箱庭で揺れる人形劇
封鎖された現場で誰よりも遅く……深夜まで事後処理を続けて、保泉は終電ギリギリの電車移動で皇槻家に戻った。
一応は車も持っているが、都心や横浜市内なら電車の方が駐車場の問題がなくて都合がいい。
横浜市中区の一部分にある広大な皇槻家の敷地は、半分くらいは森になっている。
一般的な地図上では『皇槻神社』として登記されている、由緒ある土地だ。
目出度い朱色と白で彩られた寝殿造りの、その最奥部……主人の部屋に併設された浴室に、保泉は直立していた。
「日向一覇……まるで“彼”の生き写しですね。このこともご存知で?」
大判サイズのバスタオルを新しく用意して、間仕切りの向こうにいる主人が湯冷めしないよう待ち続けている。
まるで忠犬だ、とときおり自虐することもあるほどに、彼女には忠実なつもりでいる。
本来であれば侍女の役目なのは当然なのだが、彼女は余計な人を嫌う。
ほとんどの世話を保泉に任されている理由が、これである。
いくら相手が子持ちの人妻とはいえ、自分は男なのだから、浴室での世話だけは止めさせてもらいたい。そう思う日もある。
彼女————《最上の巫女》皇槻鷹乃は、頼りない藤でできた間仕切りの向こう側に男性がいる、という気負いを感じさせない、軽やかな声で答えた。
「えぇ、もちろん。予見というのも、つまらないものですよ」
「どこまで視えていらっしゃるのやら……ワタシも一度は視てみたいものです」
ぱしゃん、と鷹乃の手遊びに反応して、湯が踊り跳ねる。
檜の湯船から湯気が立ちのぼり、龍のごとく踊り狂うさまを、保泉はなんとなく目で追った。
水蒸気を追いかけることに特に意味はなく、暇つぶしに最適だっただけだ。
それでも気を引き締めているつもりで、彼女の一挙手一投足に注目を置いている。
「面白いことは……まぁ、たまにありますけれど。お勧めはしかねます。常人では気が狂いますよ」
どうやら、かけた軽い罠に、徐々に近づきつつある。
内心でほくそ笑んで、保泉は彼女を追い込もうと言及する。
「貴女は常人ではないとでも?」
しかし彼女はふふふ、といつもみたいに悪戯っぽく笑って、ぬるりと答えた。
「少なくとも、普通の女性ではありませんね」
「確かに……おっと、失礼しました」
思わずくっくと笑ってしまった。
いついかなるときでも、主人に対して礼儀を欠いてはいけない。これが保泉なりの、執事の最低限の矜持である。
————まったく……この御方は。
いくら細かい網目のように罠をはろうと、こうしてするりと抜けてしまう。
とある理由から彼女に仕えて、もう三十年になるが、いまだに罠にはまってくれない。
それどころか、たぶん彼女は保泉の目的を知っている。だけど黙って生かしているし、こうしてそばに置いて重宝している。
重要な役割を与えるし、必要とあらばたぶん彼女は保泉を擁護するだろう。でも……
————最後には、スパッと切って棄てるんでしょうね。
思わず出るのは、苦笑だ。
皇槻鷹乃という女性の、不思議で底知れないなにかの力と魅力に、今代最強の保泉でさえ笑うしかない。
皇槻家の出ではない、絶対血統家の分家ですらない一般家庭の娘が、あろうことか皇槻の後妻。
彼女がなぜ希少な予見者として生まれ、《最上の巫女》と称されるほどの能力を有しているのか。
三十年の時を共にしても、いまだ紐解かれない謎。
ただ。
鷹乃にとって、保泉の力がいまのところ必要。
保泉もまた、鷹乃のそばにいることで果たせる目的がある。
気持ちのいいくらい利害の一致があるから、なにをしてもお互いに見て見ぬふり。
でも、肝心の懐には、簡単に入れない。
すべてが容易に白日のもとに晒されてしまうのは、面白くないから。
「ワタシたちの関係は、それくらいでちょうどいいのかもしれませんね」
ほとんど独り言のような保泉の結論は、鷹乃も深く納得のようだ。
「貴方のそういう素直なところ、わたくしはとても気に入ってるわ」
腹の探り合い。ときに軽い糾弾と、冗談の応酬。
きっとこれからもこの関係は崩れず、むしろ日に日に面白味が増していくのだろう。
どちらかが飽きたときが、止め時である。
「……それにしても」
鷹乃は思い出したように、湯船の縁に置いていた、二枚の戸籍謄本のコピーを眺めはじめた。
飾り気のない黒のフォントで、戸籍の持ち主の情報が一切合切記載されている。
一枚目は『日向一覇』。
一九九二年十月九日生まれの、長男。
出生地は、神奈川県横浜市中区。
届出人は祖父。
父は『日向慶一』、母は『日向小苗』とされている。
二枚目は『日向逸覇』。
出生地や父母の欄は一枚目とほとんど変わりないが、出生日が異なっている。
