第十章 空の演説 ― 青の行方 ―
街は、静かに騒がしかった。
駅前の広場には人が集まり、上空の透明なスクリーンに会見映像が投影されている。音は大きくない。だが、文字が強い。自動生成の字幕が、空中にくっきりと浮かび、行き交う人々の視線を吸い寄せていた。
> 《政府関係者:未確認事象への対応指針を検討》 > 《公共の安全のため、情報の取り扱いを整理》
紗菜は群衆の流れに紛れながら、遼の袖を軽く引いた。
目立たない服に着替えさせた。帽子も深くかぶらせた。マスクも。――それでも、遼の背筋はどこか違った。姿勢が良いとか、そういう単純な話じゃない。立ち方が、戦う人のそれだった。
「……ごめん。今日は、どうしても見せたかった」 「……構わない。俺も、見ておいた方がいいと思った」
遼は広場を見回した。
人の目はスクリーンに向いている。けれど、その目の奥が見ているものは別だった。恐れ。期待。怒り。誰かに預けたい責任。――そして、力を欲しがる影。
上空で、ドローンがゆっくり旋回していた。羽音は小さい。警戒というより、広場の混雑を俯瞰し、映像を整理し、交通の流れを整えるための機体だ。なのに、視界の端で光るレンズが、紗菜の喉を少しだけ渇かせる。
「……空が、忙しいな」 遼がぽつりと言った。
「無人機の航路、決まってるんです。事故が起きないように。救急にも使うし、災害のときは避難誘導にもなる」 「……空が、人を殺すためじゃなく……人を助けるために使われているのか」
紗菜はうなずいた。
遼はしばらく黙ったまま、空を見上げた。青い。薄い雲が流れる。煙がない。砲音もない。――守りたかったのは、これだ。
その“答え”が遼の胸の奥に沈んでいくのが、紗菜にも分かった。
だが、スクリーンの字幕が次の行へ切り替わると、空気が一段だけ冷えた。
> 《専門家:未確認人物が存在するなら“保護・隔離”も選択肢》 > 《SNS:管理すべき/人権を守れ/国家のものだ》
紗菜はスマホを握りしめた。自分の投稿が、ここまで来てしまったのだという実感が、遅れて刺さる。
群衆の中で、誰かが言う。
「危ないだろ。国が管理するのが当たり前だ」 別の誰かが返す。 「危ないのは人じゃなくて、使おうとする側だろ」
声は大きくならない。近未来の広場では、怒鳴るより先に、端末に文字が流れる。短い言葉が矢のように飛び、同意が数字として積み上がっていく。たった数秒で、空気が“多数派の色”に染まる。
それが、遼には異様に見えたらしい。 彼は、目を細めただけで何も言わなかった。
次の瞬間、スクリーンが切り替わった。
街頭演説のライブ映像。若い男が、群衆の前に立っている。背後に党名のホログラムが浮かび、風に揺れているように見えた。
――共生党。
紗菜は息を止めた。 天野蓮だ。画面越しでも、目がまっすぐで、言葉が妙に飾られていない。
記者の問いが字幕になって浮かぶ。
> 「“未確認の存在”が事実なら、国が管理すべきだという声もありますが?」
蓮は、ほんの少しだけ間を置いた。 その間が、嘘を作らない人の間だった。
> 「“管理したい”という欲が、 > いつも正義の服を着て現れるのが――いちばん怖い。」
広場の空気が、わずかに揺れた。
どよめきでもない。沈黙でもない。 人が一瞬だけ、“自分の心”を見てしまったときの空気。
遼の横顔がかすかに動いた。
「あの男……」 「天野蓮。共生党の党首」 「……言葉が、まっすぐだな」
紗菜は、遼の視線がスクリーンではなく、群衆の“心”に向いているのを感じた。 遼は戦場を知っている。人が恐れで動くとき、何が起きるかを知っている。
そのときだった。
広場の中央に、簡易のマイクスタンドが置かれた。 もともとは市民説明会のためのものだ。自治体の係員が、混乱を避けようとして早めに終わらせようとしている。
「本日の説明はこれで――」 その声を、誰かの苛立った叫びがかき消した。 「結局、国は隠すのか! 俺たちは何も知らされないのか!」
別の声が被せる。 「知らないほうが安全なんだよ!」
空気が割れそうになった。
紗菜は反射的に遼の腕を掴む。 「……行こう。今日は、帰ろ」 だが、遼は小さく首を振った。
「……紗菜」
呼び方が、初めて“名前”になっていた。
「俺は……もう少しだけ、ここに立っていたい」 「え……?」
遼は、広場の中心を見た。 怒りと恐れの間で、誰かが誰かを押しのけようとしている。誰かが“正しい”と叫び、誰かが“守る”と言い、誰かが“国のため”と言う。
