二章第十三話
エレナとヴォラーレの心胆を寒からしめる応酬も、ネームレスの発言で中断される。
「さて、デンスとヴォラーレは食事は何が必要だ?」
彼に二人の間に流れる緊張感を打ち消すなどの思惑はなく――意識が過去を回想していた為に気付いてさえいない――、捕虜の受け入れなどの急務があるので諸問題を早く解消し、話を進めたい故の行動だった。
デンスの食事や私室は問題なく解決したがヴォラーレは……
「淫魔の性で異性と肌を重ねねばならず、許されるならばネームレス様の情けを頂きたく存じます」
「いや、受肉してるからいらんだろ」
デンスが突っ込み絶対的に必要ではないと却下。私室もネームレスの肉布団になりますから不要です、との提案も再びデンスとエレナの二人により退かされる。
快楽で堕落させたいヴォラーレと、そうはさせぬとデンスが横槍を入れ、エレナが二人の折衷案を提示しそれをネームレスが採用する事で結果的にヴォラーレの提案を総却下。エレナの狙い通りであり、デンスの望む結果に。
ただ、悉く意見を退かされるヴォラーレの不満を抑える為に、ネームレスが夜伽に呼ぶ事を確約するのを阻めなかった。ヴォラーレ自身は特に気にしていなかったのだが、せっかくのチャンスを逃すはずもなく、喜んで受け入れたのだった。
配下の処遇が一応整った後、捕虜受け入れについて話し合う。これは前もってエレナ達が準備していた必要物資リストもあり、捕虜の受け入れ態勢は急速に整えられた。
ネームレスに戦利品の捕虜として地下迷宮に連行された人間族二十一名、森妖精族一名、犬人四名は固まり互いの体温と焚き火で暖をとっていた。
冬の足音が聞こえる時期、太陽の光と熱が届かない地下迷宮。光源も奴隷商や護衛が使っていた魔法の道具であるために数人で毛布にくるまり寒さに耐えていた。
ネームレスが離れた時点では、外の気温が高く地下迷宮内もまだそこまで寒くなかったのだが、予想外に時間を消費した為、太陽が沈み気温も下がり地下迷宮内も温度が低下。不死者である骸骨兵は寒さなど感じず、ゴブリンは元来寒さに強い上、装備も断熱保温に優れていたのでランが寒さに気付くのが遅れてしまう。
気付いたランは独断で火をおこし、焚き火で暖をとらせたのだった。
捕虜達も内心の不安のため、誰もが無口で焚き火のはぜる音だけが響く。この先自分たちはどうなるのだろうか、何をされるのか……。
そんな張り詰めた静寂のなか、ネームレスは姿を見せたのだった。彼に気付いたランが足早く近付き報告する。
「親分、焚き火をつけ捕虜に暖を与えました」
「そうか、良い判断だ」
マスクとフードで隠した表情が痛恨に歪む。捕虜への配慮が欠けていた、と。声には聊かの動揺も苦悩も乗せていないが。
その声色のままチュヴァ、ミラーシ、ナーヴェの三人を呼び命じる。子供を六人ずつ選び班を作るようにと。
彼女達はその声色とネームレスの背後にランタンを持ち佇む悪魔――ヴォラーレに怯えを見せながら、班作りを急ぐ。
三人の班作りを眺めながら、コボルトを呼び名前を聞き出す。
「コボルト、名は?」
「前のご主人様からは赤と呼ばれてました」
「……そうか、荷物をまとめて移動の準備を」
名前じゃないだろ、との突っ込みを飲み込みコボルトに指示を出すネームレス。他の三人も似たようなものだろうと、聞き出すのは後回しに。
次に骸骨弓兵のカースとケースに中部屋へと続く通路の歩哨を、ランにスーク、オース、キースの三体と馬三頭への荷物運搬準備を命じる。骸骨兵長イースが統御していないと、戦闘や訓練済みの事以外は使えないのが骸骨兵の欠点だ。
班分けが終わった捕虜に無理のない範囲で荷物を持たせ、農場部屋へと先導するネームレスとヴォラーレだった。
