事件
二〇〇八年四月八日、時刻は午後七時十分を過ぎたところだ。
「いらっしゃいませ、メニーズにようこそ」
清潔感のある白いシャツに黒のスラックス、黒いカフェエプロンという出で立ちで、一覇はニコニコと愛想笑いを浮かべていた。
今日は平日だが、天下の横浜駅前という場所のおかげで店内はとても混みあっている。
一覇の前には、もはや見慣れた制服姿で頭を抱える四季がいる。
「貴様……アルバイトは禁止だと言わなかったか?」
「何名様ですか?」
初めてとは思えない手際で、てきぱきとお冷の用意を始める一覇。
「一名……ってそうではなく!」
「おたばこはお吸いになられますか?」
「未成年だと知っているだろう」
「かしこまりました。一名様、ドキドキ副流煙コースご案内しまーす」
「なんだその健康に悪そうなコース!」
そんな感じで、一覇は四季を窓際の空いている席に案内した。
今日は一覇のアルバイト初日。
料理が得意だと履歴書に書いたし、さんざんアピールしたのでキッチン担当で採用されたのかと思いきや、気づいたらホールに回されていた。
初日だからかなぁ、と思っていたら、どうも店長は一覇の顔で集客を図るつもりらしい。店長が今日のキッチン担当と、裏でそんな話をしているのを聴いてしまった。
自慢ではないが、人付き合いは苦手な方だ。
いまもぎこちない笑顔と敬語を駆使して、心はクタクタだ。
ただの接客だと割り切れたらだいぶ楽なのだが、なにぶん初めての接客業だ。そうそう気持ちを切り替えることはできない。
四季はドリンクバーを注文し、しばらくジュースを入れたりココアを注いだりと、しばらく庶民の世界を堪能していた。
ようやく落ち着いた頃には、ホットコーヒーを啜りながら合皮のソファにふんぞり返って、わざわざインターフォンで一覇を呼びつけた。
「で、だ。昨日の件だが……」
「四季サマや、オレは仕事中なのですが」
「知るか。黙ってきけ」
ボックス席の囲いから恐る恐る顔を覗かせてキッチンとホールを見やるが、とりあえず自分の仕事はないと判断する。
四季が言う「昨日の件」とは、一覇と四季が昨日直面した鬼魔による……かもしれない凄惨な殺人事件のことだ。
事件のあらましはすでにメディアで公表されていて、警視庁と霊障庁の合同捜査が開始されているらしい。
一覇もいまばかりは茶化すのはやめて、真剣に耳を傾ける。
「やはり鬼魔によるものらしい。現場に残された霊子痕を、いま特定しているところだ」
一覇が自分で汲んだお冷で濡らした唇で、ヒューと低く鳴らした。
「へぇ、情報が早いな。絶対血統家だから……じゃないよな」
いくら四季が絶対血統家の家系の子でパイプがあるといっても、そうやすやすと殺人事件の情報が手に入るはずがない。
警察官の子が不容易に事件の詳細を知らされないように、警官ひとりに厳しい守秘義務が課せられている。
だが四季の回答は、一覇が予想だにしないものだった。
「そのまさかだ。絶対血統家だからこそ、手に入る情報がある」
「え、は?いやいや四季さんや、絶対血統の家の子ってだけじゃん。機密情報になりかねないものが、そんなに簡単に流れていいのかね?」
驚きと疑いが半々の具合で、一覇の心のなかに渦巻いている。
通常ではありえないことだろう。というか、あってはならない事態に遭遇している気がする。
――――しっかり情報管理しろよ、政府……。
内心で政府を批判していたら、四季がきょとんとした視線で問いかけた。
「知らなかったのか、一覇?」
「なにがよ?」
そうか、知らないのも無理はあるまい……とか四季がぶつぶつとひとりでに納得。
ブレザーの胸ポケットからカード型の写真付き免許証を取り出して、一覇に差し出した。
それは一覇も持っている、霊障士の国家資格証だ。
霊障士は久木学園を含め、全国にある政府認定を受けた約十校の霊障士専門学校に入学する。
と同時に、その生徒は最低ランクの許可証「第四種霊障士」の資格を得る。
この資格がないと、鬼魔と戦える唯一の道具である、霊障武具基盤を正規の店で手に入れることすら出来ない。それどころか、所持するだけで罰せられてしまう。
一覇がいまから一年半前に出会った幽霊の少女、神山菜奈も生前に持っていた資格だ。
だが、四季が持っているものは少し違う。
一覇も持っている第四種免許証は所属が『私立久木学園』となっていて、全体の色はピンク。当然ながら階級は第四種の軍相当官、『一等兵』。
しかし四季が持っているものは青で、所属は『矢倉家』。
ここまではまだ、一覇のなかでも常識の範疇だ。
実家が絶対血統家の直系もしくは分家であれば、伝統的にそちらを優先することが多い。
学校に所属している者はたいてい、霊障士の家柄ではないか、なんらかの事情で放逐されたかだ。放逐でなければ学校を卒業すれば絶対血統家三家のどこかか、元老院に所属することになる。
一覇は四季の免許証を、しげしげと観察した。階級は……
「軍曹……って第三種ぅ!?」
素っ頓狂な声をあげて、周囲がざわついた。
第三種といえばもはや、プロの領域だ。
第四種と違って現場に単独で入ることを許されるし、絶対血統家と政府の中立存在である独自機関『元老院』の資料室閲覧も許可されている。
学生で取得するのは難しいとされているが、確か最年少記録は一九六一年の十二歳と言われている。それより後も前も、その記録が抜かれたことはない。
「い、いつとったの……?」
あまりにも畏れ多い情報に、一覇の声が震えた。
