スタートラインはここから
彼女は一覇の妹の河本宝、十四歳。今日から中学三年生だ。
妹といっても義理の妹で、なのに馴れ合ったいまは少し生意気だ。
しかし彼女にはとてつもない大恩があるゆえに、いまいち頭が上がらない自分をわずかばかり情けなく思う。
だが兄というものは女性の家族に対してそんなものだと、無理矢理の理論で括ってしまうことで解決を図った。
実際、実の母は家で一番の権力を持っていて、ワガママ放題だった子供っぽい父も頭が上がらなかったことは、いまでもよく覚えている。一覇たち兄弟と並んで正座させられたことも、日常茶飯事だ。
一覇は宝が部屋から出たことをよく確認してから、机に置いていた作りたてのソフトコンタクトレンズを両眼に入れる。まず眼鏡かコンタクトレンズをしないと、ひどい近眼と乱視をもつ一覇は行動不能だ。
それから寝間着の薄いTシャツとスウェットを脱ぎ捨てて、壁に掛けておいた真新しい制服に袖を通す。
ぱりっと糊の効いた白いYシャツに黒いスラックス、裾に飾りで銀の輪っかがついた特徴的な黒いベスト、同じく黒い短めのブレザーに真紅のネクタイ。ブレザーには、銀製の立派な校章が付いている。
改めて姿見でこの制服姿を見ると、なんだか最近流行りのゴシックロリータとやらみたいで、妙な気恥ずかしさがこみ上げる。
布団と寝間着を手早く片付けてから部屋を出て洗面所に行き、鏡に映る自分とにらめっこをする。
猫っ毛でくせ毛の上に加えられた絶対に直らない寝癖に、妹がいつも使っているヘアワックスを見つけてはねた部分に塗りたくってなんとかおしゃれ風に誤魔化す。
今日ばかりはちゃんとしておかないと、あの人に怒られるのは大変面倒だ。
部屋に戻って新品の鞄に最低限の筆記用具やハンカチ、ポケットティッシュ、財布、真新しいIC定期券を詰め込んで、それからいい匂いがたちこめるキッチンへと向かった。
河本一覇は、現在十五歳。今日から高校一年生になる。
「おはようございます」
今日も早くからキッチンに立って、自慢の料理の腕をふるっている人物に礼儀正しく声をかける。
「おはよう一覇くん。今日から高校生ねぇ、ふふ」
ご機嫌で使い古したフライパンと菜箸を握る彼女は、河本明日香。一覇の義母で、宝の実母だ。
彼女は宝とよく似た丸い穏やかな瞳で、一覇の制服姿をしげしげと眺め始めた。
「な、なんですか明日香さん?」
なにやら不穏な空気を感じてじりじりと後退る一覇に対して、やはりというか、明日香は軽く叱責した。
「もうっ“お母さん”でしょう?君はいつまでも“明日香さん”なんて他人行儀なんだから」
明日香は娘とよく似たやや幼い顔で頬をぷくっと膨らませて、可愛らしく腰に手を当てている。
まさに年齢を感じさせない可愛らしさだ。
一覇がご機嫌取りに慌てていると、
「まぁいいわ。さぁ、朝ご飯にしましょ」
明日香もなにか割り切ったようだ。再びフライパンに視線を移して、卵の焼き加減を見ている。
この話題が終わったことで、一覇はほっと胸をなで下ろした。なにせ一度始まると長いのだから、明日香も穏やかに見えて大概しつこいものである。
「一覇、パン自分で焼いてね」
義母と義妹が仲よくコンロの前に立っている間、一覇は妹に言われた通りに食パンを一枚袋から取り出して、トースターに放り込む。
パンが焼き上がるのを待つあいだに、愛用のマグカップにインスタントコーヒーを淹れた。
パンが焼けて、ぷるぷる卵のベーコンエッグと生キャベツのサラダ、豆腐の味噌汁が食卓に並び、ひと足先に「いただきます」と手を合わせて箸をつけたところで、廊下からばたばたと騒がしい足音が聴こえた。
「一覇ぁっ!!なんで起こしてくれなかったのさーっ!!!」
足音の主は染めたてのツンツンした短い金髪を派手に歪めて、高い背丈に似合わない童顔を情けない泣き顔にして勢いよく暖簾をくぐってきた。
「……お前は早く行く必要ないだろ、椋汰」
ドレッシングをかけたキャベツの千切りを口に運ぶ手は止めず、一覇は呆れたように言ってやった。
すると椋汰と呼ばれた少年は、挨拶もそこそこに慌てて食卓について箸を手に取った。味噌汁をかき込みながら、椋汰は弱々しい口調で答える。
「だって一覇と一緒に行きたいんだもん……」
「だもん、て……キモ、おえ」
「きもいて!!」
三島椋汰は、一覇と同室で同じく十五歳の高校一年生だ。
彼もこの児童養護施設ひなぎく園に住んでいるが、厳密には施設の子供ではない。椋汰の母親が河本夫妻の昔なじみで、海外の仕事で忙しい彼の母親に代わって面倒をみているというわけだ。
ちなみに椋汰は一覇と同じ学校だが学部が違うため、全く違うデザインの制服を身につけている。
椋汰がいま着ている制服は、青を基調にした一般的なデザインのブレザースタイル。普通科らしい落ち着いたスタイルだ。
一覇はこちらの方があまり目立たなくていいなぁと思っているが、椋汰は逆に一覇のトリッキーな制服をひどく羨ましがる。
