卯月
「亡霊×少年少女」過去編第十五話です!どーぞ!
亡霊×少年少女 第十五話『卯月』
二〇〇九年七月十二日、午後三時四十分、放課後。
神奈川県横浜市中区、私立久木学園高等部第一校舎の屋上テラス。
久我原千歳から話をきいたあと、河本一覇は矢倉四季の携帯電話に電話をかけた。当然、出るはずがないとわかっている。だが、どうしても話をしたかった。話をせずにはいられなかった。
『もしかしたら……四季は遥佳なんじゃないかって』
千歳の言葉を鵜呑みにするわけじゃない、あくまで可能性の話だ。もし、四季が遥佳だとして、一覇が基だということを四季が知っていたなら。
『一覇が……欲しい』
あの告白は、もしかして。もしかして、遥佳のものではないのか。だとしたら四季の意思はどうなる?遥佳は今も……今も『オレ』のことが好きなんじゃないか。
電話は出ない。当たり前だ、四季が逮捕された時点で、警察に没収されている。
「くそっ……!」
今のオレは、なんの力もないガキだ。基じゃない。
ブーブーブーブー。
突然、一覇の手の中にある携帯電話がバイブレーションを鳴らした。メールではない、電話だ。誰だろうと思って画面を見ると、表示は『公衆電話』。
とっさに四季だ、と思って通話ボタンを押す。
「もしもし!?」
『…………』
相手はなにも喋らない。
「四季……?」
『…………これから……来れるか……?』
「どこに……?」
『瀬谷区……の、防空壕跡地……わかる……?』
瀬谷区は区画整理されていて、当時とはだいぶ変わっている。あの松野兄妹が過ごした防空壕がまだあるのかわからないが、一覇は行くと答えた。
電話を切って荷物を取りに教室へ戻ると、双子の弟の日向逸覇がいた。一覇は声をかけようとしたが、ふいに声が聴こえたのでとっさにやめる。
「日向逸覇、アンタの目的はなんなの?」
七海沙頼だ。沙頼は逸覇の正面で、小さな体をふんぞり返るように反らしている。逸覇は余裕たっぷりに答えた。
「君に教える義務はないよ」
「じゃあきき方を変える。アンタは何者?」
逸覇はとぼけるように答えた。
「日向逸覇だけど?」
「ふざけないで!!アンタ……本当は全部知ってるんでしょ?酒呑童子のことも……ドッペルゲンガーの話も」
ドッペルゲンガー?なんの話だ?
逸覇は鼻で笑った。
「君ごときが知ってるんだから、ボクも当然知ってるよ」
「前回のドッペルゲンガーは全員、一九七四年に死んだ!ということはもう生まれているんでしょ!?」
逸覇は赤い瞳を日の光に輝かせて、答えた。
「……酒呑童子のドッペルゲンガーは、ボクだ」
「ということはアンタが東雲基?」
「まさか。ボクは……松野雪片、《災厄の悪魔》だ」
一覇は息を飲んだ。
そんな、嘘だ、まさか、でも。
信じたくはなかった。でも、信じてみたかった。あの日に置き去りにされた心が今、取り戻される。
一九七三年九月十一日、午後八時十分。
神奈川県横浜市中区、矢倉邸の中庭。
東雲基、二十五歳。矢倉時雨、二十七歳。矢倉遥佳、十七歳。
「基、またここにいらしたの?」
「時雨さん」
芝生で横になる基を、時雨は見下ろしていた。となりに腰掛ける。
「お仕事はどうなさったのですか?」
「やめる」
「やめる……ってえぇ!?どうして!?」
時雨は文字通り飛び上がった。今の仕事が上手く行っていない様子は見受けられない。むしろよくやっていると、評判は上々だ。
「このお仕事、時雨さんのツテでしょ?なんか……奥さんに甘えてるダメ夫みたいだから、新しいところを自分で探そうと思って」
「プライドの問題ですか……くだらない」
「くだらなくないですよ!一家の主として、大事なことです!まぁ……給料は下がるけど、いいとこ見つけますよ!」
元々絶対血統家の仕事は羽振りがいい。今以上の職場を求めるなら、軍に戻る以外にありえない。
「まぁ、おじいさまに認めてもらうには、それくらいはしないといけないかもしれませんね」
「そう!!だから……もう少し待っててください、時雨さん」
起き上がって、時雨の頭をそっと撫でる基。時雨は目を閉じて、基に撫でられる感触を気持ちよく思う。
時雨の左手薬指には、小さなシルバーの指輪。基が貯金をはたいて贈ってくれた、婚約指輪だ。
この頃二人の噂は、屋敷内外によく飛び交っている。本人たちは気にしない。認めているようなものだ。おそらく時繁の元にも噂は向かっている。
それでも二人は、常に一緒だった。
九月十三日、午前十時。基は仕事を探しに、中区の工業地帯にいた。
前日に職場に辞めると伝えてきて、今日は新しい職場の面接。今まで面接なんて受けたことはないから、緊張する。富山工業というところだ。
午後一時。基は時雨の待つ矢倉邸へと戻った。仕事はとった。あとは時繁に認めてもらうだけだ。
「遥佳」
矢倉邸西にある道場に、遥佳がいた。時雨は遥佳の日課を知っているので、遥佳が好きなあんみつを作って持ってきた。
案の定、遥佳は道場で剣道の稽古をしていた。
「遥佳、休憩しませんか?あんみつを持ってきたのです」
遥佳はタオルで汗を拭いて、冷ややかに答えた。
「いらない」
「まぁまぁ、疲れたときは甘いものというでしょう?」
「……姉さん、変わったね」
「なにがですか?」
「雰囲気……というか表情というか……」
「そっ……そんなに変わりませんよ!」
————嘘だ。姉さんは変わった。前より優しくなった。前より穏やかになった。どうして……
「どうして……」
こんなに腹が立つのだろう。
「遥佳……?」
腹が立つのは、基と時雨が幸せだから。自分には得られなかった幸せを、姉が攫っていったから。もう、気持ちを我慢せずにいられなかった。それほどに、遥佳は追い詰められていた。
「あたしだって基が好きだったのに!!!!!」
時雨は息が止まった。妹の涙がひどく滝のように流れている映像が、強く残った。
「遥佳……?」
なにを言っているの?ときこうとした声は、テープのように絡まって、解けない。遥佳が泣いている。泣きわめいている。
「あたしはずっと……ずっと基が好きだった!!でも姉さんが基のことを好きだって知って、あたしは……」
————わたくしのせいでしょうか。彼女が泣いているのは、全部……
