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亡霊×少年少女  作者: 雨霧パレット
第三種霊障士資格試験
51/88

僕たちはほんの一歩だけ、進んでみよう。

高校生は神奈川県の条例で、夜の労働時間が二十二時までと定められている。

深夜帯のシフトに組み込まれた人に仕事を引き継いでから、いちは男子用のロッカールームに引っ込んだ。

白黒のウェイター服を脱いで、ハンガーに掛ける。

コットンシャツにカーゴパンツを着て、上に春物のカラージャケットを羽織った。

靴も黒いローファーから、私物のコンバットブーツに履き替える。

最後に麻布のトートバッグに財布とIC定期券、そのほかの荷物が全部入っているか確かめてから、誰もいないロッカールームを静かに出た。

事務所にいた店長と、キッチンの花田とホール担当であるフリーターの男性に挨拶して、煌々と電気がついた店を後にすると……。

「あ、一覇!お疲れさま」

と明るい声がかかったので、出入り口のすぐ横にあるウィンドウ側に振り向いたら、見知った少女がいた。

クリーム色の長袖シャツとカーキ色のミニスカートの上に、ピンクのパーカーを羽織った快活そうな少女。背中にはお気に入りの熊のチャームがついた、白いデイパックを負っている。

柔らかそうな栗色のくせ毛をふたつに括り、同色の丸い瞳が小動物を思わせる愛らしさ。

「……たから⁉︎」

素っ頓狂な声を上げて、可愛い義妹がここにいることにひどく驚き、動揺した。

「なんでこんな時間に……もう十時過ぎてるぞ」

自分の時間感覚と店の時計を疑って、右手首に巻いた腕時計に目を向ける。

腕時計はちょっといい品物で、太陽光を浴びせれば衛星と通信して自動的に時刻を調整してくれる。

確かに時刻は二十二時を回っていて、背が高くてもスタイルがよくても、幼い顔立ちの宝はちょっと目立っていた。

一覇が来る前に、よく変な輩に絡まれたり、警察に補導されなかったなと、幸運を感じるほかない。

彼女は横浜駅には来ても、ひとりで繁華街まで来ることは滅多にない。

厳しい父の教育方針により、高校生に上がるまでは繁華街に近寄ってはいけないと決められているのだ。

中華街はとくに、外国人観光客の出入りが多い。

外国人のなかには、日本人の少女や少年を誘拐して犯罪に巻き込む輩がいることは、昨今の横浜で大きな社会問題になっている。

すべてのひとがそうとは限らないが、悪いことを考えるひとも確かにいる事実は拭えないことだ。

外国人だけではなく日本人でも、キャバクラやショーパブの悪質な勧誘や酔っ払いが、あちこちに溢れている。怪しいチラシ入りのポケットティッシュを受け取る程度で済めばいいが、それだけじゃ済まされない場合もある。