一覇は四季の免許証を、本物かどうか確認するかのようにまじまじと眺める。
写真の右端に特殊ホログラムの印鑑があるので、一覇が知る限りでは本物に間違いない。
「今月とったばかりだ。それから……」
四季は免許証のほかに、胸ポケットから古くて小さなピアスをひとつ取り出した。
金にルビーのようなガーネットのような紅い鉱石が嵌め込まれた、シンプルだが美しい業物だ。
紅色の宝石はよく見ると、なかに琥珀のように細かななにかが混ざっている。どうやらルビーでもガーネットでもないようだが、ならばいったいなんの鉱石なのかは、一覇にはわからない。
これは絶対血統家と、その分家の当主のみが持てる由緒ある特別な身分証。
日向家に伝わるものは例によって祖父の所業で、一覇が生まれた頃に元老院が取り上げたと、父からきいている。だから一覇も、実物を見るのは初めてだ。
つまり、これがホンモノであるということは、だ。
視線を手のひらのピアスから、四季に移動させる。
動揺と焦りで白黒している視界のなかで、四季がちょっと得意げに片頬で笑っていた。
「俺は矢倉家の、第十四代目現当主だ」
「…………っ!!」
ショックで頭がくらっとした。
いつの間にこんなに、差をつけられていたのだろうか。スタート地点は同じだって思って、舐めていた。
学生で絶対血統家の当主になる事例は、あるといえばある。
単に当主が崩御して、とか、当主の不祥事が原因だったり、制度としてリコールもある。
だが知ってのとおり時繁は健在で、一覇が知る限りでは病気や不祥事はない。その厳格さから敵を作ることが多いが、逆にいえば畏れられている面もある。
それでも時繁が『十二代目』の前代で、四季が『十四代目』で今代というには大なり小なり理由がある。
その複雑な事情のなかで、四季はプレッシャーに潰されることなく立っている。
こちとらようやくスタートラインなんだぞっ!と子供みたいに怒鳴ってやりたい自分勝手な思いを、一覇はぐっと堪える。
だが、当然ながら大きな疑問が浮かぶ。
「じゃあなんで学校通ってるんだよ!?プロなら必要ないじゃん!」
そう。なにも学校に通わずとも試験は受けられるのだから、別に独学で終わらせればいい。
実際に独学でプロになった霊障士も、全体のわずか一割ほどいるのが現状。
独学だと第四種さえ試験を受けないといけないデメリットがあるが、そこさえ通過すれば普通一般の霊障士と同じ扱いだ。むしろその大変な努力が見込まれて、尊敬を集めることだってある。
とりまとめいまの問題は、四季は入学前に試験を受けて第三種霊障士になったのだから、霊子科学科の学校に行かずともいいのだ。
――――それをわざわざ試験を受けて、入学するなんて……。
とんだ物好きだな、と呆れかえる。
一覇みたいに奨学生でない限り、有名私立で霊子科学科の久木は学費が馬鹿にならないのに。
霊子科学科はその特殊な教材費があって、芸能科よりも金がかかると言われている。
四季は顔を浅く俯けて、ごにょごにょと答えた。
「い……一覇が……入学する、ってきいて……」
「え?」
「き、きこえたか!?」
「いやなにも」
「そうか……じゃあなんでもない」
四季は胸をなで下ろして落ち着こうと、冷めてきているコーヒーを飲み、唇を湿らせた。
一覇はいまいち腑に落ちないが、とりあえず脱線した話を元に戻す。
「情報が確かであることはわかったけど……その鬼魔はどうなっているんだ?」
犯人の鬼魔がまだいるなら、二次被害も当然ながら懸念される。
鬼魔という生き物には、慈悲や同情なんていう甘い感情は存在しない。
ただ自分の本能のまま、『足りないなにか』をさがして生きている。
四季はなかば空になったコーヒーカップをソーサーに置いて、苦々しい顔を浮かべて答えた。
「まだ見つかっていない」
「そう、か……」
一覇にも四季の緊張が伝播し、ボックス席に重い空気がまとわりつく。自然、組んでいた指が固く結ばれた。
まだ見つかっていないということは、今後もその鬼魔による被害が出ると断言するに等しい。
「警報は」
「昨夜から今朝にかけて、テレビとラジオで大々的に報道されたはずだ。観ていないのか?」
一覇は苦い笑いで、今朝の一幕を思い出す。
ひなぎく園の食卓には、テレビはない。
支度を終えて時間があれば居間で観るが、いつもの通り子供たちの世話で忙しかった。
「朝はなにかと忙しくて……」
「ふん、馬鹿め」
こんなこともあろうかと、と言いたげに四季は鞄から紙片を取り出し、一覇に投げつけた。今日付けの朝刊だ。
その一面を見ると、まさに昨日一覇たちが出くわした事件についての詳細が書かれていた。
内容は、一覇も知っていることと、確かに政府からの警報と警視庁と霊障庁の合同捜査本部が正式に作られたことが書かれている。
それに加え、陸軍の鬼魔対策チーム『鬼魔夷羅』も動いているらしい。
事態は一覇が考えていた以上に、深刻で厄介だということを物語っている。
――――だけど……妙だ。
ただの鬼魔相手に、あの鬼魔夷羅が動くはずがない。
あそこは陸軍の最高機密部隊で、今回のように『警報』ごときのレベルで動くようなところじゃない。
だとしたら……。
一覇が自分の推測をまとめてから顔をあげると、四季は口を開いた。
「あの鬼魔は霊障庁の推定レベル三、性質は俺が見た限り“土”だ」
「レベル……三」
わずかながら得心がいった。
この先まだ長いので、ここでぶった切りますね=^・ω・^=