農場部屋は地下迷宮から扉を開けると詰め所になる。農場から迷宮、逆に迷宮から農場へ出入りするには必ず通らなければならない。詰め所から農場へも扉があり、詰め所側から鍵がかけられる作りになっている。
仮に農場部屋の疑似太陽が昇る方向を東(右)とする。詰め所は南(下)側の壁、西(左)側の壁近くにある。
詰め所を出ると西側壁近くにホムンクルスが住居として利用している小屋があり、そこから北(上)に向かって捕虜用の住居、井戸と御手洗い、捕虜用の住居と同じ小屋、と続き空き地を挟み水車小屋が小川近くにある。
詰め所から東、南側壁近くに鶏小屋、豚小屋、牛小屋……と続き馬小屋も存在する。
北側の壁近くに西から東に流れる小川がありミールの待機場になっている。水車小屋近くに、今までなかった川を渡る橋があり、渡った先の壁にも扉が新たに出現していた。
捕虜を連れ農場部屋へと入ったネームレスは詰め所を抜け、ホムンクルス小屋を通り過ぎ、捕虜用小屋の前で荷物をおろさせる。それから全員を小川をこえた先にある扉内へと誘う。
扉を抜けた先は湯気が漂い、微かに硫黄の匂いがする露天風呂だった。計画通り後をヴォラーレに任せ、ネームレスはホムンクルス小屋で三十人分の料理を用意中のエレナとネブラに声をかける。準備状況を確認し、二人を労うと荷物運びの応援に向かうのだった。
不安と緊張と警戒で固まる捕虜にヴォラーレは耳に心地良い優しさに溢れた声で話しかける。
「あなた方の世話役を申しつかったヴォラーレです。以後よしなに」
そして跪礼すると聖母を想像させる、慈愛に満ちた微笑みを投げかけた。彼女は淫魔であり、標的の理想の異性を見抜く観察眼と演技力はずば抜けており普遍的な『優しく頼れるお姉さん』を演じる事などたわいもない。
悪魔を十分に理解している召喚師さえ、淫魔の演技と誘惑にて破滅を迎えるのだ。余所者に厳しいぐらいの警戒心しか持たない農民を、手玉にとるなんて造作もない。
実際捕虜の多くは安堵の表情を浮かべ、緊張が解けている。
「あ、あの、ヴォラーレ、様」
「ヴォラーレで良いわよ。何かしら?」
「は、はいっ。え、えと、それで、わ、私達は、何のために、つ、連れて、来られたの、ですか?」
栗毛の少女――ナーヴェのたどたどしい物言いにも慈母の雰囲気と表情を崩さず、急かさずに聞く。ネームレスの命令に従い、捕虜からの信用を得るために。
その問いに、農作業をさせるためにと返答。そしてナーヴェを皮切りにした、怒涛の質問責めにも嫌な顔をせず応じ、懇切丁寧に入浴方法を教えて信用を勝ち得たのだった。エルフの少女を除いて。
今までの人生で水浴びしかした事のない少女とコボルト。ヴォラーレは総勢二十六名のお風呂初心者(入浴と言う言葉自体が初耳)を、かけ湯を浴びせ、身体と髪を洗い、湯に浸からせ、のぼせないうちに上がらせ、身体を拭いて髪を乾かし、ネームレスが用意したネグリジェに着替えさせて……。
外で待機していたネブラとデンス(通訳)を紹介、捕虜用小屋に案内させた後、自分の本格的な入浴をするヴォラーレ。
最初は静かだった少女やコボルトだったが、初めての入浴に高揚し遊び始めた幼い少女や子供達とエルフ。大人しくさせようと、結果的に騒がしさを増長させたチュヴァ達年長組(一番年上で一六歳)。
石鹸の泡に喜び、シャンプーが目に入り泣き出し、ネグリジェを与えられて歓喜に包まれた少女達。
命令で演技した上での事だが慕われるのも悪くない、と肌を磨き上げながら微笑むヴォラーレ。上機嫌に鼻歌を歌いながら湯に浸かる、少女やコボルトは小屋内で食べきれない程の料理を食べているだろう。がりがりに痩せて栄養失調気味の捕虜を肥らせろ、とのネームレスの指示の元で。




