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亡霊×少年少女  作者: 雨霧パレット
第三種霊障士資格試験
52/88

強さを教えてくれたから、君を信じたいんだ。

それは遡ること、いまより一年半も前のことだ。

いちがまだ中学二年生、たからは中学一年生のとき。

あのかみやまとの凄惨で悲嘆な事件から、おおよそ二週間が経っていた。

病院からようやっと退院したばかりで、日常生活に戻るのに苦労していた頃だった。

いまでも菜奈や家族のことはときどき夢に見てうなされるが、あの頃はもっとひどかったものだ。

毎日みる悪夢のせいで、胃から熱いものが全部せり上がってくる。

食べても吐くことを繰り返したので、体力もすっかり憔悴しきっていた。

退院しても学校には行けず、昼間は家でなにもせず布団にこもることが多い。

精神科に連れていかれたところ、とりあえずの精神安定剤と睡眠薬が与えられるが、それも全部吐き出してしまう。

夢を見ることに怯えて眠れない日がほとんど毎日続いたある日、ついに耐えかねて部屋から廊下に出た。

発作的というか、別に行く当てなんて深く考えていなかった。

だが自然、暗闇を求めて彷徨う自分がいることに、一覇自身は気づいていない。

当然みんな寝静まっていて、しーんとした廊下に一覇の裸足がぺたぺたと歩く音だけが反響している。

まだ一月で、凍えるような寒さの中だ。

横浜は海風が激しく、神奈川県内でもとびきり寒く感じられる。

だが上着を羽織ることを考える精神的余裕もなく、ただ薄いパジャマ一枚で冷え切った廊下の隅に座り込む。

古い造りのこの建物だが、児童養護施設になる前は介護施設だったということもあり、景観には定評がある。

廊下がサンルーフのように全面ガラス張りで、一見して寒々しいが、柔らかい月明かりがフローリングを心地よく照らしていた。

この建物は普通の住居にあるような、戸やシャッターというものがない。

子供たちの部屋はみなカーテンで夜の目隠しをしていて、一覇の部屋も当然のようにカーテンが引いてある。

安物のカーテンで隠しても、夜にぽっかり浮かぶ月の光が部屋を照らすのは、無理もない話である。

————だけど、いまは……。

細くやつれた自分の腕を淋しげに、きゅっと握りしめた。そのとき。

「どうしたの?」

ピンクのパジャマの上に薄黄色のカーディガンを羽織った宝が、ひどく心配そうに声をかけた。

しゃがみこんで震えている一覇のそばに、慌てて駆け寄ってくる。

普段はふたつに結んでいる彼女の髪は解けていて、シャンプーの花みたいな香りがふわりと漂った。

思えば当時から、彼女はとても面倒見がいい。

忙しい両親に代わって進んで施設の子供たちの面倒を見て、一覇のことも常に気にかけている。

ある日突然できた兄が常に陰気臭くて、嫌気が差すのではないかとも考えていたのだが、そんな素振りは一切見せない。

一覇は虚ろな瞳で声の方を見遣るが、しかしとても答える気にはなれず、ただ沈黙を続けている。

宝は温かい手で、一覇の細く萎んだ腕にそっと触れ、

「体、すっかり冷えてる……お部屋に戻って、お布団に」

と言いかけて、彼女は一覇が部屋に戻りたくない理由でもあるのかと、ふと考えた。

この当時はまだりょうも、たまに母の元で過ごす日もあって、この日も泊まりに出ていた。

だから今夜の一覇は、部屋にたったひとり。

「……キッチンにいこっか。一緒にココアでも飲も」

と誘いながら自分のカーディガンを一覇に羽織らせて、そのまま支えるように引っ張っていった。

暗くて無人のキッチンに着くなり、一覇を適当な席に座らせて、宝はいそいそとポットの準備に当たった。