遥佳は下を向いたまま、低く唸った。
「姉さんの妹でなければよかった……!」
そのまま踵を返して、遥佳は走っていった。時雨は追った。
「遥佳……っうっ……」
時雨はお腹を押さえて、その場に倒れ込んだ。その音を聴いて、遥佳は立ち止まった。振り返ると、姉は下腹部を押さえている。
「ね、姉さん!!」
遥佳は救急車を呼んだ。時雨が運ばれたのは、市内の産婦人科だった。
「妊娠……四ヶ月?」
付き添った遥佳の声に、初老の男性医師は頷いた。
「えぇ、母子共に順調です。父親の方はどちらに?」
がたん。
診察室のドアが開き、連絡を受けた基が慌てて駆け込んできた。カーキ色の仕事着のままだった。仕事場から走ってきたのか、額に汗をかいている。
「あぁ、お父さんですか」
「時雨さ……妻は!?」
「こちらにいらっしゃいますよ、どうぞ」
そう言われて隣の診察室に案内された。時雨はベッドで横になっていた。ゆっくりと目を開けて、基の姿を見て顔を綻ばせる時雨。
「基……」
「時雨さん!!本当に……?」
時雨を気遣うように、そっと手を伸ばす基。
「嘘で呼び出されたりしますか?貴方……父親になるのですよ」
「やっ………………………たぁーーーーーーっっ!!!!!!!!!!!!!!!女の子?男の子?」
「気が早いですよ、もう」
基は気が狂ったように喜んでいた。
「名前は!?なににしますか!?」
「だから気が早いと言っているでしょう」
その二人の姿を見て、遥佳はなにも言えなかった。そのまま黙って病院を出て、遥佳はどう行ったのか覚えていないが、家に帰りついた。家では大騒ぎだった。
「遥佳様!時雨様は……?」
遥佳の姿を見つけた使用人が、遥佳に駆け寄って時雨の様子を尋ねる。
「姉さんは妊娠しているわ。四ヶ月、順調だそうよ」
使用人たちはわっと盛り上がった。矢倉家の跡継ぎが生まれるかもしれない。その話は瞬く間に家中をかけ巡った。しかし
「遥佳、どういうことですか。時雨はまさか、あの男と……」
母のトキは、基のことが嫌いだ。その存在が汚らわしいとさえ思っているだろう。孫の誕生よりも、自分の娘が嫌いな男と汚らわしい行為をしたという事実が、頭をかけ巡っている。
「遥佳、時雨をここに連れてきなさい」
「無理よ、今は病院にいるわ」
「どこの病院よ!」
「……言わない」
「なんですって!?」
————なにをしているのか、わかんないや。
「姉さんは今、大事な期間なの!お腹の赤ちゃんになにかあったらどうするつもり!?」
「遥佳……あなたはあの男の味方なの!?」
母のこういうところが嫌いだ。自分の思った通りにことが進まないと、大人子供関係なく味方を求める。
「別にそういうわけじゃないけど、あたしが姉さんと赤ちゃんが心配なだけ!」
「やっぱりあの男の味方なのね!?」
人の話を聴いて欲しい。母を相手にしていると疲れる。だからこの母親は嫌いだ。なんとか言い返そうと思っていたら、時雨が基とタクシーで帰ってきた。
「時雨、どういうつもり?その子供、生むの?」
トキが時雨に詰め寄る。基に不満があるはずなのに、なぜ基に直接言わないのか、遥佳は不思議で仕方なかった。
トキの問いに、時雨は強く頷いた。なにがあっても生む、そういう顔だった。その確固たる態度がトキの逆鱗に触れ、時雨は思い切り責められた。
「まだあなたは結婚していないのよ!?それを結婚前にこんな男と……順序を踏みなさい!」
それらしい弁を立てているが、結局母が言いたいことは世間体だ。あの矢倉家息女が、使用人だった男と子供をこさえた。これ以上の汚名はない。
「申し訳ありません、母さま。ですが基は立派な人間です、わたくしたちは」
「この度はまことに申し訳ありません、トキ様。責任はすべて私が取ります」
時雨の言葉を基は遮ってまで、自分でトキを説得しようとした。責任を感じていた。基の言葉を、トキは鼻で笑って一蹴した。
「あなたのような子供が父親になるなど、思い上がりも甚だしいですね。そもそも、あなたの血が入った子など、矢倉家にはふさわしくありません」
「なら矢倉家でなければいいのですか?」
「……どういう意味です?」
基は時雨の肩を抱き、高らかに宣言した。
「時雨さんは、私がもらいます!」
その基の言葉に、その場にいる全員が唖然とした。トキなど、顎が外れそうな顔をしていた。しばしの沈黙ののち、トキが金切り声で叫んだ。
「なっなにを馬鹿なことを言っているのですか!?あなた……正気ですか!?」
「正気です」
基は時雨を抱えて、走り出した。
「そういうわけで、今日から東雲時雨でーす!」
トキの金切り声が聴こえた。それでも基は一心不乱に夜の道を駆け抜けて……
時雨と一緒に笑った。二人はどこまでもどこまでも走って、やがて大きな公園に着いたところで、基は時雨を降ろした。
息を切らせる基に、時雨は少し不安に思って尋ねた。
「基……貴方、本気なんですか?」
「今更……?時雨さんはやっぱりイヤ?」
「嫌ではありませんよ!それはもちろん……嬉しいです。でも、家族三人で暮らすには、今の貴方の収入で大丈夫かどうか……」
それは確かに、言われるまでもなく不安材料だ。高度経済成長期の現在、基が働く工業地帯も賃金が格段に上がっているとはいえ、まだまだ国内では普通かそれ以下の年収である。
「生活レベルはずいぶん下がるけど、困らない程度には食べさせていくつもりですよ」
きっとトキはカンカンで、時繁にも報告していることだろう。どちらにしろ、後戻りはできない。
「時雨さん……一緒についてきてくれますか?」
基の伸ばす手を、時雨は案外迷いなく取った。
もしかしたら、自分はこうなることを望んでいたのかもしれない。基にこうして欲しかったのかもしれない。そう思うと、自分の中ですとんと整理がついた。
こうして、二人の生活が始まった。
まずは家探しだった。基の仕事場の先輩の口利きで、市内の家賃三万円、六畳間を借りることができた。基の月給が八万円ということを考えると、二万円の生活費で暮らしていかなくてはならない。時雨は安くて精のつく料理を試行錯誤して、やりくりすることにした。
最初の一ヶ月は苦しく感じたが、二ヶ月、三ヶ月と暮らしていくうちに、だんだん慣れてくるようになってきた。
