二章第十二話
血は赤いんだな。
抉り取られ、噴き出す血を手で押さえ止めようとするも指の隙間から流れ落ちる。初めての負傷が創作魔物からだった心理的衝撃と、負傷から来る激痛で朦朧とし余り意味のない事に意識を奪われている。
彼は今ヴォラーレの肩を借りて、DM室へと引き返していた。
オクルスを処分した後、「DM室へ連れて行け」と命じ、飛び出そうな悲鳴をかみ殺すべく歯を食いしばり、意味をなさない唸り声しか漏れていない。
ヴォラーレは彼の背中を支えながら覚束ない足取りの彼を補助、デンスは体格からドアを開ける手助けをしていた。そう遠くない道のりを三人は無言(彼の唸り声は除き)で進む。
悪魔種である二体は暗闇も関係ないため、ランタンは農場部屋の廊下に転がっており、彼の視界は闇で覆い隠されている。
執務室からDM室に入りドアが閉まった瞬間、ヴォラーレは彼から離れて宣言。
「御命令、完遂しました」
猫が捕らえたネズミを弄ぶ時に浮かべそうな表情と共に。
彼女にとって彼は己から力を奪った存在である。オクルス反逆時に彼側についたのは、二者択一でオクルスよりまだましとの判断と打算から。決して忠義などからではないし、契約で魂を奪えぬ相手なのだから、今のような機会があれば抹殺に動く。
騙し討ちや裏切りが美徳の悪魔にそんな(忠義等)もの求められても、との話でもある。
故に召喚師は契約で縛るのだし、悪魔は契約の不備をつくのだ。
だがヴォラーレは彼に期待もしている、その後ろ姿に支配者(王)の器を感じたのは事実。だから『立ち去らない』のだ。苦痛に歪む彼の表情を濡れた瞳で見つめ、熱い息を漏らしながらでも。
彼を眺めるだけのヴォラーレを横目にデンスは左側の耳に掴まり話かけている。
「契約者様、到着致しました。次の命令を!!」
オクルスの一撃は彼の右肩を抉り、フードを破り飛ばしていた。デンスは何度も同じ言葉を繰り返す。そしてヴォラーレが邪魔もせず部屋から出て行かない事に内心安堵する。
デンスの体格では何も出来ないに等しい、彼を助けるにはどうしてもヴォラーレの力が必要なのだ。
ここまで連れ戻る命令を下したのだ、何か策があるに違いない。彼はデンスの試しを乗り越えたのだ。ならば主として立て、この窮地脱せねば。そして自分が彼を堕落させ立派な残虐無情な邪悪に導くのだ!
デンスの献身的な呼びかけで、意識を現に戻せた彼の命令で宝石を冠する椅子に運び座らせたヴォラーレ。そして意識が飛ばぬように語り続けるデンスの助力により、彼は自分自身をカスタムする事で怪我を消し去り、失った血液も元に戻す事に成功したのだった。
「デンス、ヴォラーレ。反逆者討伐、その後処置も見事だった」
「「勿体無い御言葉」」
自己カスタムにて再生後、両悪魔に血糊の後始末を命じると、彼自身は破けたローブや使い物にならなくなった柔軟革鎧の始末、血や他の体液で汚れた身体を洗いに風呂へと向かい、身嗜みを整えてDM室で両悪魔に改めて言葉をかけていた。
部下を働かせておきながら、自分は入浴する事に普段ならば抵抗を持ち、後回しにしていただろう。だが今回は己の尊厳を守るために、致し方なかったのだ。
死にかけたからと、まさか漏らすなんて。と表情に出さず落ち込んでいる彼。
大量の出血と激痛で朦朧としていたため、デンスとヴォラーレの行為は記憶に残っておらず、状況からの推測で二体に感謝と労いの言葉をかけたのだった。
仕事が山積みだ、と無理やり先程の記憶を消去する。
再び二人を連れ農場部屋へと急ぐ。彼はこの先の襲撃計画、捕虜への対処や新たなる配下の役目を思案しながら足を進めていた。
略奪品の移送期間を考えれば冬が訪れ、交易が途絶えるまでにもう一度襲撃するのが限度だろう。作業員が増加した結果の余剰作物量、家畜の増殖による食肉化効率計算。そこから導かれる魔物増員計画作成、その前にオクルス反逆の考察が先か。だがまず急務の捕虜への配給品リストの作成と購入、受け入れ作業に支給品配分作業……。
理屈では失禁なんて戦争中の兵士なら、普通にある事で恥ずかしくない。と理解していても、どうしても恥ずかしく感じてしまい、先々の事や待たせている捕虜関連の案件等を考える事で忘れようとしていた。
この事が良かったのか、創作した魔物に殺されかけるという心的外傷になっても不思議ではない事件直後だというのに、以前と変わらない人格であり普遍的な精神状態。そう、あまりにも変わらなすぎる彼だった。
農場部屋の面々は同僚となっていたかも知れない中鬼の反逆と鎮圧、創造主の命の危機に気付けず、受け入れ作業の一環だった掃除を終え、エレナとネブラとミールは新たな仲間に何が必要かを話し合っていた。相変わらずミールは二人の話を聞いているだけだが。
「……最低限、この数の農具があれば作業に問題ないよ、先輩」
「なら次は衣類面ね」
「まずは必要最低限から考えるんだよね、先輩?」
「ええ、そうよ」
「人間族と森妖精族は必要だろうけど、犬人どうなんだろう?」
「そうね……」
創造主である彼に対して、神がかり的な洞察力を働かせるエレナ。だが彼女にとって人が空気を吸って吐く事が当然のように、彼に精忠無二に仕える事が当然で反逆など想像すら出来ない。
