朝靄の煌めき
二〇〇八年五月七日。
夜との気温差のせいか。浅く朝靄がかかった爽やかな朝の、六時三十分頃のことだ。
神奈川県横浜市保土ヶ谷区に鎮座する、静謐な空気さえ纏わせている豪邸の矢倉邸にて。
個人のものとは思えないほどに広大な敷地の一角にある立派な剣道の道場に、矢倉四季は防具なしのややラフな袴姿で竹刀を振っていた。
いつもの凛とした面差しで真っ直ぐに前を向いて、背筋はぴんと伸びている。
師匠である六条保泉の厳しい教えで、半年前から習慣になっていることだ。
最初のうちは慣れない竹刀の重さに枝のように細い腕が耐えかねて、十回も振れればいいところだった。
五回が十回に、十回が三十回に、百回に、千回に……。
よく研鑽され、眼差しとともに怜悧に澄まされていく剣筋。幼い頃から厳しく育てられたお陰で元々から姿勢がよく、真っ直ぐに伸びた背筋も様になっている。
誰もが目を奪われて、美しいと評価するであろうその光景は、少女のひと声でがらりと一変する。
「若」
左側の開け放していた出入口から呼ばれて、竹刀を振る手をぴたりと止めた。
振り向くとそこに、四季に負けず劣らず美しい黒髪の少女が背筋を正し、脚をきちんと揃えて立っていた。
彼女は長い前髪を愛用のヘアピンできっちりと横に留めて、学校の真っ黒な制服に袖を通していた。朝の準備は万端といったところだ。
「そろそろ朝食のお時間ですよ」
少女はいかにも従者らしく四季のために出入口の床に事前に用意していた、清潔な白いタオルとペットボトルの水をそっと置く。
四季はなんの礼もなしに、当たり前のようにそのタオルを取って汗を軽く拭く。次に水で喉を潤して、それから少女の立ち姿を一瞥した。
「……璃衣、寝不足か?」
ややぎこちないが、彼なりに少女を気遣ったつもりのひと声。
従者である少女————二本松璃衣の目の下に、若干のクマができているのを、四季が見逃すはずはない。
元の肌が白いだけに、その隈は普通よりも濃く見える。
璃衣は表情が薄いながらもほんの少しだけ微笑み、涼やかでいかにも礼儀正しそうな声で応えた。
「えぇ、夏コミの原稿を」
「心配した僕が馬鹿だった」
彼女の返答には、四季も頭を抱えざるを得ない。
有明の東京ビッグサイトで大々的に行われる夏コミと冬コミには、必ず段ボール箱いっぱいの同人誌を発行して大金を稼いでいた。
四季も無理矢理に手伝わされたので嫌々ながら知っていたが、しかしここまで根を詰めるとは思いもよらない現実だ。
しかも自分を題材に使われているという、とてつもない二重苦。
矢倉四季という人物は、引退したいまも人気の歌舞伎俳優として注目を集めており、コミックマーケットでは『ナマモノ』として取り扱われている。
そのジャンルの中でも、璃衣が主と書き手を務める同人サークル『ちぇりぃぶろっさむ』は大手、超人気サークルという位置付けだというのだから、世の中はもう狂っているとしか四季は考えられない。
そんな四季の苦悩をよそに、璃衣は嬉々として苦労を語る。
「今年は一覇×四季でガンガン売り込みます。ピクチブでもホムペでも、ニゴニゴ動画でもさんざん宣伝したんですよ」
「…………」
おかしい。
四季の忌まわしい記憶では確か、去年は従兄の宙とつがいにされて、結婚まで行っていた気がする。生物学的におかしいのだが、子どもまでいたのは記憶違いか。
読みたくないのに読まされて、ニヤニヤと様子を眺められて、感想を求められるのは実に苦痛の時だった。
たった二十ページの漫画で、千ページにも感じられるほど濃厚ないやらしいシーンをたっぷり掲載していて、しかも主人公は自分と同じ名前で同じ容姿の男。
相手は従兄と同姓同名の、男。
絵はすごく上手なのに、なぜこんなにも嫌悪感を持つのだろうか。
もう読みたくない。
あんな針のむしろ、あってたまるか。
なんとか辞めさせたいものだが、彼女の底意地の悪さと粘り強さは圧巻の域である。
前回の売り上げがどうの、別のサークルの友達がどうの、今回はネット友達と協力しただのと、いつにも増してペラペラと楽しげにまくし立てる璃衣に、しかし四季は素っ気なく。
「どうでもいい」
一言で片付けて、ふと浅い邂逅の海にふける。
いまでこそ璃衣とはこんなに親しげにお喋りできているが、出会ったばかりの頃は互いに遠慮しあい、警戒しあっていたものだ。
当時の彼女には親類や友達は誰もおらず、いつも孤独だった。