三ヶ月目、十二月一日の午前中。
基は休みを取って、時雨と一緒に市役所へ行き、婚姻届を提出した。この日は時雨が作ったご馳走を食べて、大いに盛り上がった。
翌年の一月には、時雨は入院する産婦人科を探し始めた。医師によると母子共に経過は順調で、三月の末には生まれるだろうと言われた。基が奮発してケーキを買ってきたために、時雨に怒られた。
一九七四年一月二十三日、早朝。
この日は休日で、基も家にいた。時雨の大きくなったお腹に耳を当てて、子供が元気に足で蹴る音を聴いていた。するとそこに、玄関をノックする音がした。
「……どちら様ですか?」
基がドアを開けると、そこには軍服を着た男が三人いた。訊くまでもなく身分はわかるが、用件はなんだろう。
すると中央にいる男が軍式の見事な敬礼をして、用件を言い出す。
「お休みのところ申し訳ありません、東雲基元日本国陸軍少佐!実は《災厄の悪魔》が京都で生存していることがわかり、大規模な討伐部隊を編成することとなりました!それで……少佐には討伐部隊の指揮官をしていただきたいと……」
「断る。オレはもう軍の人間ではない。従う理由がない」
基は素っ気なく答えて、軍人を追い返した。ドアを閉めてドアチェーンまでかけると、基は時雨がいる六畳の居間に戻った。
「基、話が全部筒抜けでしたが、よいのですか?《災厄の悪魔》は……」
「いいんだ」
基はどっかりと座り、新聞を読み始めた。しかし、内容は頭に入っていない。
例え戦場に戻り、雪片に会えたとして、合わせる顔がない。リンが死んだのは、自分のせいだ。自分がもっとしっかりしていれば、彼女は死ななかった。あの時のことが鮮明に頭に浮かび、手は新聞紙を握りしめている。
「貴方は逃げているだけです」
時雨の凛とした声が響いた。
「親友を救えなかったときの絶望を、味わいたくないから。逃げることで、自分の責任から逃れたいから。恨まれたくないから」
新聞紙が音を立てる。まるで自分の心の音のように、クシャ、クシャと音を立てる。
「でも……」
時雨は基の硬い手にそっと優しく触れる。
「貴方は強さを持っている。現実から逃げないで、立ち向かう強さを持っているはずです」
時雨の柔らかな微笑みを見て、基は泣きだしそうになった。
————違うよ、時雨さん。オレはいつだって弱い。あなたがいてくれなかったら、オレはなにもできない弱い人間なんだ。今だって、あなたがそばにいてくれなかったら、逃げ出していた。オレの強さはあなた。オレ自身にはない強さ。
基はその日、軍に復帰した。
一九七四年一月二十五日、《災厄の悪魔》討伐作戦当日。
基は久々に軍服に袖を通して、京都までの荷造りを済ませた。
「やっぱり、軍服の方が基らしいですね。頼りないけど」
「褒めてるのか、けなしてるのか、どっちかにしてくださいよ……じゃあ、行ってきます」
本音をいうと、戦地に送り出すなんて心配で仕方ない。でも、彼らしさを思い出して欲しかったから、逃げずに戦う基に惚れたから、だから堪えて。
「いってらっしゃい」
時雨は笑顔で送り出した。その笑顔に応えて、基は微笑んだ。
横浜から軍用車を使って、京都まで一日かけて到着した。
一月二十六日午後三時、京都府京都市、鹿苑寺。
既に第一部隊によって攻撃が開始されている。
基は『復帰』という形で軍に入ったので、階級は以前の少佐である。当然、周りは階級が下の者ばかりだ。基は年上で階級は下の男に問いかける。
「園内にいるんですか……?」
「えぇ、園内を根城にしているという情報です」
基の目的は、一年前と一緒だ。誰よりも早く雪片を見つけて、説得して、どこか遠くへ逃げてもらう。どこか遠くで、静かに暮らしてもらいたい。リンもきっと、それを望んでいるだろう。
しかし今回は基より階級が上の上官がいて、指揮官はもちろんその人だ。基の単独行動は許されない。だが、元より軍務をきちんと全うする気はないのだ、どこかでこっそり抜けて、雪片を探す。
待機している隊員も群れをすり抜けて、基は鹿苑寺園内から一旦出た。正反対の位置にある柵を乗り越えて、園内に侵入。軍の人間に気づかれないようにしながら、雪片が隠れられそうな場所を探した。園内は木々と池、そして金閣寺しかない。隠れられそうな場所といえば、金閣寺だった。基は金閣寺に潜入した。中は手入れが行き届いているが、やはりどこかかび臭い。
「雪、いるか?雪!」
声をかけてみたが、返事は帰ってこない。やはりデマなのではないか……そう思ったときだった。
「はじめ……?」
小さな声が返ってきた。
「雪?雪片か!?オレだ、基だ!」
部屋を荒らして探していると、奥の部屋から木の軋む音がした。その音に向かって、基は駆け寄った。
壁にもたれる雪片の姿を見て、基は愕然とした。
雪片は右足を撃たれて、そこかしこに血がついている。巻かれた包帯は血で汚れていて、取り替えた様子は見受けられない。
顔も体も痩せこけていて、赤い瞳がぎょろりとしている。白い髪は最後に会ったときよりもだいぶ伸びている。着ている服は基がカモフラージュ用に与えた軍服だったことから、一年前のあの日以来着替えなどしていないことが伺える。
「お前……腕と足……」
「軍にやられた。命からがら逃げてきたんだ」
「っ……お前は……いつもそうだよな……」
他人に助けを求めない。自分でなにもかも抱え込み、解決しようとする。決して逃げることはしない。
————オレとは違って。お前は強いよ。
基は溢れそうな涙を抑えて、雪片の左腕を持って、彼の体を支えた。
「どこへ行く気だ?」
雪片が戸惑いながら問いかけると、基は強く言った。
「ここから逃げる」
「どうやって?お前ならわかるだろう、ここは軍に包囲されている。それにおれはもう……」
「雪、お前らしくないぞ!リンちゃんと約束したろ、笑うんだ!なにがあってもお前は……笑ってなきゃいけないんだよ!」
『笑って……』
雪片はリンの最後を思い出す。
あの子はいつもそうだ、いつでも、なにがあっても笑っていた。自分が死ぬことがわかっていても、その運命を受け入れて、その中で懸命に『生きて』いた。
————まだ、死ねない。死ぬわけにはいかない……リン、そうだよな?
