今度こそ、救えるものを。
勝手口の外は隣のビルとの距離がすごく近くて、とにかくせまい通路だった。
換気扇と室外機が密集していて、熱となにかのフライを揚げているみたいな臭いでむっとする。
どこかの店が一時的なのか、ゴミ袋をいくつか置いているから、それをカラスがつついて荒らしてあった。
見上げると、ビルが切り取ったわずかな空が見えた。繁華街のネオンサインが厚い雲に反射して、さまざまな色合いに光っている。
三階の窓から知らないオジサンが顔を覗かせて、右手に持った煙草を吹かしていた。
たったそれだけだ。
「……んだよ、なにもないじゃん」
どっと、しかしゆるゆると。
井戸の水を人の手で汲むみたいに、一覇の心中に少しずつ安堵が落ちてきた。
背中の汗が徐々に引いていき、強ばっていた手のひらが目に見えて弛緩していくのがわかる。
冷たいアルミニウム製のドアノブを持ってそっと閉じ、油と埃で汚れたその面に躊躇うことなく背中を預けた。
花田さんのビビリには呆れたものだ。騒がせやがって。
先輩に不敬ながら口中で毒づいて、とりあえず立ち上がろうと膝に力を入れて――――なにも、ない?
それはおかしい。ありえない。
いつもなら一覇の視界には、空間いっぱいにしゃぼん玉のような鬼魔もとい霊子が視えている。
昼間は視えていたはずだ。
たった数時間で視えなくなることなど、あり得るだろうか。
一覇は己の左手に、意識を集中させる。自分の霊子を視ることで、自分の目がおかしくないのだと証明したい。
ぐっと力んでじっと見つめていると、手のひらがじわりじわりと薄緑色と、わずかに混じった橙色に染まっていく。
多少くぐもって見えるが間違いなく、一覇の目が正常であると証明された。
――――ここにはいま、霊子体が一体もいない。そういうことだ。
なら次の問題だ。
そもそもどうして、あるいはどうやって、鉄鋼製の南京錠で固定されていたはずの勝手口が開いた?
斜め上に目を向けると、南京錠は無惨に引きちぎられているのがわかる。
引きちぎる、という表現が正しいのか不明だが、とても人力での所業とは思えない壊れよう。
――――いや……そもそも何者が、なんの目的で開けた?
取り急ぎ犯人を見つけてなにかしらの対処しないと、いまだ嫌な予感は拭えない。それどころか、心臓が早鐘のようにやかましく響いて痛いくらいだ。
「こ、河本ぉ……やった?」
「いや……そんな変なのはありませ、ん!?」
花田の情けない問いかけに答えたとき、気が散って足元がお留守になったのだろう。
踏み出した左足が妙な感触のなにかを踏みつけて、滑るように転んだ。
「いっ……てぇぇ……なんだよっ」
こんなところになにを落としているんだ、キッチンだぞ。危ないな。
と誰に対してぶつけていいかわからない怒りをあげて、しこたま打ちつけた腰をさする。
それから踏みつけたものの正体を暴いてやろうと、足が滑った辺りの床に目を向ける。
するとそこには、赤黒い液体を撒き散らしている、ぬらぬらした斑なピンクの物体が落ちていた。
柔らかそうというよりブヨブヨしていて、いくつもの管状になっている。
それは
「……内臓?」
それも、おそらくヒトの。
――――……まさか。
ヒトの内臓が、こんなところに散乱しているか?
でも……これは。
つい先日に、似たような末路をたどったモノを、はっきりと見たじゃないか。
なにも出来ずただ、狼狽えていたのは、誰?
「う……」
胃から漏れでそうになる熱い液体を、必死に飲み込んで、よろよろと立ち上がる。
これが決定打であると、奇しくも証明されてしまった。
「四季っ!!待って!」
一覇はキリキリと悲鳴をあげる胃を手で押さえて走り出し、ホールに飛び出した。
会計を終えようとしている四季を、大声で呼び止める。
会食中の客が数人、何事かと不愉快そうにこちらに注目しだしたが、一覇は気にもとめない。
間に合ってくれ、と切に願う。自然、拳が強く握りこまれた。
あのとき救えなかった命を、今度こそ……!!
ところがその途端、店内に耳を劈く大音響の悲鳴が飛んだ。
一覇の願いは、どうやら叶わなかったようだ。
資料として内臓の写真をじっくり見ていて、胃がムカムカしました。