そんなエレナであるからこそ、そしてエレナの思考に多大に影響を受けていたネブラとミールも気付けずにいたのだった。
捕虜の奴隷と森妖精族用の住居はかなりの広さはあるが、キッチンも手洗いも水道すらない。外から鍵がかけられるドアと窓、冷暖房用に暖炉型の魔具。
広さがあるが家具や荷物の類もなく、掃除は予想外に早くに終わってしまった。
エレナとネブラは地下迷宮の自然洞窟偽装部以外の清掃も担当しており、農場部屋も掃除をしている。担当範囲が広大なため、二名だけだと手が足りないので農場部屋はホムンクルスが使用している小屋と鶏小屋以外は放置気味だった。
その二部屋以外を掃除していたのがミール。エレナとネブラの掃除を何時ものごとく観察、手伝いをして掃除を覚えた彼女。
エレナ達が農場部屋に居ない時に、命じられても頼まれてもいないが、家畜小屋や住居として与えられる小屋も掃除していたのだ。この事がエレナの予想外に掃除が早く終了した最大の要因であった。
そうして出来た時間を使い、必要な物資を洗い出しているのだ。彼は掃除しか指示していないが、命じられた仕事を片付け、上司(彼)の思惑を先読みして仕事を進めなければ部下(従者)として重用は望めない。
彼の性質を考えれば、掃除の終了を報告して次の指示を仰いだ方が良いのだけれど、と思いながらも物資リストを作り上げていくエレナだった。
紆余曲折あり農場部屋へ戻るのが遅くなった彼は、地下迷宮廊下から農場部屋へと繋がる扉を抜けてすぐにある詰め所でエレナ達三人の出迎えを受けた。
「お疲れ様です、今よろしいでしょうか?」
エレナとネブラの跪礼で迎えられて、一瞬既視感にとらわれる。エレナ達の跪礼を無表情で観察するミール。
「構わん、何だ?」
「承った件、終了しております」
「そうか、ご苦労。他には?」
「ございません」
この時点でリストはまだ完成しておらず、報告は差し控えたエレナ。ネブラは目を輝かせ彼の後ろに控える悪魔に視線を飛ばしていた。
その様子に彼は微かな苦笑いを浮かべる。そしてこの二日間の寝不足の原因の一つを解消すべく、表情を引き締め威厳を出すべく腹から声を出す。
「聞け」
「「「「はい」」」」
その威に打たれたかのごとく、四人の声が重なり同時に跪く。ミールだけは変わらず佇み彼に視線を投げるだけだったが。
ちょっと注目してくれたら良かっただけで、そんなに畏まらないでも、と内心慌てふためく彼だったが外面は沈着冷静に見える。
「我が名はネームレス、その身に刻め」
「はい、畏まりました。御尊名、胸に刻めさせて頂きます」
エレナの言葉の後四人――エレナ、ネブラ、ヴォラーレ、デンス――は深く頭を垂れる。
その身に刻めって、その身に刻めって、と再び内心で頭を抱えている彼――ネームレスだった。
いたたまれなさに耐え切れなくなったネームレスの指示で、場所をホムンクルスが使用している小屋内のリビングルームに移り各自の紹介を行っていた。
「女淫魔のヴォラーレだ。捕虜の世話役と通訳を命じる」
「承知いたしました」
ネームレスに、老爺でも情欲を掻き立てる妖艶な流し目を送る、だが一瞥されただけで流される。私の流し目を軽く流すなんて、と驚愕し畏敬の念を抱かせていた。
「枝悪魔のデンスだ。偵察を任せる」
「謹んで拝命いたします」
デンスはヴォラーレの誘惑を歯牙にもかけないネームレスに、流石は我が主、それでこそ堕落させがいがある、と決意を新たにさせたのだった。
「ホムンクルスのネブラだ。農場部屋の管理を任せている」
「ネブラだよ、仲良く出来ると嬉しいな」
ネブラは二人とも翼があるんだ、飛べるのかな? 頼んだら一緒に飛んで貰えないかなと思い、後でお願いしようと上機嫌に笑顔を浮かべている。
「水精霊のミールだ」
水撒きが任務だとは言えないよな、とネームレスは名前だけの紹介で終了とした。
「ホムンクルスのエレナだ。施設管理全般を任せている、ネブラとヴォラーレの上司とする」
「はい、畏まりました」
エレナがネブラとヴォラーレに話しかけて会話するのを、無意識に右肩を揉みながら眺める。
ふと意識が名前の事に飛んだネームレス。創作魔物のみの少人数で不便がなかった、なのであえて名は考えなかったのだが捕虜を捕った事で必要だと考えた。帰還途上で思いつき最終候補に残った名前は二つ。
ネームレスとジョン・ドゥ。意味は日本語で言えば名無しの権兵衛だ、記憶と名を奪われた自分に似合いの名だな……。
「ネブラ、改めてよろしくお願いするわね」
「こちらこそ、えっと……そうそう。ヨロシクゴキュウジュゴベンタツオネガイシマス」
後半は棒読みだが笑顔で上司となったエレナを歓迎するネブラ。そして……
「ヴォラーレ、と呼んでも?」
「はい、構いませんよ。エレナ『様』」
「『よろしく』お願いするわ、『ヴォラーレ』」
「はい、此方こそ『よろしく』お願いしますね、エレナ『様』」
見目麗しき二人の乙女が、それは綺麗な笑顔で語り合っているのに何故か戦慄を感じる光景だった。