それがいまは四季も知らない交友関係があり、顔も名前も知らない多くのひとたちが、彼女のファンであるという。
それを思うと、自然と温かい笑みがこぼれる。
「一覇さんとのえっちなシーン、すごく頑張ったので期待してくださいねっ(^_−)−☆」
いまの璃衣はとてもいい顔をしていると、少なくとも四季は感じた。
「あぁ、期待する……わけがあるか馬鹿!いますぐ検閲する!」
「いやん若ったら。回収ではなく検閲なんて……実は一覇さんと自分のあーんなシーンやこーんなシーンを期待し」
「ているわけがあるかクズが!!そんなシーンが決してないようにっ、検閲するんだろうがっっっ!!」
「そんなシーンがなければ腐女子は食いつきませんよ」
璃衣はシャーペンの芯やインクが染みついて真っ黒になった手を、ひらりひらりとぞんざいなく振る。
特にオリジナルという一次創作ジャンルは難しいらしい。
四季もオタク事情には詳しいが————というか璃衣が騒ぐから監視を含めて、自然と詳しくなってしまった————、腐女子の気持ちというものは未だに全くわからない。
理解したくもない。理解したら終わりだと思っている。
四季はギリギリと激しい歯ぎしりをして怒りを抑えてから、ペットボトルの水を一気にあおる。
思考の海が、さざ波のようにゆったりと押し寄せた。
————……僕が、一覇と……
「『あんなことやこんなことをしているなんて、恥ずかしいけど嬉しくて悶え死んでしまいそうだーっ!』」
「勝手にひとの心の声を想像して出すんじゃない、クズ女!!」
中身が残っていることも全く気にせず、四季はくねくねと気持ち悪く身を揺らす璃衣に思わず、中身が残っているペットボトルを投げつけてしまった。
中に残った水は全部、見事に、璃衣の頭に流れてぽたぽたとたれている。
「若……水も滴るいい女、という諺をご存じでしょうか?」
「すまん、拭け」
四季は自らがすでに使ったタオルを、心底から申し訳なさそうに差し出した。
ま、こういう案外と素直なところが、若のド受たる要因ですよ☆————と言ったら、きっと今度こそ殴られるだろう。
璃衣はお口にチャックしてそのタオルを素直に受け取り、頭と顔、制服の肩を染みが残らないよう、軽く叩くように拭く。
四季が投げつけて空になったペットボトルも、文句を言わず黙って回収した。
「ときに若」
「なんだ」
「先ほどから携帯に、一覇さんよりお電話が入っていましたよ」
「それを早く言えクズがぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
四季はめずらしいやかましさで走り出し、素早く道場の端の床に置いておいた黒い折りたたみ携帯電話をひったくる。
数件ある着信履歴の名は、間違いようがない。紛れもなく『河本一覇』。
慌ててすぐにかけ直したが、当人はなかなか電話口に出ない。十コール目が過ぎようとしたときにようやく出て、いつものマイペースで通りのいい少年の声が耳に響く。
四季が受話器の音量を上げたのか、その声は璃衣にもよく聴こえる。
「もしもし一覇!?ど、どうかしたのか?……は?間違えて電話した?ならなぜ五件も履歴があるんだ、おかしいだろう!説明書は読んだのか?……読んでない?いますぐ読んで頭に叩き込め!なんのためにソイツをやったと思っているんだ!もしもの緊急時にそれでは意味がないだろう!まったく貴様は……」
電話口では横柄に文句を叩きつつ、しかし彼の表情はいつもよりずっと柔らかい。
そんな主のいじらしい背中を、璃衣はやや温かい目で見つめて、ふっと息を抜いた。
————素直じゃないですね、若は。本当は嬉しいくせに。
四季は一覇のことになると、いつも必死で、真剣で、そのくせ間が抜けている。
それはきっと————ふたりの離れた時間があまりに長く、それでいてふたりの絆は決して色褪せることなく変わらないから。
璃衣はふいに今年の初め、皇槻鷹乃に呼び出された一件を思い出して渋面を浮かべる。
雪でも降りそうな寒さの皇槻神社で、妖精のごとく美しくも毒々しい、美貌の麗人が甘く微笑った。
『「『神ノ帝国』出身者のあなたにしか、お願いできないことなんです」』
————よもや『神ノ帝国』出身という忌まわしき過去が、こんなところまでついて回るとは……。
人知れずくしゃりと押し潰されて、悲劇のヒロインよろしく情けなくも泣いてしまいそうになる。
自然、唇から吐息とともに零れ落ちる声。