お急ぎ沸騰機能で取り急ぎ湯を沸かし、マグカップを二つ、大きくて古い食器棚から取り出す。

その隣の戸棚からココアの袋を取り、マグカップにそれぞれティースプーンでたっぷり三杯掬って、熱々のお湯を注いだ。

「はい、どうぞ。わたしが寝付けないときはね、いつもお母さんが淹れてくれるんだ」

粉を溶かすためにかき混ぜたそれをひとつ、一覇に差し出す。

湯気とともに、ふんわりと甘い香りが広がる。ほっと一息つけるような、そんな香りだ。

無言で受け取る一覇を安心させようと笑顔を向けて、宝は一覇の向かい側の席にそっと座った。

あかりは大きな窓から入る月の光と、キッチンに備え付けの蛍光灯のみ。

薄暗いどころか、お互いの顔は逆光でよく見えていない。たぶん月光が眩しい廊下にいたせいもあるだろう。

「いちは……えと、おにいちゃん?」

「…………」

渦巻くココアと立ち昇る湯気を無意味にゆっくり眺めていると、宝がおずおずと遠慮がちに話しかけてきた。

しかし一向に応えようとしない一覇に、彼女はそれでもめげずに懸命に話題を振る。

「かっこいい名前だよね。一覇って呼んでもいい?おにいちゃん、の方がいい?」

「……好きにすれば」

ひどく掠れた声でつっけんどんに、どうにかそれだけ答えた。

正直に言うと、いまは誰にも構ってほしくなかった。

たぶん宝も、彼の気持ちに気づいている。

それでも側にいようと、離れまいとしているのはたぶん、一覇がどこかへ消えないように見守っているのだろう。

ひとりじゃないってわかったときの安堵は、とても心地のいいものだった。

ひとりじゃない時間は温かくて幸せで、穏やかなものだった。

全部、菜奈が教えてくれたものだ。

菜奈が、その命をかけて伝えてくれた言葉は、いまでもはっきりよく覚えている。

怪我の痛みがつらいはずなのに、彼女の顔はいつでも勝ち気で明るい。

『「傷つくこと、傷つけられることを恐れないで。それがきっと、君の力になる」』

目を背けていたことぜんぶに、正面を向きたい。

そう思えるようになったのは、紛れもなくこの言葉からだ。

強くなったつもりでいた。

前を向こうと、歩きだそうと。

どんなに後ろを向きたくても、がむしゃらに足を進めようと決めたのに。

この体たらく。

所詮、自分の力はこの程度なんだと、あの気持ちはまやかしだったのだと、自分で自分をあざ嗤った。

月に照らされることさえも怖れて、暗闇ばかり選んでいる。

悪夢から逃れたいはずなのに、その夢に出る菜奈にさえ縋りたい。

罵られてもいい。

ただ一目だけ、もう一度だけ。会いたいんだ。

自分の根底にこびりついた、弱さがにじみ出るこんな情けない顔……いまは誰にも見られたくない。

だから放っておいてくれ、構わず離れてくれ。

ひとりにしてくれ、甘えてしまいそうになる自分が、誰かに寄り掛かろうとする自分が嫌なんだ。

そう思っていたのに願っているのに、彼女はなかなか離れようとしない。

「「…………」」

ふたりで並んで、ただ黙ってココアを口に含む。

少し冷めても、ココアの華やかな香りは飛んでいない。

宝がマグカップを、静かにテーブルへ置いた。

「あの人がどうなったのか……きいても、いい?」

宝の問いには、興味本位とか同情とか、そういった下世話なものは一切感じられない。

彼女が話題に選んだ“あの人”というのは十中八九、菜奈のことだ。

元霊障士を父に持ち、その血をしっかりと受け継いだ彼女にはあのとき、菜奈のことがはっきりと視えていた。

聡い子だから、彼女が一覇に取り憑いていること、彼がなにかに巻き込まれていることも気づいていたようだ。

だから一覇に憑いていたはずの菜奈が事件のあとに姿を消して、余計に不審に思ったのだろう。

でもきっと、なんとなく訊いてはいけないことだとも、わかっていた。

