。
自分もどら焼きをひとくちだけ含んで、生地と餡の甘さを少し味わってから続きを明かす。
「太陽の都も十五年以上も前に内乱が起こり、皇族を裏切る者がたくさん出ました。同じ皇族の間でさえ。父と母、年の離れた兄たちはみな、幼い私をひとり城に残して囮にし、都を離れました」
ヨルムンガンドの眼は、今は遠い過去を見ていた。
信じていた家族全員に置き去りにされて、絶望と淋しさしかない幼少期。
カグヤは最期まで自分を守ってくれた優しい父と母を思い出し、幼いヨルムンガンドがどれだけ悲愴に打ちひしがれたかを、比較するように想像した。
「ご存知の通り都は滅び、私は捕虜として月の都で生かされ、それからは……生きるためになんでもしました。いろんな立場の人にかしづいて取り入って、ときには這いつくばって残飯をあさり、拾ってくれた優しい人も売り渡し、舐めろと言われれば恥も外聞もなく足を舐めた。とてもこの場では口にできないおぞましいことも、今思えば平気でたくさんしてきました」
初めて出会ったときの、ヨルムンガンドのことを思い出した。
『まぁ噂と紙一重のことしてきましたしね。あながち嘘でもないので、私は特に気にしておりませんよ』
————これは、そういう意味だったのか……。
「それから何年かして父と母、そして兄たちが残らず処刑されたと知らされたとき、私は心の底から喜びました。ざまぁみろ、僕をひとりきりで置いて逃げて、こんな目に遭わせた罰だって。私は……」
ヨルムンガンドの青い瞳が、わずかに伏せられた。それから自分に対する強い憎悪が浮かんだ言葉。
「カグヤさまと違って、汚いんです」
折れてしまった心は、醜く汚れてしまった。元に戻ることはなく、それどころかどんどん汚れはこびり付いた。そのうち……いま生きている理由すら、わからなくなってしまった。
なぜここまでして、生きなくてはいけないのか。なぜ地面を這ってまで、泥だらけになっても進まないといけないのか。
折れた脚ではどう歩けばいいのかわからないから、誰かに肩を貸してほしいと叫んでいる。しかし誰か助けてとやかましく鳴く声も、やがて枯れてしまい、誰かがこの道を通るときを黙って切に待っている。いまも……。
「妾もうんこはするぞ」
「……は?」
カグヤの突然の意味不明な告白に、ヨルムンガンドは思わず素っ頓狂な声を出した。
それでもカグヤは真面目に堂々と、文字通り包み隠さず生理現象を次々に並べ立てる。
「おしっこも出る。おならも出るし、おならはバラのにおいではなく普通に臭いし、鼻くそも耳くそ目くそも出る」
「え……いやカグヤさま。汚いというのは、そういう意味では……」
というか女の子の……お姫様の口からそんな言葉は聴きたくなかった。こういう人だとは、もちろん初めて会ったときから、わかっていたつもりだったが。
「お腹はすくし、どら焼きはうまい!つらいときはつらいし、嬉しいときは嬉しい。……さみしいときは、さみしい。民も王も、大人も子供も、男も女もない。みな同じだ」
民衆はその民を生み出し親と名を与えられる、たったひとり姫巫女のカグヤを神と崇めるが、カグヤだって普通の女の子だ。父と母に甘えたり、街を歩いて買い物したいし、年相応のおしゃれをしてみたい。対等の友人とお茶を飲み、甘いものを肴に好きな小説の話や昨日あった出来事、好きな人のことを語り合いたい。
でも泣きたいときには泣いて、笑いたいときに笑う。そんな素直な自分だけは、絶対に守りたいから。
「裏切られたときには、悪口をめちゃくちゃ言う。当たり前だ、みな傷つき折れる心があるのだから。それでも折れてしまったときは……添え木をしてやればいい」
カグヤがこの中庭でも、ひときわのびのびと生きている木を指し示した。キンモクセイの木だ。
キンモクセイは、この月の都では珍しくない。しかしなぜか、ここクリスタルパレスではあまり見ない。今の女王がキンモクセイを嫌って、庭師に刈らせたという噂を耳にしたことがある。このキンモクセイは、その災禍を逃れた唯一の木ということだろうか。
クリスタルパレスでたった一本のキンモクセイは花が美しく咲き乱れ、甘く芳醇な香りが広がっている。その幹には、添え木をしたあとが見える。
「昔、庭師のじいさんにきいたんだがな、木は折れてしまっても、添え木をしてやれば、折れたところもまた元気に伸びるんだ」
カグヤが立ち上がり、その木のそばに行く。折れていた幹は添え木に支えられて、今や太く立派に育っていた。
どんなに傷つき、折れて、泥だらけになり、汚れてしまっても。
この立派に美しく育った、気高いキンモクセイのように。
「妾も負けないように、輝いていたい」
最後には立ち上がり、この広い空を見上げていたい。
「カグヤさまは、眩しいな……」
まばゆく気高いその魂は、曇りなど一片も見当たらない。
一見そばにあるようで、手が届かない星ぼしのように。
「え、妾まぶしいの?うざい?」
困ったようなカグヤが可愛らしくて、ヨルムンガンドはくすくす笑いながら答えた。
「違いますって。私の常闇の道を照らしてくれる……いわばたったひとつの道しるべなんです」
そう言うと、カグヤは少し照れくさそうに目を逸らし、しかし輝くような笑顔を向けた。
ヨルムンガンドも、釣られて笑顔になった。生まれて初めて、ようやく心から笑えたような気がした。
雨風に冷えて傷ついたこころに、暖かな光が差し込んだ。
必死に叫んだ声が、ようやく届いたのかもしれない。歩き出せるときが、来たのかもしれない。
差し伸べられた手をとり、進める。
その無垢なる《愛》を、神より先に知ることができたのだ。
きっとこれからこの日の彼女の笑顔とともに、この高貴なるキンモクセイの香りを思い出すだろう。いや、覚えていたい。
だけど月明かりなど、ただのまやかしだったのだと……傷ついたものは決して元には戻らないと、神の國などありはしないと。魂の行方は、天国などではないと。
気付かされたのは、そのすぐあとの話だった。
あのキンモクセイの香りは、ヨルムンガンドの脳裏に今も強く残っている。
亡霊×少年少女 第二十二話 了
この第二十二話では、ずっと温めていたエピソードがあります。
まだこの『亡霊×少年少女』という物語がおぼろげだった頃、キャラクターの名前すら定まらずコロコロと変化していた頃。これだけは入れたい……というエピソード、風景が鮮明に残っていました。
キンモクセイをそばに語る、カグヤとヨルムンガンド。その木に彼らがなにを思ったのか、なにを願ったのか。
残念ながらその答えは構成の都合上、切ってしまいましたが、最後まで見届けてくださると嬉しいです。
キンモクセイ、今の時期、綺麗に咲いてますね。彼らの想いの端を感じながら香りを楽しむのも、一興かもしれません。
それではまだまだ続くこの物語、しばしお待ちを!!
2016.10 ひなたでした〜!




