記紀神話と中世神話。
古来からの「日本神話」として現代でも読み継がれている「記紀神話」に対し、中世にその「記紀神話」を仏教思想目線で焼き直した「中世神話」。
両者の違いを把握するために、記紀神話の双璧『古事記』『日本書紀』と、「中世神話」の象徴的作品と言える『沙石集』とを読み比べをしておこうかと。
――まずは「記紀神話」から。
『古事記』上巻
(伊耶那岐命・伊耶那美命の)二柱の神は天の浮橋にお立ちになって、(天津神から授けられた)その(玉飾りが施された天の)沼矛をさしおろしてかき回したので、潮をカラカラとかき鳴らして、引き上げた時に、その矛の先から滴り落ちた潮は、積もり重なって島となった。これ(こそ)が、淤能碁呂島であるぞ。(二柱の神は)その島に天降りなさって、(天を支える柱である)天の御柱を見つけ出し、(広大な神殿である)八尋殿を見つけ出した。
【 二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下して画きしかば、塩こをろこをろに画き鳴らして、引き上げし時に、其の矛の末より垂り落ちし塩は、累り積りて島と成りき。是、淤能碁呂島ぞ。其の島に天降り坐して、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てき。】
(新編日本古典文学全集1『古事記』p.31)
『日本書紀』巻第一 神代上 第四段・正文
伊弉諾尊・伊弉冉尊は、天浮橋の上にお立ちになり、相談しておっしゃることには、「地の底には、もしかしたら国がないのだろうか(いや、あるだろう)」とおっしゃり、そこで天之瓊(「瓊」とは玉である。ここでは「ヌ」と読む)矛を利用することとし、指し下して(地の底を)探りなさり、そこで青海原を発見した。その矛の先からしたたる潮が凝り固まって一つの島となった。名付けて磤馭慮島と言う。二柱の神は、そこでその島にお降りになり、そうして夫婦となって、国を産もうとなさる。
【 伊弉諾尊・伊弉冉尊、天浮橋の上に立たし、共に計りて曰はく、「底下に、豈国無けむや」とのたまひ、廼ち天之瓊(瓊は玉なり。此には努と云ふ)矛を以ちて、指し下して探りたまひ、是に滄溟を獲き。其の矛の鋒より滴瀝る潮、凝りて一島に成れり。名けて磤馭慮島と曰ふ。二神、是に彼の島に降り居し、因りて共に夫婦と為り、洲国を産生まむと欲す。】
(新編日本古典文学全集2『日本書紀』(一)p.25)
『日本書紀』巻第一 神代上 第四段・一書第一
(伊弉諾尊・伊弉冉尊の)二柱の神は天上の浮橋にお立ちになり、(天の瓊)戈をさし下ろして国をお求めになる。そうして青海原をかき探って引き上げてみると、(その)戈の先から滴り落ちた潮が、凝り固まって島となる。名づけて磤馭慮島と言う。二柱の神はその島にお降りになり、八尋の殿を(特別なお力で)お建てになる。また天の御柱を(特別なお力で)お立てになる。
【 二神天上浮橋に立たし、戈を投し地を求めたまふ。因りて滄海を画りて引き挙ぐるに、即ち戈の鋒より垂り落つる潮、結りて島に為る。名けて磤馭慮島と曰ふ。二神彼の島に降居し、八尋之殿を化作つ。又天柱を化竪つ。】
(新編日本古典文学全集2『日本書紀』(一)p.29)
『日本書紀』巻第一 神代上 第四段・一書第二
一書に言うことには、伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱の神は、天の狭霧の中にお立ちになって、「私は国を得たく思う」とおっしゃり、すぐに天瓊矛でもって、(狭霧の下に)指し下ろして探ったところ、磤馭慮島を入手なさった。そこで矛を(狭霧から)抜き取って喜んでおっしゃったことには、「良いことよ、国があった」とおっしゃる。
【 一書に曰く、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神、天霧の中に立たして曰はく、「吾国を得まく欲し」とのたまひ、乃ち天瓊矛を以ちて、指し垂して探りしに、磤馭慮島を得たまふ。則ち矛を抜きて喜びて曰はく、「善きかも、国の在りける」とのたまふ。】
(新編日本古典文学全集2『日本書紀』(一)pp.31-32)
――これに対して「中世神話」は。
『沙石集』巻第一ノ一 太神宮の御事
伊勢神宮の(神官に聞いた)話
昔、この国がまだ存在しなかった時、大海の底に大日如来を象徴する(呪文である)種字があったので、天照大神が御鉾を海中にさしおろしてお探りになった。その鉾の滴りが露のようになった時、第六天の魔王が遥かにこれを見て、『この滴りが国となって、仏法が流布し、人間が悟りをひらく兆しがある』と言って、それを取り除くために(第六天から)下ってきた。天照大神は魔王に会って、『私は三宝の名をも言うまい、我が身にも近づけまい。だから安心してすぐに天上にお帰り下さい』と、なだめすかしておっしゃったので、魔王は帰ったのである。
その御約束に背くまいということで、(中略)表向きは仏法を疎遠なものとし、内々では三宝(仏宝・法宝・僧宝)をお守りになることにしていらっしゃる。だから我が国の仏法はひとえに大神宮の御計らいによるのだ。
【 昔この国いまだなかりける時、大海の底に大日の印文ありけるによりて、大神宮鉾さしくだして探り給ひける。その鉾の滴り、露の如くなりける時、第六天の魔王遥かに見て、『この滴り国と成りて、仏法流布し、人、生死を出づべき相あり』とて、失はんために下りけるを、大神宮、魔王にあひて、『我三宝の名をも言はじ、身にも近づけじ。とくとく帰り上り給へ』とこしらへ仰せられければ、返りにけり。
その御約束を違へじとて、(中略)外には仏法をうとき事にし、内には三宝を守り給ふことにて御座す。故に我が国の仏法は偏に大神宮の御方便によれり。】
(小学館・新編日本古典文学全集52『沙石集』pp.21-22)
実際に比べて読むと、片や本家、片や劣化したパロディーみたいですけれど、これでも当時は大真面目に読まれていましたからね。