「俺たちの時代、誰かが“正しい”と言えば、皆が従った」 遼の声は低く、でも澄んでいた。 「でも……この時代は、選べるんだろう?」
紗菜の喉が詰まった。
選べるから、苦しい。 選べるから、欲が出る。 選べるから、誰かに預けたくなる。
遼は一歩、前に出た。
帽子を外すわけじゃない。名を名乗るわけでもない。 ただ、群衆の中心へ、迷いなく足を運ぶ。
「ちょ、待っ――」
紗菜が止めるより早く、遼はマイクの前に立った。
司会の係員が戸惑って言う。 「ど、どなたですか……」 遼はマイクに触れない。軽く頭を下げただけだった。
――それなのに。
彼の声は、不思議なくらい通った。
広場の音が、すっと引いた。 誰かが公共字幕の“市民発話モード”を起動したのだろう。空中に文字が浮かび、遼の言葉を追いかけ始める。
「……俺は、誰かに管理されるためにここへ来たんじゃない」
ざわり、と空気が動いた。 上空のドローンの旋回が一瞬だけ遅れ、カメラが遼に向く。レンズが、彼の輪郭を拾おうとする。
紗菜は、心臓が落ちる音を聞いた気がした。
遼は続けた。
「力が欲しい者は、いつも言う。 “危険だから”――“守るために”――って」
群衆の前列の誰かが、眉をひそめた。 後列の誰かが、息を呑んだ。 字幕が空に伸び、言葉が広場の“共有物”になっていく。
「……俺たちも、そうだった」 遼の声には、怒りより先に、懺悔があった。 「守ると言いながら、欲に飲まれた。 正しさと言いながら、人を踏んだ」
紗菜の胸が痛んだ。 遼は見たものを、美化しない。英雄の言葉じゃない。生き残ってしまった者の、重い声だ。
遼は、ゆっくり息を吸う。
「でも――この空を見た」
彼は空を指さした。
蒼の上に、白い航跡が一本引かれていく。 旅客機ではない。高速輸送の無人機が、雲の上を走っている。画面の片隅に、航路情報が自動で表示され、次の便の到着予測が淡く点滅していた。
「……空が、生きていた。 人が、人を殺すためじゃなく、助けるために使っていた」
誰かが、鼻をすすった。
それが引き金みたいに、沈黙が深くなる。 拍手が起きるにはまだ早い。賛否の声をぶつけるには、遼の言葉が“痛すぎた”。
遼は、群衆を見渡した。
「俺は、誰かの正しさになりたくない」 「俺は、誰かの武器になりたくない」 「でも――君たちが選べるなら」
ほんの一瞬、声が揺れた。 けれど、遼は立て直す。戦場で崩れない声だった。
「信じる不安を、捨てないでくれ」 「管理される安心だけが、“安全”じゃない」
空中字幕に、そのまま残る。 短い文が、誰かの端末に保存され、切り抜かれ、共有される。
遼はそれ以上、何も言わなかった。
ただ一言、遼は小さく「……ありがとう」と告げて頭を下げた。 そして、群衆の中心から静かに下がる。
紗菜は、遼の腕を掴んだ。 「……遼、こっち」 遼はうなずいた。
広場の端を抜けると、風の音が戻ってくる。 遼の背中は真っ直ぐなのに、どこか軽く見えた。言葉を置いた分だけ、肩の荷が少し落ちたみたいだった。
その頃にはもう、空のスクリーンには別の字幕が浮かんでいた。
> 《匿名の青年、駅前で発言》 > 《“管理の欲”という言葉が拡散》 > 《SNS:支持/反発/真偽不明のまま急増》
顔ははっきり映っていない。 帽子と逆光で輪郭は曖昧だ。
けれど――言葉だけが、鮮明に残った。
紗菜のスマホが震え、通知が雪崩のように流れた。 数値が跳ね上がり、リポストが増え、切り抜きが作られ、字幕が引用される。
「……動き出しちゃった」 紗菜が呟くと、遼は空を見上げたまま言った。
「動かしたのは、俺じゃない」 「……え?」 「君たちだ。選べる時代に生きている君たちが、動かす」
紗菜は答えられなかった。 怖い。けれど同時に、胸の奥が熱い。
助けたいという気持ちが、まだ間違いではないと、言われた気がした。
遼はゆっくりと息を吐く。
「……今俺は、この時代の為に飛ぶことはできない。」 「うん」 「でも、この時代を生きる人々に言葉なら残せる」 「……うん」
広場の向こうで、ドローンが旋回を再開する。 空は忙しい。けれど、青い。
遼は帽子のつばを少しだけ下げ、群衆の中へ紗菜と並んで歩き出した。
その背中を、誰も追いかけない。 ただ、空中に残った字幕だけが、静かに広がっていった。
――青の行方は、まだ決まっていない。
だが、世界は確かに、次の一歩のために息を吸い始めていた。




