誰かのヒーロー
連投!
「お待たせいたしました」
と今更ながら響く受付嬢の声に反応し、一覇は提出していた学生証と、出来上がった受験カードを受け取った。
学生証から引き抜いた、写りが悪くてぶすくれている自分の顔写真と睨みあい、それから三桁の受験番号を見つめる。
444番という実に不吉な数字が、一覇の死亡の予言にならなければいいのだが。
「い、一覇……?」
らしくなく遠慮がちに声をかける幼馴染に、一覇はつとめて頼もしい笑顔を向けた。
「大丈夫だって、そんな顔すんなよ」
四季の表情は、これまでの不遜な態度がどこへやら。すっかりしょぼくれて、まるで一覇がよく知っている、幼い頃の気が弱い矢倉四季が戻ってきたようだ。
太く短い凛々しい眉根は八の字に、美しい金の瞳は精彩を欠いている。
こちらの方が一覇はありがたいというか、慣れているはずなのに……いまはツンケンしていないと心配だなんて、おかしな話だ。
「勝算がまったくのゼロ、ってわけじゃないんだ」
じゃなかったら、あんな強気にしていられない。いまだって、こんなに平然でいられないと思う。
いくら喧嘩を売られたからって、馬鹿丁寧にひとつひとつ買っているほど身の程知らずでもない。
危険な賭けであることは間違いないが、それでも突破口はかろうじてある。
たとえば相手が第一種霊障士の六条保泉ではなく、第三種か第二種くらいであれば、勝率を六分くらいまでは期待できるだろう。
「な、ならどうやって百戦錬磨の、プロの試験官に勝つというんだ?生の死体を見て吐きだした素人が!」
四季がここにきて止めようというのか、ずいずいと鋭く攻めてくるけれども、一覇はそれをウナギのようにするりと躱す。
「ん、んまぁそれは……あとのお楽しみってことで。ほらオレ、もう着替えとかないと」
落ち着いた女声の館内放送で、筆記試験の会場が開放されたと言っている。
試験開始の十分前までに会場内の指定された卓にいないと、その時点で失格扱いになるらしい。
一覇は自分の制服を四季から受け取って、館内のトイレで身支度を整えた。
いつもの制服に袖を通すあいだ、いろいろな感情が今更ながらぐるぐると湧き出す。
本当に『あのひと』……皇槻鷹乃の考えていることを、あるかもしれないなにかの計画を看破できるのか。
この試験、無事に済むのだろうか。
オレの作戦は、オレの力はこの世界で通じるのだろうか。
もしもなにかひとつでも失敗したら、四季の言う通りに死ぬんじゃないか。
————こわい。
脳裏によぎるのは、いままで見てきた死体たち。
父と母、弟と知らないひと、知らないひと、知らないひと。
血だらけで、手足がもげて、内臓と骨が無惨にも飛び出している。
痛いなんてものじゃない。まさしく死の世界。熱くゆだった地獄の釜のなか。
もしもなにかひとつ、たったひとつでも間違いや失敗があったら……。
しつこくまとわりつく死への不安を振り払うように、強くかぶりを振った。パンと一発、自分の頬に叱咤激励。
大丈夫だって、自分でそう言っただろ。必死にそう言い聞かせる。
いまさら怖気付いて、やっぱやめるなんて。カッコ悪いじゃん。
不安も恐怖もぶち破れ。そう、ヒーローみたいに。
四季の不安で揺れる瞳を思い出す。
幼いあの頃、彼は一覇のことを、信じてやまなかった。
まだ中学生だったあの頃、彼女は一覇を信じてその手を取った。
「オレは、ヒーローなんだ……そうだよな?」
漫画やアニメのヒーローだって不安や悩み、迷うときもある。怖いときだって、きっとある。
それでも追い風の中で前を向いて、ただひとつ自分を信じるひとのために、この足を止めない。
どんなに傷ついても歩き続ける。
這いずり回るヒーローなんて見たことないけど、足が壊れたときはきっとそうする。
ヒーローは英雄であっても、決して、超人聖人なんかじゃない。
怖いときはあるし、不安や疑念を抱くことはある。
勝利するために、手段を選ばないときだってあるはずだ。
四季が待っている。『あの頃のヒーロー』を信じて待っている。
菜奈がどこかで見ているかもしれない。
「しっかりしなよ、らしくないじゃない」って苦笑しているかもしれない。
トイレのドアを開けて、しゃんと前を向いて、ぐっと背筋を伸ばして、前に進む。
「いくぞ」