触れてしまえば、一覇のこころは崩れてしまうかもしれない。

それでも口にしたのは、一覇がここのところふさぎ込んでいる理由はそこにある、と踏んでのことだと思う。

無言を貫く一覇。

やはりやめておくべきだったと、「この話はやめよう」と切り出そうと宝が口を開きかけたときだった。

「死んだ」

一覇の掠れた声が、重苦しさすら感じるキッチンに冷たく反響して、じわりと消える。

「オレのせいで、死んだ」

『死んだ』なんて、言葉にするほどつらく重い事実なのに、なんだかおもちゃみたいに陳腐な響きだ。

涙は流れない。

悲しいし淋しいし、つらい。

けれど悲しみよりもなによりも、あの場でなにもできなかった自分に対する怒りが、ほんの一瞬だけ勝った。

暗闇で座りこむ自分が、嫌いだ。

だけどどうしたら立ち上がれるのか、わからないんだ。

考えれば考えるほど、暗く重たい気持ちが押し寄せて、希望も煌めきも、なにもかもを呑み込んでいく。

いつしか菜奈がくれた言葉もあの輝きも、ぜんぶ忘れてしまうんじゃないか……そんな不安さえも、積み重なっていく。

不安や悲しみ、怒り、憎しみ、恨み。

脚を絡め取られて、深い沼に突き落とされていく。

草の根も藁のひと束も、蜘蛛の糸も、誰も垂らしてくれはしない————

「一覇のせいじゃないよ」

宝の凛とした声が、一覇の混沌をたった一瞬で断ち切った。

一覇が咎めようとして、正面の宝を睨みつけた。彼女の茶色い瞳は逆光を受けても負けることなく、より強く光っている。

「なんで……どうして、そんなことが言えるんだよ……?」

解を求める一覇の声は、ひどく霞んでいた。

真っ暗な沼のなかから抜け出すとき、そのあまりにも眩い光に目を痛める。

月光を背に受けた宝の姿は、さながら神託を受けたかぐや姫のごとく、目が醒めるほどに神々しい。

「少なくともあの人は、一覇のことを恨んでない」

決して揺るがない瞳と答えに、しかし一覇は激情した。

一覇の感情に呼応して、翡翠色と橙色の霊子が火花のように激しく散りばめられ、周囲の空気を焦がした。

一覇のマグカップが、テーブルに激しく打ちつけられる。

マグカップもテーブルも傷つくことはなかったが、宝の肩が驚いてびくりと歪んだ。

ココアの雫が、テーブルいっぱいに散らばる。

まるで泥水みたいに。

「菜奈が恨んでいるにしろないにしろ!彼女は間違いなく……っ、オレのせいで死んだんだっっっ!!!!」

こんなに声を荒げるのは、久しぶりだ。

喋ること自体久しぶりなのに、体力が落ちているから、ほんの少しのことで息が上がる。肩が激しく上下して、呼吸が乱れた。

誰も彼もが優しくするから、いっそのこと責めてもらいたかった。

「よく頑張ったね」「あなたは悪くないよ」なんて、なにも知らない人にいくら言われても、「でも」で返して自分を責める材料になる。

だってオレは、菜奈になにも返せていない。

返すどころかこんなにも、たくさんのものをもらってしまった。

それから間を置かずすぐに、大きな津波のような後悔が押し寄せて、頭を真っ白にさせられる。

宝は悪くない。

彼女はほかの人が言うような軽い気持ちで、あんなことを言ったわけじゃない。

宝の人のさと、他人の心の機微に敏感なことを理解できているからこそ、よくわかる。

それこそ、こんな当たり散らすようなことをして、なんになるんだ。

「…………ごめん」

荒くなった息の間に、小さく漏らした声は、宝にもよく届いたらしい。

「わたしこそごめんね。もう、話さなくていいから」

宝は困ったように眉を下げてそれだけ言って、ココアの残りに口をつけた。

一覇も追うようにちびちびと冷めきったココアを飲み進めて、汚れたマグカップをシンクに浸ける。

「……ね、一覇。屋上に行かない?」