制服が仕立てあがって届いたとき、一度だけ着たいだのなんだので揉めたのは、先月のことだった。
小学生の頃から野球で鍛えている椋汰と、元陸上部短距離選手の一覇とは体格が違いすぎるということで、なんとかその場をおさめた。実際、一覇と椋汰の身長差だけでも明白で、一覇はかなり悔しい思いをしている。
このおよそ一年の間、椋汰とはそういう関係だ。
いろいろ一悶着あって彼は一覇に憧れていて、金魚の糞よろしくつるんでくる。
一覇も本気で彼のことが嫌というわけではなく、からかうと面白いやつだなぁと思っているので割と適当に放っている。
このくらいが楽な距離感だ。
それでも一覇としては自身のこころは変化、あるいは成長した方だと自己評価している。以前とは比べ物にならないとさえ思っている。
「そういえば一覇くん、新入生代表だったわね」
明日香が突然両手をぱん、と叩いてにっこり笑顔を浮かべる。
そこで空気がさっと変わって、一覇は味噌汁の入ったお椀を手に取りながらちょっと嫌味っぽく言ってやった。
「そうなんですよ、どっかの馬鹿と違って。だからこれから入学式のリハがあってくそ忙しくて」
「どっかの馬鹿って、おれ?」
「…………」
もぐもぐ。パンを黙って咀嚼し続ける。
「ねぇおれのこと?おれ馬鹿なの?ねぇ一覇」としつこい椋汰を無視して、一覇は鞄から丁寧に折りたたんだ紙片を出した。事前に学園の教師と一緒に作った、入学式の挨拶の次第で読むものだ。
そう、一覇は入試で首席の成績を挙げ、入学式で新入生代表として挨拶をすることになっていたのだ。
歴代最高の成績を残し、教師陣を驚愕の渦に巻き込んだ。
とくに霊子科学の一般分野においては、異例の満点だ。
元々頭の回転が早く、飲み込みが早いので、ちょっと勉強すればこんなものだ。
そもそもからして、日向の家では研究書を絵本代わりに育ったもので、同年代の普通一般の子供にしてはよく知っている方である。
「あら、もう七時半過ぎてるわよ。一覇くん大丈夫?」
明日香がテレビニュースの左上に表示された時刻を見て、知らせてくれた。
明日香から入学祝いにと買ってもらったばかりのちょっと高い腕時計で確認して、一覇は紙片を手早く片付けてから立ち上がった。
「ごちそうさま。いってきます」
「まっ、待ってよ一覇!おれ、まだご飯食べてないよ!」
一覇は食器を古いが広いシンクに置いて、荷物を詰めた革鞄を持って玄関に向かう。それを食パン一枚口にくわえて、椋汰が追う。
神奈川県民がこぞって使用する運転試験場があるゆえに人の往来は激しいが、大型スーパーマーケットのお陰で半分潰れかけている商店街を通り抜ける。
見慣れている相鉄線二俣川駅まで徒歩二十分。駅は通勤通学のひとびとと、件の運転試験場へ向かうひとびとでごった返している。
プラットホームに降りたらちょうど来た特急電車で終点の横浜駅までストレートで行き、ごたついた改札口を抜けてみなとみらい線に乗り換える。
いつもと同じでにぎやかな元町・中華街駅で降りて徒歩およそ十分で、白い大きな洋館風の建物が見えた。
これが国内最高峰の霊子科学学科がある、私立久木学園高等部校舎だ。
築年数およそ一世紀らしく、古いが手入れが行き届いていて、しかし複雑に増改築を繰り返されてごちゃごちゃしている。
そんな風合いが、これからの波乱な学園生活を不思議と予感させる。
入学前のガイダンスによると、久木学園の敷地内には陰陽師によって特殊な結界が張られているらしく、確かに一覇には色とりどりの『しゃぼん玉』————ヒトが自然に発する霊子以外のものは視えなかった。
「…………」
横を通り過ぎる女子生徒の、一覇のものと同じ色合いと雰囲気の制服を見て、自然と『彼女』の最期の笑顔と言葉を思い出した。
雪雲の空のしたで、傷ついた彼女はなお美しく微笑んでいた。
『「傷つくこと、傷つけられることを恐れないで。それがきっと、君の力になる」』
苦くて淡い、ほのかな優しさの感情。
こぼれた熱い涙、胸を直接切り裂かれたような痛み。
ぜんぶ忘れたりしない。ぜんぶオレのすべて、たどった道。
傷ついても傷つけられても、たとえこの脚が動かなくなっても、歩き続けるのだ。
————菜奈、ついに来たぞ。お前と同じ学校に……同じ道に、ようやっと立てた。ここからが、この日が、オレのスタートラインだ。
一覇はその白い洋館風の大きな校舎を見上げ、ひそかに新たな決意の気持ちで拳を握る。そして
「一覇、早く早く!!」
「はいはい……まったく」
一覇は急かしてくる椋汰の声に引っ張られて、年季の入った濃い色の煉瓦造りの校門に吸い込まれていく。
二〇〇八年四月七日、時刻は八時三十分を過ぎた頃。一覇の新しい生活が始まった。
スタートラインは、ここから。
白黒だったせかいはいま、淡く虹色に光っている。