「基……ありがとう」
「気持ち悪いな、お前に礼を言われるなんて。変なモノ食ったか?」
「前言撤回する。お前は嫌いだ」
「ひっでー……あ、これ持っておけよ」
基は雪片の左手に、軍の補給庫からくすねてきた汎用型の霊障武具基盤を握らせた。
「剣くらい扱えるだろ?」
「さあな。素手でのケンカはしょっちゅうしていたが」
「オレ相手にな。陸軍少佐で第一種相手にしてたなら、あんなザコ余裕だぜ?」
複数の足音が聴こえる。軍が突入してきたのだ。やがて足音は近づいて、とうとう目の前の襖が勢いよく開けられた。汎用型霊障武具を起動させた一般兵が複数人押し寄せ、基の姿を見て驚愕の声を上げる。
「し、東雲少佐!?なぜこちらに……」
「構わん、やれ」
のそり、と背の高い筋肉質な大将が出てきた。基の師匠で陸軍大将、戸賀俊典だ。戸賀は一人で五体のレベル三以上の鬼魔を相手にしても余裕という、辣腕の持ち主だ。その実力は、第一種という形では示せないほどと言われている。実質、基以上の実力者だ。基は稽古であっても、一度として勝てたことがない。
戸賀は基を一瞥して、立派な髭をなでる。基は師匠と相対して、内心冷や汗をかいた。
「悪いな、師匠。オレは一抜けさせてもらう」
「基……お前は頭がいい。この先どうなるか、察しがついているだろう」
「奥さん曰く、オレは馬鹿らしい。そうかもな……こんな負け戦に正面戦闘するんだから。でも」
基は右手に忍ばせておいた霊障武具基盤を起動させ、大剣《花月》を創り出す。《花月》を構えて、笑った。
「タダで負けるつもりはない!」
戸賀は隻眼の黒を輝かせて、腰の霊障武具基盤を取り出した。
「お前ら、下がっていろ」
「戸賀大将……!」
基は雪片を下がらせて、剣を構える。
「『具現せ、《ミコト》』」
戸賀が低く音声コマンドを唱えると、戸賀の両手が輝いた。白い霊子の収束、一瞬強く輝いたのち、戸賀の手の中には透き通った巨大な双戟が現れていた。
戸賀は霊子戦であっても、基の知る限りこれまで陰陽術以外に使ったことはない。霊障術が苦手なのではない、むしろ逆……霊障術では無敵なのだ。その戸賀が霊障武具基盤を出したということは、本気である証拠だ。
静寂。そして銃声のような突進。大剣と戟がぶつかり合い、オレンジの火花を散らす。剣圧が埃を舞い上がらせる。
大気を揺るがす剣戟に、雪片や周囲にいる兵士達は圧巻された。息もできないほど激しい戦闘。互いの手の内を予測して、その予測の上をいく反撃または防御に回る。剣の軌道は右、斜め、左、斜め下と、目では追えないほど目まぐるしく動く。
戸賀は基の攻撃を的確に弾き、なおかつ的確にヒットを入れていく。基もそれに負けない攻撃力を有しているが、弾かれる数の方が多い。
一般兵の次元を軽く凌駕した戦闘。戦闘開始から六十秒、両者、手さばきは衰えない。このまま続くと思われた戦闘は、しかし基が終わらせようとした。
「すべてを切り裂け、《奏玉花月》」
音声コマンドに従い、大剣《花月》の薄緑の刀身が輝き、二重、三重と空中に広がる。《花月》の特殊能力だ。使用者の霊子で極薄の刃を複数精製し、その刃が音を奏でるように優雅に切り裂く。刃は戸賀の頬を、腕を、足を切り裂き、浅いダメージを確実に与えていく。これまでより確実に、圧倒的に押してきている。
しかし忘れてはいけない、戸賀もまた、特殊能力保有者だ。戸賀に特殊能力を使わせたら、絶対に勝てない。だから戸賀に使わせる暇を与えず、この一撃で決める。
霊子の刃すべてが、戸賀の双戟を持つ両手を狙った。狙いに狂いはない。刃はライムグリーンの光の矢となって、一直線に戸賀の両手へ飛んでいく。しかしそれらは、戸賀の霊子によって、楽々と弾かれた。
戸賀は笑った。
「基……お前は甘い。教えたはずだ、『敵は殺す覚悟でやれ』と」
双戟が白い光を放つ。
「滝に狂え、《尊の夜叉》」
ミコトの刀身が霧散した。いや、ミコトの刀身は、目に見えないほど小さな水となって空気中を漂っているのだ。
基の《花月》が紙のようなら、戸賀の《ミコト》は無数のカッターだ。やがて《ミコト》の刀身が基の体に襲いかかり、基は体中に無数の傷を受ける。
「っ……!!」
「次は手加減しない」
血が溢れて、フラフラする。これで手加減したというのか?ありえない。やはり師匠には敵わないのだろうか。
いや……諦めてはいけない。必ず生きて帰ると、時雨と約束した。なにがあっても帰るんだ。雪片にも言ったではないか。自分が守らなくてどうする。
————力を貸してくれ、《花月》。この絶望的な状況下で、生き延びるための力を……!
