予兆
目を覚ましたら、一覇はオフホワイトに包まれた部屋で寝かされていた。
なにか夢を見ていたのか、右手を伸ばす仕草のまま、涙を一筋だけこぼしている。
清潔な純白のシーツで涙を拭い、それから身体のあちこちが痛いことを今更ながら思い出した。
————そういえば……あのインチキ神父にさんざんボコられたんだっけ。
トドメに腹を刺されたことも蘇り、別に誰に言うでもないが自然と「クソ野郎」と吐き捨てていた。
しーんと静まりかえった暗い室内を見渡してみると、ここはどうやら大きな病院の個室のようだ。
ベッドの他にはバイタルを測る計器類と、鎮痛剤と思われる透明の点滴、二脚のパイプ椅子、テレビのついた棚に、入り口付近にトイレだと思われるドアが付いている。
椅子の上には一覇が家に置いてある、旅行用の青くて大きなカバンが載っていた。
たぶん義母の明日香か義妹の宝が持ってきたのだろう。中を漁ると、着替えと新品のタオルと、歯ブラシなどが入っていた。
はめ殺しの窓から空を覗く限り、いまの時刻はおそらく夜中で、深緑色をしたリノリウムの床が夜用の小さな照明を反射して光っている。
たぶん、あの保泉との試合の直後にここに運ばれて、意識のない一覇のそばで宝が泣いていて、明日香が入院の手続きを済ませてくれたのだろう。
試験も落ちたし、退院したらきっと普段通りに学校に行く。
皇槻鷹乃の目論見とか、そういう難しい大人の問題とは特に縁もなく、いつもの生活が続くんだ。
だけど。
鎮痛剤が点滴されていてもなお痛む腹を、愛おしげに指でさする。
簡易な入院着と包帯の下は、医師によって縫合された傷口が横断しているのだろう。
————あの、戦いのなかに身を置く高揚感が、痺れるような緊張感と、死の淵を渡る恐怖が。刃と刃が交錯するときの、あの美しい火花が。ひりつく傷口が。
戦場のぜんぶが、忘れられないなんて。
どうかしている。
オレはただ、あの男と試験のために戦って、四季の言う通りにとりたてて緊張もなく負ければよかった。
それだけのはずだ。
負ければいつものように学校に行って、試験のことは友達とのひとネタにして笑う。また普通一般の学生と同じように、のんびりと霊障士を目指す。
オレの日常は、そんななんの変哲もないもののはずだ。
なのになんだ。
この期待感。この恍惚。
戦って死にかけて、それでもなお生きているという、この悦び。
身体に繋がれた計測器のコードと、点滴のチューブをひと息に引き抜く。
心拍を計測していた機器が、警告音を発して、患者の異常を一心に知らせている。
足下をほんのり照らす照明を頼りに廊下に出て、ひたひたと裸足で歩いた。
リノリウムの床が冷たい。暖房が効いているはずだが、布団から抜け出したばかりの身には、四月の空気はよく冷える。
目的地もなくふらふらとさ迷い、とうに鍵をかけられた屋上への扉に手をかける。
月が見たい。
どうしてかそんな感情が湧き起こり、こびりついて離れない。
がしゃんがしゃんと、押しても引いても開かないのに、攻めいる感情を吐き出したいがために、狂ったように叩きだした。
腹と同じように包帯が巻かれた腕で、痛みも無視して叩く。
この懐かしい痛みは、なんなんだ。
この深い悲しみは、なんなんだ。
月を見たいと愛しむこころは。
還りたいという思いは。
知らない誰かを愛おしく想う感情は。
このせかいを壊したいという衝動は。
誰かを……大切なあのひとを、殺したいという本能は。
視界が赤くなったり白くなったり、鬱陶しく明滅を繰り返す。
呼吸が浅くなり、喉がひどく渇く。心臓の鼓動も、みるみる速くなっていく。
傷口が開いたのか、腹がじんじんと痛みだした。押さえている手のひらに、熱い感触が広がる。
頭が痛い。なにかを脳に無理矢理押し込まれるような、そんな感覚がする。
「なんなんだ……っ⁉︎」
《ボックスガーデン・プロジェクト》の発動まで、17,517時間。
月の怒りはふつふつと、しかし確かに膨れあがる。
かぐや姫は今宵も、満天の星空のもとで艶やかに舞い踊り、我らの天地に温かな粉雪を降り注ぐ。
静かに祈るは、あのひとへのひたむきな想い。
どうか、どうか。
もう一度だけ、ほんのひと時でいいから、あのひとをこの目に映したい。
たとえどんな姿になろうと、その瞳は決して変わることなく、美しく凛々しく輝いていると信じているから。