よろよろと自室に引っ込もうとした一覇の背中に、宝は投げかけた。

ひなぎく園の建物は二階建てだが、屋上が立派なテラスになっている。

夏になるとみんなで星空を見に出るが、それ以外は鍵がかけられていて誰も出ようとはしない。二階建てとはいえ、子供が誤って乗り出しては危険だと判断してのことだろう。

疲れてはいたが、ココアで身体が火照っていて、夜気に当たりたい気がしなくもない。

宝の上着を返して自分の上着を用意し、そのまま宝に連れられて屋上のドアをくぐった。

「あ、雪が降ってる……」

と宝の声に顔を上げると、ふわり、と白い固まりが空から舞い降りる様が見渡せた。

あれほど輝いていた月はすっかり潜めて、雪雲が敷き詰められている。

静かな住宅街に次々と際限なく降り積もる真っ白な雪は、ざわついていた一覇のこころを溶かしていった。

徒らに手を伸ばして雪を捕まえると、舞い降りたそれは一覇の体温で、すっと溶けて消えてしまう。

手のひらで水になった雪と白く見える自分の呼気を視界に入れて、菜奈の最期の言葉がまた脳裏に響いた。

菜奈はどういう気持ちで、一覇にこんな言葉を遺したのか。

あの頃の一覇は、幽霊どころかなにもかもを拒んで、恨んで、憎んで、否定していた。

ひとと触れ合うこと、なにかを感じて傷つき、傷つけられること。

傷ついたら、そこから一歩も踏み出せなくなることが、怖かったんだ。

沼に呑まれて消えてしまいそうな恐怖も、脚が折れて歩けなくなる不安も。

月明かりのない暗がりで、一筋の光さえ感じられなくなる、その深い悲しみと断崖のような絶望さえも。

みんなみんな、ぜんぶ『生きている』からこそ感じられること。

「大丈夫だよ」

優しく穏やかで、耳障りのいい声。

振り返ると、わずかな時間で雪が創り出した白い世界に、宝の姿だけがはっきりと映って見えた。

彼女はそのときどきで天使にも女神にも、妖精にも見える。

なんとも形容しがたい、不思議な魅力を秘めただと思う。

息が白くなるほど寒い雪のなかで、軽やかに宝が舞う。そのたびに、ひらひらと黄色いカーディガンも一緒に踊る。

白い指先が空を切り、雪を拾い集めては落としていく。

「『怖い』と思うことが、前に踏み出そうと戦っている証拠。人間だもん、怖いって思わない方がおかしいよ」

「でも」と一覇が言いかけると、それをだいぶ前から見越していたのだろう。

「一覇はなにが怖いの?」

決して責めている節はない。

それでも彼の弱気を否定するその要素は、多分に含んでいるであろう。

宝は一覇のすぐ側に歩み寄って、一覇の青い瞳にその優しい眼差しを向けた。

彼女の澄んだ淡褐色の瞳は、穏やかな凪のように広く深く感じられて、それを見ているだけで落ち着くようだ。

「自分が感じる不安や孤独、恐怖に立ち向かうことができる……それがすごく勇気がいるってこと、知ってる?」

いくつも待ち受けた柔道の試合でも宝は、誰が相手だって逃げたことがなかった。

果敢に戦い、負け続けても、その先に見えるはずの希望を目指して。

だけどたったひとつだけ、逃げ続けている問題がある。

誰にも言えなかったはずの、彼女の秘めたる想い。

言うのが怖くてたまらない。

言ってしまって、相手に拒まれたら……きっと自分は立ち上がれないと、そう考えていたから。

口にしてしまったら、ぜんぶが壊れてしまったから。

もう、戻せなくなった関係という現実が重くのしかかる。

平面的には穏やかで平穏なのに、宝のこころはいつも雨模様。

これからも、ずっと。

懲りない自分の気持ちに、現実に、逃げ続けるだろう。

月明かりも星の光も、陽光さえ通さない。

暗い暗い、なにもない海の上。

古びた舟に乗って、たったひとりで孤独と悲しみを嘆く。