基の強いこころに応えてくれたのか、《花月》のおよそ百三十センチの刀身はライムグリーンの輝きを強めて、形を変えた。
細い、太刀より細い。レイピアに近い細さだった。色は透き通ったライムグリーン、ガラスのように繊細な作りをしている。しかし前よりもずっと、頼もしさが伝わった。
『《明鏡花月》』。それは絶対防御の刃だ。どんなに小さな敵でも、一振りで滅ぼす。
戸賀の霧になった《尊の夜叉》を、《明鏡花月》はたったの一振りですべて消滅させた。霧が蒸発していくのが見える。
「…………!」
さすがの戸賀も、これには驚かざるを得ない。
基はガラスのような《明鏡花月》を正眼に構えて、片頬をつり上げる。ようやく対等になった。いや、対等以上だ。勝てる、とさえ思った。
「仕方ないな……」
戸賀は軍服の胸ポケットを漁って、なにかを取り出す。基は警戒した。銃か、ナイフか。戸賀は銃の腕もいい上に、CQCの達人だ。死角はない。
しかし戸賀が取り出したのは、一枚の紙だった。ただの紙ではない、陰陽術で使う式符だ。
「『我が召喚に応じよ、白竜』」
戸賀の声に応じて白の霊子光がほとばしり、天井を突き破って巨大な白い竜が現れた。比較するものがないのでハッキリしないが、優に五メートルはあるだろう。白竜は出番を待ちわびていたかのように深く息を吐き、翼をばたつかせる。
白竜は軽々と空に舞い上がり、自分と比較すると豆粒のようであろう基と雪片に襲いかかる。雪片は汎用型の霊障武具基盤を起動させようとするが、しかしそれは基に制される。基は飛びかかってくる白竜に向けて、《明鏡花月》を一振り。だが。
白竜の硬い鱗を数枚弾き飛ばしただけで、白竜自身にはダメージを与えられていない。
「水性質の白竜に、金性質の攻撃は効かない。五行相生の理を忘れたか、基」
陰陽術における陰陽五行思想、五行相生の理……「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず」という関係をさす。
木は燃えて火になり、火が燃えたあとには灰(=土)が生じ、土が集まって山となった場所からは鉱物(金)が産出し、金は腐食して水に帰り、水は木を生長させる、という具合に木→火→土→金→水→木の順に相手を強める影響をもたらすということが「五行相生」である。
つまり金性質が強くなればなるほど、あの白竜は強くなる。強めてしまうのだ。どんなに強い力でねじ伏せようとしても、相手を強くしてしまったら意味がない。どうする……どうすれば。
白竜はそのあぎとを大きく開き、ブレス攻撃に入った。衝撃を《明鏡花月》の剣圧で割る。
「基……次にあの竜が降りてきたら飛び乗れ」
雪片の指示に、最初はなにを言っているんだ、そんなことをしてなにになる、と反論しようとした。だがすぐに意図がわかり、基は白竜が降下するのを待った。こちらから攻撃をしなければ、白竜は狙い通りに降下した。
その瞬間、基は白竜までの百メートルを一気に駆けて、白竜の足に捕まった。白竜はびっくりして飛び立とうとする。木登りの要領で頭部にたどり着き、基は《明鏡花月》を掲げる。
白竜の目玉を狙って、《明鏡花月》を一突き。これには白竜も堪らない、とばかりにギャアアアアアアアと叫び声をあげ、暴れ回る。基は振り回されながらも、もう片方の目玉を突く。これで白竜の目は完全に封じた。
式神は使用者の霊子によって傷ついた体を癒す。傷の度合いにもよるが、白竜のあの傷ではしばらく使えないだろう。戸賀もそう判断したのか、白竜の具現化を解除した。
「なかなかやるな……強くなっているではないか、基」
あの戸賀が褒めた。修行中も独り立ちしたあとも、一度たりとも褒めたことがない戸賀が、褒めた。場違いだとは思うが、基は嬉しさを感じた。
しかし、嬉しさに浸っている場合ではない。あの戸賀のことだ、ここまでされてもまだ手があるだろう。基は《明鏡花月》を構える。雪片もそれに倣って、汎用型霊障武具基盤を起動、日本刀型の霊障武具を構える。しかし
「俺はあいにく今日、式符を白竜しか持ってきていない。白兵戦で挑もうにも、その《明鏡花月》で切り刻まれる……どうするか」
え?それってつまり……
戸賀はとぼけたように続けた。
「早く行かないと増援が来るぞ」
「ありがとうございます、師匠!」
基は雪片と一緒に、走り出した。戸賀がくれた思いを、絶対に無駄にはしない。二人は園の外周部に向かい、垣根を越えて外へ出た。停まっている軍用車を一台拝借して、基は運転席に、雪片は助手席に座る。エンジンをかけて走り出す。
「基……どこに向かっている?」
「南は逃げ場がないから、北に行く……というか、ミルカちゃんとこに行く」
基はせわしなくシフトレバーを操作して、軍用車を巧みに操る。
「あぁ、あの医者か。大丈夫なのか?」
「なにがー?」
「あの女は信用できるのかって意味だ」
「大丈夫大丈夫!ミルカちゃんも追われている身だからね」
「誰に追われてるんだよ……」
「政府」
「なお悪いだろうが!引き返せ!」
「あ、雪、飲み物買っていく?」
「ドライブじゃない!」
京都市を出て、国道一号線沿いに走る。三重県を抜けて名古屋が見えてきた辺りで軍の動きを確認するが、今のところ追ってくる気配はない。もしかしたら、戸賀が図らってくれたのかもしれない。あまり目立った動きはしたくないが、開いているスーパーマーケットに入って、飲み物と食料を買った。駐車場で飲み物を飲んでから、再び出発。途中途中様子を見ながら休憩を挟んで、翌日には愛知県を抜けた。沼津に来たところで少し安心して、仮眠をとった。三時間くらい寝たら少しすっきりしたので、横浜まで一気に飛ばした。
一月二十八日深夜二時、車は横浜市に入った。そこからは車を捨てて、徒歩で中区の『霊障武具 とぐろ』を目指した。二時間ほどで中区まで来て、横浜駅が見えた。
シャッターの閉まった店は、しんと静まり返っている。基はシャッターを叩いて、店主を呼ぶ。
「もうっ誰なの、こんな時間に!」
店主の一ノ瀬ミルカが、寝起きで不機嫌に裏口から出てきた。しかし基の姿を見ると、とたんに満面の笑み浮かべて飛びついた。
「基ちゃーん!!!!愛してる!!!!」
「あっはっは、ミルカちゃん、オレ結婚してる」
「えっ……」
ミルカが泣き出した。なんとか宥めて、基と雪片は店内に案内された。
