日常に溶ける香り
屋上への扉の前で倒れているところを、一覇を捜しに出た看護師に発見されて、開いた傷口を緊急オペで再縫合。
麻酔が切れた頃にはやはり日付が変わっていて、しかし状況が許したのか、明日香と宝がそばに付いていてくれた。
無事でよかったと微笑む明日香と、幼児みたいにわあわあ泣きわめく宝。
白いベッドの上で大人しく寝そべって、女性看護師の丁寧なバイタルチェックを受けた。
左腕には鎮痛剤の点滴が新しく刺されていて、倒れる前に無理矢理引き抜いたせいで、青紫色の斑点が痛々しく残されている。
医師が一覇に問診して、「とりあえず大丈夫ですね」とひと息。
誰も口にしないので、明日香に資格試験の結果を尋ねた。
「落ちたってきいているわ。でも一覇くん、まだ君は久木学園に入学したばっかりなのよ。落ち込むことはないし、こんな無茶をする必要もないの」
と怒った様子もなく、ただ優しく諭された。
見るからに優しそうな、宝とよく似ている眉と丸い瞳を、悲しそうに歪ませている。
「ごめんなさい」
ととりあえず謝ると、一覇よりも小さな手でくしゃりと彼の頭を撫でた。
たったそれだけのやりとりを交わして、明日香はまた用事があると言って病室を静かに出て行った。
その全部の光景が、いまの一覇には夢を見ているみたいにふわふわと浮いている。
まるで『日向一覇』という人物の歴史そのものが、スクリーンから観ていた映画みたいに遠く感じる。
自分が自分じゃない。
この身体全部が、オレのものじゃないという気味の悪い感覚。
腕も指も自分の意思で動かしているというのに、皮膚の一枚単位で考えさせられる痺れみたいな違和感。
左手の人差し指の付け根にあるほくろの位置も、爪の形も、犬に噛まれてついた古傷ひとつとっても、普段は深く意識しないはずなのに、ちゃんと覚えている。だけど。
それらの記憶すら、フイルムに焼き付けられた8ミリ映画みたいにどこか色褪せて、それでいて物静かだ。
じゃあお前は誰だ、と問われても、答えは一秒では見つからない。
それどころか永遠に繰り返す、自問自答。
オレは誰だ。
お前は、いったい誰だ。
「一覇……?どこか痛いの?」
一覇がよほど厳しい顔を浮かべていたのだろう。
宝が心配そうに眉根を寄せて、目を合わせる。
「……なんでもない」
いまの一覇には、それだけ言うのが精いっぱいだった。
こころに触り、しつこくこびりつくなにかを、一覇は必死に振り払おうとする。
————オレはいったい、どうしてしまったのだろう。
もうひとりのオレが、うるさくわなないている。
あなたはいま、どこにいるの?
長い黒髪が美しい、あのひと。
普段はちょっと素っ気なくて、だけどふと見せる笑顔が、どうしようもなく可愛い。
僕が生涯をかけて愛した、かぐや姫。
あの金色の満月に呼ばれて、帰ってしまったのか。
ずっとそばにいるって約束したのに。
約束したから。
たとえどんな姿になっても、僕はあなたと、もう一度だけ出会いたい。
僕のことを忘れてしまってもいいから、ただ幸せでいてください。
それだけ祈って、僕は月を見上げた。
あなたも見ているかもしれない、この美しい光景を。
二〇〇八年五月三日、土曜日の午後。
新緑の季節で、日差しが強くなりつつあるので、日陰にいないと少し汗ばむ。
一覇はようやく退院して、心配する義妹をよそに、病院を出たその足でアルバイト先に挨拶した。
菓子折りを持って女性店長に頭を下げると、「そんなのいいのよ、もう大丈夫なの?」なんて温かい歓迎を受ける。
先輩大学生の花田青年がキッチンから一覇と店長がいる事務所に突撃して、一覇の退院を手荒く祝ってくれた。客入りが激しいのにキッチンを抜け出すなと、真面目なチーフ社員の怒鳴り声が聴こえる。