そういった危険から出来る限りで守ろうという親心は、一覇も高校生になってよく理解できているつもりだ。

「道場の帰りなの。……お腹すいたなーって、一覇に奢ってもらおっかなって」

ちょっと冗談みたいに、宝は上目遣いで答える。

宝は幼い頃から柔道を続けていて、そこそこに強いという自負からか、こういう妙な隙が生じる節がある。

義理とはいえ兄として、ため息を吐かざるを得ない答えだ。

「家で食えばいいだろ?こんな時間に、ひとりでうろついてたら危ないじゃん。一応、お前も女子なんだし」

「一応ってなに?失礼なお兄ちゃんなんだから」

母と同じように、ぷくっとお餅のように頬を膨らませて怒りの主張。

しかしその語気には、怒りという荒々しい感情はあまり感じられない。

どちらかというとふざけているような、兄をからかっているような、そんな印象だ。

「……帰るぞ」

ほんの少しの不機嫌を露わに、一覇は繁華街の雑踏を、横浜駅に向かって足を進めた。

少し早足な一覇の歩調を追って、宝のスニーカーが路面を軽やかに蹴る。

「“お兄ちゃん”って呼んだから、怒ったんでしょ?だって本当にお兄ちゃんでしょ!」

一覇の不機嫌な背中に、宝が図星を投げかける。

「うるさい!肉まん買ってやんねーぞ?」

「ごめんなさーい」

道中のコンビニに寄って、一覇は肉まんを自分の分と宝の分に二個買った。

熱々の肉まんをコンビニの外の空いている場所で、ふたり揃って頬張って、しばらく無言で咀嚼していた。

五月に入っても大手チェーンのコンビニが肉まんを販売しているのは、たぶん夜の気候がまだ安定していないせいだろう。

初夏だというのに、まだまだ半袖一枚では心もとない肌寒さだ。

一覇がレジに並んでいるあいだも、缶のホットコーヒーと肉まんをセットで購入している若者がいた。

肉まんの湯気と、それで温まったふたりの呼気が、深い紺色の夜空に立ちのぼる。

雲がひとつもない、三等星以下の小さな星までよく見える澄んだ空だ。

銀に輝く上弦の月がぽっかり浮かんで、ひとびとを穏やかに見守っている。

「ねぇ、一覇……えっと、元気?」

「なんだよ、唐突に」

早々に肉まんを食べ終えて手持ち無沙汰な宝が、日本語が怪しい外国人みたいな妙な質問を投げかける。

まだ半分くらい残っている肉まんと格闘する一覇は怪訝な顔で、大人しく隣で待っている義妹を見遣った。

「ううん」と首を横に振って答えてから数秒間のうちに、宝はなにか考えたのだろう。

少し元気がなさそうに俯いて、やがてなにかをこっそり窺うようにぽつりぽつりと喋りはじめた。

「なんか……最近あんまり、ふたりでおしゃべりしてないね」

この時点ではまだ、なんでもない兄妹の日常会話だと思って、一覇も冷めた肉まんの残りを大口を開けて頬張りながら気軽に応じる。

「オレが高校上がってからか?お前も部活で忙しそうだし」

「だって一覇、バイトばっかなんだもん。ご飯もケーキも、クッキーだって全然作ってくれないし」

「自分で作ればいいだろ、バイオテロ」

からかって言いながら、ようやく食べ終えた肉まんの敷き紙と紙袋を丸めて、外に並んでいるくず箱に入れた。

そのまま駅に向かう一覇を、宝が追って反論する。

「ちょ、ちょっとは上手になったもん!……美味しくないけど」

語尾の弱々しさに思わず苦笑し、振り返った。

やはりというか、目の前の宝は頬を膨らませて怒っている。

でもその怒りの仕草すら、一覇には愛しさを覚えざるを得ない。

柔らかい栗色の髪をくしゃりと、少し乱暴に撫でてやると、彼女はくすぐったそうに片目を瞑る。

「今度ヒマなとき、教えてやるよ」

「一覇」

といつもより強く厳しい語調で呼びかけるので、一覇の反応もわずかばかり構えた様子になる。

そんな彼の頬を宝はむにっと摘んで、緊張した筋肉をほぐすように連続して揉んだ。

一覇の頬は宝の予想外に柔らかく、夜の空気で表皮が少し冷えて、色もわずかに桃色になっている。

「うい?」

といかにも間抜けな声を上げている一覇の瞳の、奥の奥。

彼のこころの最奥を見透かした、宝の不安そうな声が一覇の耳朶を打つ。

「怖い顔、してる」

たったその一言で、彼女が自分のなにを感じ取ったのか、瞬時に理解してしまった。

一覇が苦し紛れの沈黙を守っていると、宝は躊躇いがちではあるものの、深く突っ込んだところまで進んでいく。

「やっぱり、なにかあった……?」

宝の茶色く丸い優しげな瞳はいま、大きな不安に覆われている。

また彼は、あの頃の濃い闇に吸い寄せられているのか、と。

やっぱりわたしでは救えないの?

わたしでは、お兄ちゃんの妹にはなれないの?

本当の家族として、想ってもらえないの……?

だからなにも言わない。

ひとりで抱え込んで、暗く沈んだ闇に閉じこもる。

〈あの日〉にひとり置き去りにされた、いつまでも小さな少年のまま。

手を伸ばすことも、差し伸べられた手を握ることも、ましてや立ち上がることなんてできない。

「……隠せないもんだな、妹様には」

独り言のように、ぽつりと漏らした。

宝を————大事な妹を不安にさせた。

兄としてこれ以上ない、なんとも情けない話である。

たとえば彼女に、家族以外の特別な感情を抱いていたとして。

それでもやはり一覇にとって、彼女はとても大切なひとだから。

大切だと思うひとに、自分の素直な気持ちをすべて知ってもらうことは、なによりも照れ臭くて難しい。

嫌われるかもしれないとか、変に思われるかもしれないとか。そういう感情に囚われるから、余計に言えなくなる。

でも。

彼女の柔らかい髪を、もう一度だけくしゃりと撫でる。

「もうこんな時間だ。帰ったら……ぜんぶ話すよ」

ぜんぶ受け止めてくれると、信じてみることから始めよう。

————そういえばこんなこと、前にもあったな。

懐かしいような、淋しいような、感慨深いものがこころにじわりとこみあげる。

月明かりはやはりいつも、淋しくて、優しくて、温かくて。

ほんのちょっぴりの、郷愁を感じる。



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