事情を説明して、雪片は足の治療を受けて、この先どうするか話し合った。
「外国に逃げることはできないのよね?」
「足がつくからね。そもそもオレはともかく、雪が飛行機に乗れない」
「なら北海道はどうだ?」
「究極はそうだね。でも読まれる可能性がある、しばらくは本州にいた方がいいかもしれない」
「基ちゃん、ならウチにいればいいよ!しばらくは大丈夫だと思う。軍の動きも見れるし」
というわけで、一ノ瀬家でお世話になることになった。
しかしその考えは甘かった。二日後には横浜市内は封鎖され、神奈川県はおろか横浜市内から出ることができなくなった。
軍が闊歩する街を『霊障武具 とぐろ』店舗兼住居の二階から見下ろして、基は呟いた。
「時雨さん……どうしてるかな?」
「そんなことを気にしている場合か。包囲されているんだぞ、どうする?」
基は雪片からまんじゅうを奪って、一口で平らげてから唸った。
「正直、師匠が出てこなければ勝てると思う。今なら対物ライフルだろうが大砲だろうが防げる自信があるからね」
ミルカも唸った。
「確かに……《明鏡花月》なら戸賀大将以外に、相手になる人はいないと思うよ。でも、過信しちゃいけないよ、基ちゃん。基ちゃん一人なら問題ないけど、手負いの雪ちゃんもいるんだから」
「雪ちゃんはやめろ……おれは問題ない、じきに傷も治る。それより武器をよこせ。汎用型では頼りにならない」
「雪ちゃん……霊障武具基盤を作るにはね、最短で二週間はかかるものなの。二週間もここにとどまっていたら、さすがに見つかっちゃうよ」
横浜駅東口にあるビルディングの屋上。
「いけるか、伽耶子」
「問題ありません、百瀬大将」
百瀬浩太郎陸軍大将の腹心の部下で、英国製アンチマテリアルライフル、アキュラシーインターナショナルAW50をモデルにした霊障武具《陽炎》を扱う女性狙撃手の安野伽耶子陸軍大尉は、スコープに目を当てて、古びた二階建ての建物の二階にいるターゲット、《災厄の悪魔》を見ていた。
百瀬は現在軍法会議にかけられている戸賀と同期のライバルで、今回も競うように《災厄の悪魔》討伐作戦に参加した。百瀬は双眼鏡で狙いの建物の辺りを見るが、伽耶子ほどはよく見えない。
「撃て」
伽耶子は命令通り、《災厄の悪魔》目掛けて五十口径の霊子の銃弾を撃ち込んだ。銃弾は音速を超えて、千二百メートル以上離れた《災厄の悪魔》の頭に被弾した。
一瞬の出来事だった。雪片の頭が吹き飛び、壁に大きな穴が空いた。基はすぐに対物ライフルだとわかり、軍でそれを扱う女性軍人の存在を思い出した。安野伽耶子、彼女の存在は目立つ。戸賀のライバルである百瀬とも会ったことがある。百瀬は陰陽術しか扱えないが、それこそが強力な武器となっている。
基はライフルの銃弾が飛んできたと思われるビルディングを見上げて、舌打ちした。街の封鎖自体がカモフラージュ、ここに潜伏していることはわかっていたのだ。
「雪!!」
基は倒れた雪片に駆け寄るが、雪片が即死したことは目に見えた結果だった。
とたん、店に武装した軍人が大量に押し寄せた。
「東雲基陸軍少佐、我々とともに来ていただこう」
基は軍法会議にかけられて、十日間の謹慎処分となった。
十日後、二月十日。基は半月ぶりに時雨が待つ、ボロアパートの我が家に帰ってきた。きっと時雨は笑顔で迎えてくれるだろう、と思うと複雑な気分になった基はドアを三回ノックして開ける。
「ただいま、時雨さん」
しかし返事はない。部屋を見渡すと、時雨の荷物だけなかった。壁に貼った二人で考えた子どもの名前を書いた紙だけが、二人で住んでいた証のように残されていた。基は荷物を置いて、紙をそっと撫でる。
三月の末に生まれる子ども。女の子と決まっていれば『弥生』にしようという時雨の意見を突っぱねて、基は『卯月』と決めた。
『三月生まれなのに、卯月ですか?』
『いいじゃないですか、卯月。男でも女でも通用しますよ!』
『まぁ、貴方が決めたのならいいですよ。卯月……元気に生まれてきてくださいね』
時雨と卯月はどこへ消えたのか。呆然とする基の耳に、やがてドアのノック音が響いた。急いで玄関に向かい、向こう側にいる人を出迎える。
「時雨さん!?」
ドアを開けると、そこには分厚いコートを着た遥佳が立っていた。
「遥佳……様……?」
「姉さんは家に戻されたわ。もうここには帰れない」
「なんで……!?」
基の質問には答えず、遥佳は少し間を置いて事実を伝える。
「姉さんは結婚する……結城の従兄と」
その言葉とともに、遥佳は封筒を渡した。基は受け取って、中を見る。離婚届だった。確かに時雨の字で書かれている。
「これを条件に、基は謹慎処分で済んだのよ」
おかしいと思った。命令違反がたった十日の謹慎処分で済んだ理由は、時雨が時繁と取引をしたからだったのだ。基を守るために、時雨は自ら離れる決意をした。彼女にそこまでさせた自分が情けない。
「う……う……あ……」
基は声を押し殺して泣いた。時雨にも子どもにも、二度と会うことは許されない。無事に生き残ったとしても、こんなこと嬉しくない。
————死んでもいいから、会いたいよ……時雨さん、卯月。
二月十五日。あの日から、遥佳は毎日欠かさず基の元へ来ている。意気消沈とした基に三食食べさせて、掃除をして、洗濯をして、基が寝付くまで部屋にいる。基はいつも寝たくないと言うので、寝かせるのは大変だった。この五日間で基が時雨について尋ねたことはほとんどない。ただ、一度だけ『子どもはどうなるか』と訊かれたので答えた。
基と時雨の子どもは、時雨と新しい夫の子どもとして育てる。本当の父親については教えない。
基はそれをきいてから、黙って遥佳の作ったうどんを啜っていた。
三月三十一日、時雨の陣痛が始まった。初産ということで相当時間がかかり、生まれたのは四月二日、名前の通り四月生まれになった。
それだけは教えておこうと思い、遥佳は基に伝えた。
「女の子よ。名前は卯月。写真見る?」
写真には卯月を抱く時雨が、笑顔で写っていた。
「もらってもいい……?」
「え?」
「写真……これだけでいい……」
翌日には、食卓に写真立てに入れられて飾ってあった。
四月の半ばを過ぎる頃には、基もだいぶ元気になって仕事に行くようになっていた。この頃の基は、鬼魔を倒すことで自分を保っている節があった。