「……弱りましたね、これは」
「あ?なにか言ったか璃衣」
なんてちょうどいいタイミング、というか。一覇との電話を終わらせた四季が、ややご機嫌にこちらを振り向いた。
璃衣は視線を正して、いつも通りの『空気が読めない、読まない、読む気のないおちゃらけ従者』という位置を取り繕う。
彼に話を通すのは、やめておこう。
こんなこと、知らなくていい。知る必要はない。だって……。
「なーんでもありませんよ。さて、朝食に行きましょう。遅刻しますよ」
「?なんなんだ、ずいぶんと空元気ではないか」
ぐいぐいと背中を押す璃衣の表情は、四季の位置からはよく見えない。
「そうですか?私はいつもこんな感じで腐っていますでしょ」
「……まぁ、そうか」
思い返せば、懐かしい。四季と璃衣が出会ったのは、いまから十二年前のことだ。
四季の曾祖父である時繁がある日突然、ずたずたに汚れて衰弱していた璃衣を、どこからか連れてきたのだ。
彼女について知らされたことといえば名前と、四季の従者として矢倉家に迎え入れることだけ。
その頃の璃衣はなんというか、とても近づきにくい雰囲気を纏わせていた少女だった。
誰にも触れたくない、そばにいて欲しくない。もう、誰とも……。
そんな刺々しく、痛々しい……それでいて淋しい、みたいな横顔がときおり見えて、放っておけないと感じたのだ。
いまは逆になれなれしすぎる気もするが、これはこれでいい傾向なのかもしれない。
「璃衣」
四季は自室にまで当然のように付いてくる璃衣に、いつも通りに声をかける。
「どうかしましたか、若」
「……貴様は、貴様だけは、僕の側を離れるな」
あの頃の彼女を思い出すと、必ず四季はこう言う。
璃衣がどこかに消えてしまいそうな、そんな気がするのだ。
四季もまた、温かみのない淋しい家庭で育った身だからだろう。
大事な幼なじみが、ある日突然に離れてしまったからだろう。
もうこれ以上、大事だと思えるひとが自分の前から消えてしまう、その淋しさを味わいたくない。
璃衣もまた、四季のそんな子供じみた感情を、よく理解しているつもりなのか。
少し微笑んで、力強く、しかしどこか後ろめたそうに応えた。
「イエス、マイロード」
「…………」
余談だが璃衣はいま、黒い執事が出てくる漫画にハマっていたのを四季は思い出して、ため息を深くついた。
季節は早くも初夏に移りゆく。四季が私立久木学園高等部、霊子科学科霊障士専攻に進学してから、およそ一ヶ月の時が経っていた。
曽祖父の大反対を恐る恐る押し切って、芸能科ではなく霊子科学科に進学すると決めたあの頃が、もう既に懐かしいくらいに感じる。
しかし感傷に浸る間など与えられず、道場の引き戸が第三者の侵入を報せた。
「若様、お時間で御座います」
と恭しさがありつつも冷たい声をかけたのは、璃衣ではなく曽祖父直属の使用人。
「わかっている。いま支度をするから」
璃衣と雑談を交わしていた先ほどとは打って変わって、四季の表情も声も、硬く厳しいものに変わる。
使用人が「お待ちしております」とだけ告げて、璃衣を一瞥する。その視線にはたっぷりと侮蔑が込められており、璃衣としては肩をすくめるしかない。
この屋敷において、璃衣の存在はいまだに針のむしろだ。
四季はそれをよく思っていないが、彼がここで意見を言えるような立場にないことは璃衣もよく知っている。だからというわけではないが、四季が自分に対して心を許してくれていることが、ほんのちょっぴり擽ったい。
手早く竹刀を片付けて道場を出た途端、四季は思いきり空気を吸い込み、そして吐き出した。その瞬間から、彼が持つ雰囲気も表情もなにもかもが、まったく別人に変わる。
澄んだ金の瞳には、どこか仄暗さと決意に満ちた光が同居していた。
君のそばに行くと決めた、あのとき。
————もう一度、もう一度だけあなたと会いたいから、『あたし』は……僕はこの場所を選んだんだ。
きっとあの頃と、いまの自分とは違うはず。なにもかも、全部。
手にした夢もなにもかもを棄てた、その決意を努力を、決して無駄にはしない。したくない。
たとえあの悪夢に、現実が全部呑み込まれてしまっても。
僕は僕でいるんだと、自分自身を見失わまいと、そう決めたんだ。
忘れるな、抗え。
研ぎ澄ませた刃を煌めかせて。
どんなに固く重い運命さえも、しがらみだって。この手で引き千切るんだ。
悲しみの連鎖は、もう。
ここで断ち切る。