着替えを持ってトイレから出たところで、そわそわウロウロしていた四季が目に見えてぱっと顔を輝かせた。
「一覇!」
試験会場の入り口に差し掛かったところで、四季が一覇の背に投げかける。
一覇が振り向くと四季は不器用に右手の親指を立てて、ものすごく気恥ずかしそうに赤面して、しかし思い切り叫んだ。
「が、頑張れ……っ!」
たったこれだけで伝わる、四季のたくさんの、溢れる気持ち。
巻き込んでごめん。
助けてあげられなくてごめん。
君はいつも、僕のせいで無理無茶をする。
守ってあげたかった。
あの頃の君みたいに、今度は僕が君のヒーローになりたかった。
いくら強がっても、結局のところ僕は弱いから。
こうしていつもいつまでも、君を見ていることしかできない。
ごめん。
ごめんね。
いまにも震えてしまいそうな肩を、必死に捕らえる。
泣き出しそうな金の瞳を、ぐっと抑え込んで。
彼のその様子を見て、一覇は思わずくすりと微笑った。
————こういうとこは、あの頃と全然変わんないな……。
あの頃も、一覇が無茶をしていると四季は泣いた。たぶん心配と、殴られるさまを見て痛々しい気持ちになりたくないからだろう。
上級生が混じったいじめっ子たちに、一覇はいつも果敢に挑む。
弟の逸覇を巻き込んで、たったふたりで五人六人と殴り合ったときもあった。
てんでボロボロに負けたけど、それでも救えるものは確かにあった。
あの頃の一覇は、ヒーローだった。
四季を助けるために、いじめられている誰かを救うために、菜奈の心を守るために。
そして今度は……いつまでも立ち上がれなかった、そんな弱い自分のために。
一覇も親指を立てて、力強く応える。
未踏の不安と恐怖を背負いながら、試験会場に堂々と足を踏み入れた。
ただひとり、誰かのヒーローになるために。
試験官がやって来て、受験者全員が揃っていることを確かめる。両開きの樫の扉が重々しく閉じられて、問題用紙と解答用紙が配られた。
手元に用意された鉛筆でマークを塗りつぶす、マークシート方式だそうだ。
しかし最後の一問だけは、毎回テーマの違う小論問題がある。
主に霊障術や霊子科学におけるなんちゃら、『陰陽術と霊子科学の融合と展望、未来について』といった過去問題もある。
全百題のなかで最も難しく、それだけに配点が最も高い。
マークシートの選択問題は前座で、実はこの小論問題で全て決めているのではないかとすら噂が立っているほど、受験者たちには重要視されている。
鉛筆と消しゴムになにか不備がないか確かめさせられたあと、いよいよ試験開始の合図がされる。
試験時間は会場の前方に掛けられた時計で五十分間。
記入が終わった者から試験官に記名した解答用紙と問題用紙を提出し、鉛筆と消しゴムを返却して会場を出る。
もちろん時間内であれば、いつまでも粘っていい。
一覇は終了二十分前に記入を終わらせ、そのあと終了までとっくり返し問題用紙を読んであれやこれやと考え直し、ときには解答を変えた。
終了の合図で問題用紙を閉じて、散らかした消しゴムのカスを集め始める。
会場には鞄やポーチなどの持ち物は一切持ち込めないので、記入済みの問題用紙と解答用紙、鉛筆と消しゴムを所定の場所に置いて会場を出た。
その頃には受験者の数は、三分の一以下になっていた。
たぶんこういう試験だから、一覇みたいに突発で受験している者はいない。みんなこの日のために勉強して、準備を重ねてきたのだろう。
張ったヤマが当たってスラスラ答えられた者はみな、早々に会場を後にして自販機でコーヒーでも飲んでいる頃かもしれない。
とりあえず一次試験は終わったんだから、一覇もなにか甘いものを飲もうと決めて四季の姿を捜した。
四季は案の定、閉ざされていた会場のすぐそばで落ち着きなく立っていた。
バラバラと出て来た受験者のなかに、なかなか一覇が見当たらないので明らかにオロオロしている。
「四季」
と声をかけてやると、彼は目に見えてホッとしていた。こころなしか、目尻に涙すら浮かんでいるように見える。
四季を誘って試験場内の小さなカフェで、ブレイクタイムとしけこんだ。
一覇はクリーム鬼盛りのキャラメルマキアート、四季はシンプルにブラックコーヒーを頼んで、おのおの味わう。
四季は特に試験の手応えを尋ねてこない。
