神の子らよ、存分に足掻け。
二◯◯八年、二月のことだった。
肌寒い冬空の、しかも星空の下で、艶めく黒髪の少女は緊張の面持ちを浮かべている。
この寒さで防寒具の類は一切身につけておらず、久木学園の制服ひとつだ。
それでも彼女の細い体躯は震えひとつなく、平然としている。
彼女は絶対血統家『皇槻家』現当主の皇槻鷹乃に内密に呼び出され、たったひとり皇槻神社を訪れていた。
「あなたのご主人様にも、どうか秘密で」
などと鷹乃に念押しされてしまえば、矢倉家のいち従者に過ぎない彼女としては素直に従うしかない。
どうにかいつもの調子で適当に言い訳を立てて抜け出し、光っている家人の目を盗んでここまで来るのは骨の折れる作業だった。この密会が露見されれば、事と次第によっては殺されるだろう。————大袈裟極まる比喩ではなく、現実に。
邸内に鮮やかに咲き誇る梅の木をぼんやり眺めているうちに、皇槻鷹乃は前触れ通りにいつものスカした使用人を連れず、たったひとりで現れた。
「ごめんなさいね。仕事が詰めていて、遅れてしまいました」
先ほどまで二日の徹夜仕事だった、とはきいているが、彼女の身だしなみはいつも通りに完璧だ。
美しい銀の髪は丁寧に梳られ、元から新雪のように白い顔には白粉と頬紅、唇にも上品に薄い紅色がしっかり引かれている。
着ている美しい仕上がりの着物には、乱れなど微塵もない。
まるで疲労が見えない、その完璧で美しい姿は、少々の不気味さすら感じられる。
本来であれば謙るような立場にはない鷹乃に、彼女はさらに上回るほどの低頭を披露してみせた。
「特に気にしておりません。私めのような立場の者に、貴女様が気をかけられる必要など、まったくございません」
そんな彼女の物言いに、鷹乃はやや感慨深げに微笑んだ。
璃衣の過去を知る者であれば、やはりその変わりようには目を見張るものがある。当然のように鷹乃もそのうちのひとりだ。
「……変わりましたね。あなた、そんなに従順だったかしら?」
「お褒めいただき、光栄にございます」
彼女の堂にいった実に見事な一礼を見守り、それから鷹乃は温かそうな微笑みで本題に入る。
「実は折り入って、あなたにお願いしたいお仕事があってね」
『仕事』と確かに聴き受けて、彼女は不思議そうに辺りを見回す。
一見してなんの変哲もない涼やかな神社の境内だが、逆に不自然なほどまったく人気がない。
となると。
「仕事……ですか。なにもわざわざ人払いの術をかけて話すような、そんな物騒な仕事なのですか?」
もう一度だけ、周囲を警戒してよく見渡す。
ほんのわずかにだが、かすかな空気の移動を感じた。鷹乃のものと思われる霊子も、ほんの僅かにちらついている。
呪術を行使した痕跡だろう。
鷹乃は霊障術においてかなり上位の術者だがそれ以上に、人心を掌握する呪術を基本においた陰陽術にもっとも優れている。
一級品どころか、日本国内で敵う人物は決していまい。
彼女くらい最高の陰陽術士であれば、人払いの術式などは欠伸をかきながらでも簡単にできるだろう。もちろん、誰に勘づかれることなく。
そんな彼女が、わざとらしく術の痕跡を残した。
ということはおそらく、本来の意図である『人払い』の目的ではない。これはあくまで牽制。
音もなく彼女の顔に蛇のように這い寄り、ひんやりとした細く長い指が彼女の頬を捕らえる。血色のいい卵型の爪が、ゆるゆると彼女の柔らかい頬に食い込んでいく。
鷹乃がまさに不敵千万としか言いようのない、悪魔のような残忍極まりない笑みを彼女へと向けた。
銀色の瞳が暗闇のなかにあってなお、妖しい光を帯びている。
その声は狂おしいほどに甘いはずなのに、永久凍土の冷たさを感じさせるもの。鷹乃は爪弾いた琴のように甘美な声で囁いた。
「『神ノ帝国』出身者のあなたにしか、お願いできないことなんです」
『いつだって手を出そうと思えば、簡単にできるんだぞ』と。『所詮はお前も箱庭の人形だ』と。
このお上品なお顔は、そう仰っていらっしゃるのだ。
彼女もまた負けじと意地みたいに、ほんのりと無理に笑ってみせる。引き攣った白い頬には、玉の汗が浮かんでいた。
「……それはそれは。相当な汚れ仕事、といったところですかね?」