一九九二年十月十日生まれ、次男。
双子で誕生日が違うことは、彼らに限らずともままあることだ。
二番目が午前零時を跨いで生まれたなら、もしくはなにかほかの要因から日がずれたなら、医師は正確な情報をカルテに記す義務がある。
その一方で、両親が学校においての学年などを考慮して出生届を記入し、同じ日に変更する場合も多くある。
別に違法でもなんでもない。
だからこの戸籍謄本には、なんら不可解な点はない。
ないはずなのに、鷹乃は彼らの名前と、出生日の欄を愛おしそうに撫で回し、くすりと小さく微笑を浮かべた。
————これは、間違いなく……
「本当に……“彼”なのですね。ふふ、わたくし、生娘にでもなった気分です」
悦びをいっさい隠すことなく、綺麗な鈴の音みたいな声が弾んでいた。
鷹乃の人当たりのいい顔が、珍しく意地悪そうに嗜虐心を孕んで歪むさまは、一種の狂気を帯びている。
愉悦。あるいは歓喜。
————このときをずっとずっと、ずっと待っていたのです。
「……あら」
あまりの興奮に手が震えて、うっかり戸籍謄本を二枚とも水に浸けてしまった。
ありえないことに、黒いインクが滲んで文字が消えてしまったようで、紙はまっさらな状態になった。
「……本物をご覧になったら、いかがです?」
まだ本当に“彼”だという確証はない。確かめるべき。
彼女がしょっちゅう気にしている噂は、ただの眉唾物だ。
保泉が一応、そう示唆してみるが、恥ずかしがり屋の彼女のことだ。
「いまは、まだ……」
ほらね。
こういうところは、貞淑といったところか。
間仕切り越しの保泉からでは、いまの表情は見えない。
でもたぶん、神話から飛び出した女神のような美貌に、お茶目な照れを浮かべているはずだ。
「そのときではありませんよ、保泉」
そのときが来たら、彼女は魔王のごとき手腕で根回しをして、望むようにことを運ぶのである。
「左様で」
恐ろしや、とまた妙な笑いがこみ上げた。
本当にそのときが来たら、いまみたいに笑っていられないのだが。
保泉はひとつ、もしもの話を浮かべた。
たとえば彼女が真に常人であるというのなら、きっとこの“せかい”そのものが歪んでいるのだろう。
この“せかい”すべての人々が、糸の切れた人形であるとすれば。
皇槻鷹乃はすべてを与えられた超高性能の自律式人形である。
こうも神様に愛された皇槻鷹乃という人形は、これからいったいどんな色を見るのだろうか。
たぷん、という湯が檜に当たる音が聴こえたので、保泉はずっと手にしていた大判のバスタオルを差し出した。鷹乃が湯船から上がったようだ。
バスタオルと交換で、びしょびしょの紙切れが差し出されたので、それはくずかごに丸めて廃棄。
とても四十代半ばとは思えないくらいに滑らかで白く、人妻特有の艶めかしさを併せ持った肢体は、保泉が差し出したバスタオルに包まれている。
美しい銀色の長い髪が濡れた背中に貼りついて、それもまた色気を醸し出しているようだ。
「これからも、彼らを見守ってあげてくださいね……保泉」
保泉は低く腰を折り、主の命令に即答した。
「仰せのままに」
鷹乃が着替える間に、風呂上がりの茶を用意するからと、保泉は浴室をあとにした。
ひとりになった鷹乃は濡れた身体を拭きながら、ご機嫌にうたを歌いはじめる。
————ここは箱庭。
————我らその小さき天地を生み出し、かの地を七日にて創造す。
————全能の創造者たる我らは月詠の夢現を以て、かの地に汝らを残す。
————いざ征かん、我らが生地。
————流れ落つれば、乃ち『解放』。
不思議なリズムと音の響き。日本語のようでいて、日本語には当てはまらない抑揚がある。
コケティッシュな鷹乃の声なら、なおさら妖しさに磨きがかかる。
四季折々の景色を楽しめるように配置された日本庭園。
その庭園に向かって造られた全面窓からでも、欠けた月が輝いてみえる。
瞬きを繰り返すみたいに、ゆっくり満ち欠けする月が、鷹乃には愛おしくも憎たらしい。
「わたくしの……わたくしだけの、《ボックスガーデン》。そうでしょう、ねぇ?」
つう、と窓越しに、小さな月を指で撫でる。
怨み?妬み?
いやこれこそが、彼女にとっての愛情だ。
ほんとうの《愛》を知らない彼女の愛情表現は、とても醜く歪んでいる。
でも芯には、誰もが持ちうる飢餓があるのだから、きっと純粋な気持ちなのだろう。
赤い唇で、想い人の名をなぞる。
「ヨルムンガンド」
————箱庭で迷う可哀相な羊は、誰?
いろいろ伏線張りまくりました。
はじめましての読者様もいらっしゃるのかな?
妖しい美女のお目見えです。