そんなある日のことだった。
「横浜で、連続猟奇殺人?」
珍しく戸賀から呼び出されて陸軍本部に向かうと、そんな話をされた。
「そう、そこでお前に捜査本部の部長として事件を解決してほしい」
「それ、警察の仕事じゃないですか?」
「ところが犯人は霊障武具を使用して、殺している痕跡があった」
「なるほど……わかりました、捜査しましょう」
この頃、遥佳が来ない理由は、きっと家でこの事件があるから外に出るなとでも言われているのだろう。早く安心させてやらなければ。
捜査本部を設置するのに二日と半日かかり、四月十五日の深夜に帰ると、玄関の前で遥佳が待っていた。
「遥佳……!?」
こんな時間にどうしたの、と問いかけようとして、彼女の姿を見てぎょっとした。白い春物のコートは血に染まり、手には霊障武具基盤が握られている。ただごとではない。
俯いていた遥佳は基に気づいて、顔を上げた。
「基……どうしよう……!あたし……あたし……!」
遥佳を家にあげて、お茶を勧めたが、彼女は手をつけようとしない。しばしの沈黙ののち、ようやっと遥佳がぽつりと声を出した。
「市内で流行ってる殺人事件……あるでしょう?猟奇殺人事件」
「うん……」
先ほどまで事件捜査本部を作っていた基は、事件現場の凄惨な有り様を思い出す。あれは人間業じゃない。そう思っていた基に、遥佳は驚くべきことを口にした。
「あれ……あたしがやったの……」
「…………え?」
今、なんて言ったんだ……?基が聞き返す間もなく、遥佳自らが言い直した。
「あたしが殺したのかもしれない……あの事件の被害者みんな……あたしが殺したんだ!!!」
「待って、落ち着いて遥佳!どうしてそうなるの?一から説明してみて!」
最近、遥佳は知らないあいだに外に出ていることが多いらしい。気がつくと泥だらけの血まみれで家にいて、霊障武具基盤を掴んでいる。そこに来て殺人事件の連続。今夜も気づいたら路地で、しかも死体と一緒にいたらしい。
「偶然かもしれないよ、だから落ち着こう」
「血がついてるのよ?本当に偶然で済む!?」
「じゃあ、今夜はここにいてよ。オレが証明するよ」
「え……それって泊まり……?」
「そうなるね。明日の朝、ちゃんと説明するんだよ」
「わ、わかった!!」
基の家に二人っきり。そう思うと眠れない。布団は二組敷いてあったが、基は一晩中起きていると言っていた。基に見られた状態でなんて、ますます眠れない。
……と思っていたのに、あっさり眠りについたらしくて、意識を失っていた。
「る……か……」
声がする。基の声だ。優しいテノールの響き。遥佳はこの声に呼ばれるのが好きだ。くすぐったいけれど、気持ちいい。
「は……るか……」
どうしたのだろう、苦しそうだ。なにかあったの?
「遥佳……!!」
気がついた時には、遥佳は基に馬乗りになっていた。手には霊障武具太刀《霞》。《霞》を基に向けている、青い切っ先は畳に突き刺さっている。
「あたし……やっぱり……」
「少なくとも、可能性は出てきたね……」
遥佳は霊障武具基盤を停止させて、その場に座り込んだ。
「どうしよう……あたし、どうしたらいいんだろ……ねぇ基!?」
基はしばらくおとがいに手を当てて考えたのち、こう切り出した。
「少し、調べてみるよ。それまではここで寝泊まりして。オレが止める」
「でも……それじゃあ基が……」
「オレは事件の捜査本部部長だ、操作の一環ということで。いいね?」
遥佳はしぶしぶ頷いた。そういうことなら、と一度家に帰って、荷物を取りにいった。
昼間は基は仕事でいない。遥佳は家事をして待っていると、その日から基は遅くても夜の十一時には帰ってきた。遥佳が作ったまずい夕飯も文句ひとつ言わずに平らげて、せまい風呂で汗を流して、夜中は資料を読みながら一晩中起きて遥佳を見張る。なんだか申し訳なくて、何度ももういいよ、と言おうとした。だが基はそんな生活を続ける。
四月二十九日、深夜のことだった。遥佳は目を覚ました。布団の中にいて、霊障武具基盤には触っていないことを確認する。起き上がって周囲を見渡すと、基は机に向かっている。居眠りをしていた。敷かれた毛布をそっと基の肩にかけて、机に広がった資料を拝借する。
「『人造鬼と鬼化に関する研究成果』……?人造鬼?鬼化……ってなに?」
『人造鬼』とは、酒呑童子の遺伝子をヒトの受精卵に注射し、酒呑童子の子どもを作る研究だ。うまくいけば、ヒトでありながら鬼という最強の存在が、大量に生み出せる。
ヒトでありながら鬼……まるで矢倉家のようだ。資料によると、矢倉家の存在をヒントに作られた研究らしい。
そして『鬼化』とは、《ヒトでありながら鬼》という特殊な存在が持つ副作用。鬼の血にはいわゆる抗体は存在しない。つまり、ヒトの身である以上、鬼の血に侵され続けるということだ。症状として体を鬼の遺伝子に破壊される、自我を失い、人殺しの本能に目覚める。
『自我を失い、人殺しの本能に目覚める』……まるで自分のことを言われている気がした。
日向家で行われていた実験。しかしそれと自分の症状とは、どういった関係性があるのか、想像もつかなかった。
「ん……」
基の声がしたので、遥佳は慌てて資料を机に戻した。
「卯月……」
夢でも見ているのだろう、自分の子どもと会っている、幸せな夢。できるなら会わせてやりたいが、時繁とトキが許さないだろう。
「時雨……さん……」
いや、なにがなんでも会わせてやる。卯月だって、いくらいい人とはいえ義理の父親よりも、本当の父親がいいに決まっている。今は無理でも、いずれ会う機会を作ってやろう。
そうして親子三人で、幸せに……。
「あれ……オレ、寝てた……あ、遥佳、起きてたの!?ごめん……」
「仕方ないわよ、基はずーっと寝てないんだし」
「いや、昼間は寝てるんだけど……なにか変わったことあった?」
「ないわ、大丈夫」
基は毛布を畳んで横に置いて、台所で眠気覚ましのお茶の用意をし始めた。
「遥佳も飲む?」
「いる!ちょーだい!」
二人でお茶を飲みながら、くだらない話をして夜明かしした。
翌朝、遥佳が作った朝食をとって、基は仕事に出た。遥佳は昨晩に見た資料を思い出して、あるところに向かった。
神奈川県横浜市中区にある、日向本家。