六条保泉と皇槻鷹乃、そして他ならぬ一覇の予想は外れないと見ているかもしれない。
こう言ってはなんだが保泉はともかく、鷹乃はかの高名な【最上の巫女】である。
彼女の予見者としての実力は、世界の誰しもが畏怖するレベル。その鷹乃の予想が、外れることがあろうか。
なにも言わないで黙々と熱いコーヒーをクールな眼差しで飲んでいる脳裏には、これからどうやって一覇をエスケープさせるか、いまだ諦め悪く足掻き思索しているのかもしれない。
しかし四季の計画は、やはりこの男にあっさりと崩された。
「一次試験突破、ひとまずおめでとうございます。日向一覇くん」
と軽々しくも親しげに声をかけてきたのは、重々しい黒の修道着に身を包んだ、黒と赤のオッドアイの男。
皇槻鷹乃の執事にして第一種霊障士、四季の師匠である六条保泉。
かなり独特の飄々とした軽い態度だが、いまいち隙が見えない。いまのところ油断ならない大敵と思われる。
「……どーも、おかげさまで」
素っ気なく答える一覇に、しかしなおも保泉はペラペラと話しかける。
「すごいですねぇ。試験官一同、年齢と比べてひどく驚愕していましたよ。たった十五歳でここまでできるのか。特に最後の小論問題、あれはワタシも寝耳にウォーターといいますか。とにかく見解が独特で新しい。そして実に的を射ている。文句なしの満点ですよ」
結果発表前にこれだけの情報を持っているところを見るに、この男は試験官のひとりなのだろう。
これだけボロボロ漏らすということは、もう結果発表直前の時間だろうか。
————ただの第三種試験に、第一種が?
内心で訝しむだけで、顔には絶対に出さない。
「ドーモ」
軽く会釈だけで、淡々と返していく。
どうにも、きな臭い展開になってきたようだ。
第一種霊障士といえば日本でただひとり、この男だけの称号である。
それすなわち、日本で最強の霊障士という証。
日本は横浜を中心に、世界でも有数の霊障地帯だ。霊障士はそれだけ求められていて、とくに第一種と第二種は《祠の悪鬼》など、特に厄介な悪魔に多く駆り出されている。
それだけの重要かつ貴重な人物を、よもやただの第三種を選別するためだけに、この場に呼び出すか。
通常では、絶対に考えられない人選である。
「やはり日向博士のお孫さんですね。二次試験もこの調子で頑張ってください」
「頑張りマースシママース」
————この試験、なにかがある。たぶん、皇槻家が絡んでいる、大きななにか。
さしずめ、ここでようやく世界の歯車に嵌め込まれた、というところか。厄介なことになったものだ。
このゲームは、一覇と鷹乃の完全なるサシというわけにはいかないらしい。ナイトはプレイヤーにもなりうるのだろうか。
「ところで」
と突然、保泉は四季に目を向けた。正確には、四季の耳を注視している。
「四季様はまだ、〈血の契約〉を済ませていらっしゃらないようですね」
いままでクールにホットなコーヒーを啜っていた四季も、かなり慌てている。額には脂汗がじわりと浮かんだ。
「っ……べ、べつにやらなくたって……」
とモゴモゴとどもりつつ、制服の胸ポケットに手を当てて、なにか小さな物を指で掴んでいる。
そこになにが入っているのか、一覇は先日知ったばかりだ。
「絶対血統家においても、〈血の契約〉は絶対の掟。それはこの世界に入って間もない君にも、よく教えたはずでしょう」
たぶん保泉自身の本命はこれだな、と一覇は読み取った。
《祠の悪鬼》たちが示す〈血の契約〉と、絶対血統家が行う〈血の契約〉には、本質的な差異はない。
絶対血統家にはその由来する能力の『柱』と言われる《祠の悪鬼》がいて、それと契約することで絶対血統家に所属することを証明している。
ただ、悪魔たちはその身に直接、証を刻むが、人間はそれをすれば圧倒的な霊子量で死んでしまう。
人間のいう〈血の契約〉の証は明治時代より、『柱』となる鬼と人間の、契約者双方の血を吸い込んだ耳飾り————ピアスに刻まれる。
金属部分は、霊子をよく通すと言われるニュークロムを軸に、アレルギー体質の人体にも優しく有機チタンで覆っている。
ピアスの飾り部分に使われている宝石は石榴石のような見事な紅色だが、石榴石でもルビーでもない。琥珀みたいに、細かい虫でもないなにかが入っているが、その正体は誰も知らない。