他のアルバイトやパートの面々も、みな一覇の退院を手放しに喜んでくれたので、一覇は改めて頭を下げて、次の月曜から復活すると約束した。
世間がゴールデンウィーク真っ只中なので客が多く、忙しい時期とあって熱く歓迎されたのも喜ばしい。
有り難い気持ちでアルバイト先を出てから、一覇は横浜駅前を少しだけぶらぶらして、夕陽がビルの窓に反響する頃に相鉄線横浜駅の混雑している改札をくぐった。
どうも帰宅ラッシュにぶつかったらしい。空いている席がないので、諦めてつり革に手首を預けた。
ガタンゴトンと、電車が揺れる。
いつも通りの線路沿い、騒がしいホーム、きゃっきゃと姦しい女子高生のグループ。
疲れた顔のサラリーマンが、うとうとと舟を漕いでいる。若い女性が茶色いカバーをかけた文庫本を読んでいる。たくさんの紙袋を抱えた老女、学校指定の大きなランドセルを背負ってひとりで立っている私立小学校の児童、乳児を抱いた母親。
どこでも見るいつもの風景なのに、やはり妙な違和感がある。
二俣川駅で電車を降りて、時代の流れで崩壊しかけている商店街を通り抜け、住宅街の中にある大きいだけで古い児童養護施設『ひなぎく園』が見えた。
「ただいま」
と玄関ホールに入ると、子供たちの手荒く手厚い歓迎が。
夕飯の支度で忙しい明日香に代わって、宝が「遅かったね。どっか寄り道してたんでしょ?」なんて軽く咎める。
明日香のお陰で少ない荷物を置きに、自室へ向かった。
事前にきいていた通り、椋汰は野球部の合宿に参加していて留守のようだ。
誰もいない部屋で荷ほどきをしてから、入院中に出た洗濯物をカゴに入れるついでに手を洗う。
「ご飯だよ」と宝のかけ声と同時に、いい匂いが溢れるダイニングに飛びついた。
久しぶりの義母の手料理は、やはりいつもと変わらず美味しい。
子供たちの世話をしながら風呂に入り、久しぶりに自分の布団に潜りこむ。
深い天鵞絨の空に包まれた三日月を眺めていたら、いつの間にか眠りについていた。
緩く緩く、深い沼に沈んでいくように、気持ちのいい感覚。
そうしてまた、あの夢を見た。
空に月がない、深い常闇のせかいで。
オーロラ色の大きな建造物のなかにある、広い空中庭園。
この庭でたった一本のキンモクセイ。
美しく剪定されていて、一種の芸術性を感じさせる形をしている。
鼻につく強い芳香が、夢のくせに妙に現実味を帯びているのはどういうことか。
赤白金の巫女服を着た、この世のものとは思えない隔絶された美しさの女性が、そこにいた。
金糸の豊かな髪が柔らかな風になびいて、周りを照らしている蛍のような光を雪みたいにぽつりぽつりと反射する。
滑らかな白磁の肌をほんのり桃色に染めて、わずかに瞳を潤ませた。
「待っている」
そう彼女は微笑んだ。
淋しそうに、哀しそうに。
朝、目覚めた直後はよく覚えていたはずなのに、宝と挨拶を交わしたときにはもう忘れていた。
ただ、鼻をくすぐる季節外れのキンモクセイの香りが、なんとなく鼻に残っている。
懐かしさがこみ上げる悲しみも、たぶん夢のせいなんだって。
いつも通りに世界は周り、一覇はアルバイト先に向かって電車に乗った。
せかいは廻り、月はまた瞬きを繰り返す。
深い天鵞絨のなかにぽっかりと浮かぶ巨大なクリスタルの城が、今日も幾万もの月光虫の光を受けて、淡く輝いていた。
夢のなかで、届かない手を必死に伸ばす。
キンモクセイの芳香だけが強く鼻を抜けて、君の姿はすぐに見えなくなった。
二度と会えないはずの君に、オレはもう一度、永遠の恋をする。
————そしてオレたちは、もう一度、出会うんだ、と。
繰り返し、繰り返し。
指を空に絡めて約束する。