矢倉家や皇槻家、結城家といった元祖絶対血統家ほどではないが、立派な家だった。
「ごめんください、日向家ご当主様とお会いしたいのですけど」
門番に声をかけた。すると門番は遥佳を不審そうな目で見て、
「失礼ですが、お名前とご用件をお願いします」
「矢倉遥佳、用件はここでは申せません」
「矢倉……?あの『神速』の!?」
複数人いる門番は一気にざわついた。少々の騒動ののち、門番でも一番偉そうな男が現れた。
「これはこれは、『神速』の矢倉遥佳殿。いったいどのようなご用件でいらっしゃったのか、私どもにお話していただけませんか?」
「すみません、ちょっとあなたたちにはお話できない、内密なことなのです。ですが伝える際にお困りなら、こうおっしゃってください……『酒呑童子について話したいことがある』と」
「は……酒呑童子?」
門番には意味がわからないようだ。しかし取り次いでくれたようで、しばらくしたら敷地内に案内された。応接室ではなく、暗くて狭い部屋だった。しばらく待たされて、やがて三十代くらいの医者風の優男が現れた。
「すまないね、矢倉……遥佳さんでいいですか?私は日向家十代目当主、日向一誠です」
遥佳は用意された椅子から立ち上がり、ぺこりと一礼する。
「お初にお目にかかります、一誠様。矢倉遥佳と申します」
「頭をあげてください、お立場は私より上でしょう」
それもそうか、と遥佳は少しだけ気を緩くした。
「では、『人造鬼』の研究について、少し訊きたいことがあります」
「ほう、人造鬼。どこでお知りになったのですか?」
「ちょっと知り合いが……。で、『人造鬼』の『鬼化』についての記述がある資料を、読ませて頂けないかと」
優男……一誠は、優雅に指を組んで微笑んだ。
「それはそれは。しかし『鬼化』についてなら、私どもよりご実家の方がお詳しいかと存じます」
「え……どうして?」
「『鬼化』の研究は矢倉家より受け継いだものです。より詳しい資料も、矢倉家にあると思いますよ」
なんだ家に帰ればいい話だったんじゃん、とちょっとほっとして、遥佳は一誠に頭を下げた。
「そうですか。ありがとうございます、貴重な情報を教えていただいて」
「いえ……直接なお話ができず、申し訳ありません。……そうだ、そういえば」
「?まだなにか……?」
「東雲くんはお元気ですか?」
どうして基が出てくるのだろうか。わけがわからず、とりあえず会っていることは秘密にしようと思って答えた。
「彼は矢倉家を追放されたようなものですから、私は会っておりません」
「そうですか……二十年ぶりに体のメンテナンスをしようと思ったのですがね。残念です」
体のメンテナンス……?どういうことだろうか。
「あの……彼は体が悪いのですか?私は、私が生まれた頃から一緒にいますが、そんなことは一度も……」
すると一誠はこれまでと打って変わって、不気味に笑った。
「あぁ……彼は大事な第一世代だからね、本当なら手元に置いて研究したかったんですけど、彼の両親が拒んでね」
第一世代、研究。嫌な予感しかしないが、さっぱりわからない。しかし、一誠の顔と態度でわかったことがある。
「それで……彼の両親を殺した……?」
「おやバレちゃった。ふむ……探偵の才能がおありのようだ」
「アンタたち……彼に……基になにをしたの!?」
一誠は立ち上がり、大袈裟な仕草で語り始めた。
「失礼な、生み出してあげたんですよ、『最強の子供』として!!」
『人造鬼』とはすなわち、酒呑童子の遺伝子を組み込んだ人造人間。基はその最初に生み出された存在なのだ。
「腐ってる……腐ってるわアンタたち!!」
「なんとでも。それよりあなた、もうお家に帰れませんね。残念です」
一誠が指を鳴らすと、屈強な霊障士がどかどかと何人も部屋に突撃した。遥佳は舌打ちする。一誠は、最初からこのつもりだったのだ。秘密の末端に近づいた人間は消す。一誠はそそくさと部屋を出た。遥佳は霊障武具基盤を構えて、《霞》を起動する。
十分間の戦闘で、辛くも勝利を得た遥佳は広い日向邸で迷った。当主をつまみ出してやりたいが、まず自分がここから出られないと話にならない。
ぐるぐると走り回って、大きな観音扉を見つけた。押し開けてみると、中には書類がぎっしり詰まっていた。
「書庫……?」
念のために扉を閉じて、書類を見てみる。
適当に取った書類には、ちょうど『人造鬼第一世代』についての記述があった。
“一九四八年五月三日、『人造鬼第一世代』は七体生まれたが、二体を残して死んだ。七海家のコードナンバー004《沙頼》と、東雲家のコードナンバー006《基》。二体は順調に育ったが、能力の発現は見られない、失敗だ。“
「能力の……発現……?」
更に読み進める。
“現代の医学では『人造鬼』といえど、人造生物の寿命はせいぜい三十年が限度だろう。細胞死が起こり、やがて全身に回る。“
三十年……?三十年で寿命が来るの?
基は現在、二十五歳。もうすぐで二十六歳になる。
「そんな……」
遥佳は書類を落とした。
この先わたしたちはどうすればいいのか、なにをするべきか、未来は真っ暗すぎて、わからなかった。
第十五話 完
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます!
「亡霊×少年少女」、過去編第十五話です。卯月さん誕生秘話でもあります。
実は当初は、基と時雨をくっつける気はありませんでした。お互いに片想いのまま別れる……そんな予定でしたが、それじゃああまりにも悲しすぎる!!と思い、変更。行き着くところまで行ったようです。でも結局悲しい話になっちゃいましたね。
というわけで、卯月は基の子供です。ドヤッ。卯月と四季は異父姉弟ということですね。ややこしくてすみません。
この話辺りのテーマソングは、SilentSirenが多かったです。『八月の夜』がピッタリなのでオススメ。『ハピマリ』は話が全然ハッピーじゃないけど聴いてました。
それからmiwaちゃんの『chAngE』なんかも、過去編のテーマソングとして聴いてました。遥佳視点かな?って感じです。
オススメテーマソングがあったら、教えてください。
過去編はまだ続きます。予定ではあと二話くらいあります。もしかしたらもっとかも。応援よろしくお願いします!!
2015.8.27 ひじきたん