一体なんの鉱石かは、石の提供元である皇槻家しか知らない。それも、当主の鷹乃だけしか知り得ない。
研究解析も許されず、ただ「安全だ」と言われるがままに使用しているのが現状だ。
絶対血統家の当主は古くからの血筋の他に、その〈血の契約〉が絶対条件とされている。
絶対血統家の正当な血筋の人物でも、〈血の契約〉を結んでいなければ当主候補からあっさりと外される。
それだけ〈血の契約〉で得られる能力というものは、さまざまな意味合いで強い影響力を持っているのだ。
しかしもちろん、能力を得た代償というものはある。
人間が支配下に置いた『柱』とはいえ、凶悪な《祠の悪鬼》と契約するのだ。
強靭な精神力と支配力がなければ、あっという間に精神を乗っ取られ、ヒトではいられなくなる。
霊障士のなかには、そうして精神を乗っ取られて廃人となった者も少なくない。
そして四季は、自身も自覚している通りに強くない。きっとあっという間に廃人にされるだろう。
その危惧が、四季を躊躇わせる。
そんな迷いを、師匠である保泉はもちろん見抜いていた。
我が弟子ながら情けないと、思わずため息を漏らす。
「そんな中途半端な覚悟だから、時繁様も十四代目襲名をお許しにならないのでは?」
「……っ!!」
絶対血統家のなかで唯一、歌舞伎一座という歴史も相まって、当主は男性でなければいけないと決めている矢倉家。
四季は長男で、上には年が離れた姉がふたりいるだけ。下はいない。
周囲からの期待は、それだけにとても大きい。
特に曽祖父の時繁は四季が生まれた時、たいそう喜んだそうだ。
四季の父親は結城家からの婿養子。矢倉家に男児が生まれたのは、時繁のあとでは四季が初めて。
それだけに、ふたりの姉に申し訳ないと思うほど、振り切って大切に育てられた。
剣の稽古やさまざまな体術の訓練、霊子科学の座学や実技……霊障士になるために、最高の教育を与えられた。
だが四季は、剣を振るより演じることに魅入られた。
美しい着物を着て、白粉を塗って、自分じゃないほかの誰かになれる世界。
弱くて頼りない『矢倉四季』は捨てて、強く美しい『誰か』になるその瞬間。
痛かったりつらい思いをせず、ただ憧れのヒーローにもなれるその時間が、四季にはなによりも魅力的だった。
四季の拳が、自分の弱さに対して怒りと嫌悪、悲しみを帯びて震える。
「僕は……誰かのヒーローにはなれない……っ!」
戦いは常に、自分の弱さと向き合わないといけない。
痛いこともつらいことも味わわないといけないし、強くないと死んでしまう。
誰かを守るために、命を張る。ときにはその覚悟がなくてはならない。
曽祖父にやらされた修行はつらいだけで、四季のなかはなにも変わらなかった。四季はますます戦いを嫌い、演技に傾倒していった。
やがて時繁も諦めたのか、四季が修行をサボってもなにも言わなくなっていった。
もう、曽祖父には見限られたのだと、そのときの四季はひと安心したものだ。でも……
時繁はいつまでも四季の代わりになる養子をとらないし、だいぶ年老いた自身が当主で居続けている。
その座を、誰かのために守っているみたいに。
保泉もたまらず、くすりと笑った。
「時繁様は君が思っている以上に、君に期待していますよ」
なにも言わない、頑固で無骨な曽祖父の背中が、四季の脳裏によぎった。
誰に進言されても意見を変えず、当主の座を守り続けているのは……
————僕を、信じている……?
あのおじいさまが?
信じられない気持ちだが、信じたいというわずかな期待の思いもある。
だって、あの曽祖父に認められるなんて、絶対にありえない未来だと思って生きてきた。
曽祖父はいつも遠くて、振り向いてくれない。
こっちを見て!ってどんなに叫んでも、声は届かない。
手を伸ばしても届かない背中を、いつしか追いかけなくなった。
いじけた子供みたいにそっぽを向いて、でも本当は見て欲しくて。
だから僕はまた、戦おうって決めたんだ。
弱い自分にサヨナラして、おじいさまに見て欲しくて。
誰かのヒーローでいたい。
弱くても、かっこ悪くても、頼りなくても。
不器用に誰かを守る、誰かに信じてもらえる。
一覇のような。
おじいさまみたいな。
そんな、ヒーローに……。