進み出したらきっと、沈んでしまうんだろう。どこにも行けない、雨は止まない。

だから、もういいの。

そっとこころに蓋をして、なにも見えない感じない。それでいいんだ。

そんなある日、一覇も戦っているのだと、彼の気持ちのほんの一端を知った。

だから過去と戦い続ける一覇は、宝にとって憧れのヒーローなんだ。

「一覇はこれまでずっと、逃げなかったんだよ。ちゃんと前を向いて、立ち向かえているんだよ」

ほんの一筋、頬に熱いものを感じた。

宝の指かと思ったが、どうにも違う感触だ。

伝い、冷えて流れ、コンクリートの地面にぽつぽつと染みを作る。

「よく、頑張ったね」

自分が泣いていることに気づいたのは、宝が抱きしめてくれた瞬間だった。

陳腐で滑稽に感じていた言葉たちだったはずなのに、ひとが違うだけで、どうしてこんなにも沁みるのだろうか。

気がついたら小さな子供みたいにわんわん泣いて、宝に背中をさすってもらっていた。

一覇の嗚咽が落ち着いてきた頃。

宝は一覇にふわりと、いつもみたいに微笑んでみせて、「そろそろ中に入ろ」と優しく促す。

「ありがとう」

と先を行く宝の背にようやっとの思いで伝えた言葉は、いつもよりどこか明るく穏やかなものを含んでいる。

がさがさの声は数日間喋っていなかったからではなく、声変わりなのだと気づいた。

「どういたしまして」と宝はやっぱり笑った。

布団に戻ると、宝の体温が移ったみたいにぽかぽかと温かく感じる。不快だった布団の柔らかさも、いまはなんだか心地いい。

その夜は久しぶりに、怖い夢を見ないでたっぷりと眠れた。


あれからずっと、一覇は宝に密かな想いを寄せている。

ただ単純に彼女の「芯の強さ」に、優しさに憧れているだけなのかもしれない。

友情でも家族愛でもない、この曖昧な気持ちの名前。

声が変わって、身長が伸びて、筋肉がついて、どんどん変わっていった身体とあわさるみたいに。

宝への気持ちは膨らんで、確かな形となってこころに棲んでいる。

「宝」

とうに繁華街の雑踏に紛れた背中に投げかけると、いつもと変わらない優しい笑顔が返ってきた。

「なぁに、一覇?」

たとえばもし、いま一覇が「好きだよ」って言ったとして。

彼女はいったい、どう思うだろうか。

どんなをして、どんな声で応えてくれるだろうか。

わずかな逡巡ののち、やはり断られる恐怖が上向いた。

「いや……やっぱ、なんでもない」

あくまで一覇と宝は兄妹であり、彼女もきっと、一覇を『兄』として大切に想ってくれている。

あの日のこともきっと、宝は兄妹以上のことを考えていたわけではないはずだ。

そんな一覇のこころの会議室の様相もいざ知らず、宝はほとんど初めての夜の繁華街にはしゃいでいるようだ。

「変な一覇。……ねぇいま、すっごくアイス食べたい!ハーゲンダッツ。みんなの分も買っていく?」

「ガキどもの分まで買ってたら、お金なくなるぞ」

財布に余計な金を入れるのは、安全の面を鑑みて避けている。

いつもせいぜい、二千円と小銭くらいしか入れていない。

したがって一個三百円前後のハーゲンダッツを、施設の子供たちの分まで買うのは、無理であると容易に計算できる。

「えー、そこは一覇のATMからー……」

「ボクはキミ専用のATMじゃございませんっ!」

いまは————このままでいい、このままでいたい。

曖昧ながらもこの関係は心地よくて、それなりに気に入っているんだ。

逃げているわけじゃない。

いつか……いつか伝えても、いいよね?

銀色を帯びて輝く月が、穏やかに瞬きを繰り返す。

温かい光でいつもと同じように、夜のせかいを照らしている。



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