第15話 剣
大切な祭具を血で汚す。
自らの娘の凶行を見てもサロインは努めて冷静に自分が何をすべきか理解して行動に移す。
力づくでも娘の手から杯を奪い取ろうとしたサロインは、ミートの前に生まれた不可視の壁に阻まれて触れる事すら叶わなかった。
それどころか強い力で弾き飛ばされて、したたかに体を打ち付けた。
転がるサロインをフィレが抱き起して娘に悲痛な声で何故と問う。
「父さんも母さんも止めないで。これは姉さんの復讐よ」
「な、なにを……?」
「姉さんはね、遠い所で死んだの。だから姉さんを殺した相手に復讐したいって言ったら、ミトラさんが方法を教えてくれたの」
全員がミトラの顔を見る。彼女はただミートに微笑んでいた。
「私も止めたのだけど生半可な決意じゃなかったから、つい≪神降ろし≫の秘法を教えちゃったの」
「か、≪神降ろし≫だと?馬鹿なっ!?あれは真に信仰を宿した最高位の神官しか行えない秘中の秘だぞ!!」
ミレーヌがありえないと否定した。
≪神降ろし≫とは読んで字の如く、生身に天上の神の魂を呼び込む究極の儀式だ。
当然そのような秘法を誰でも使える筈はなく、己が仕える神への信仰を極限にまで高めた当代一の神官が命を削って成しうる奇跡と言われている。
この場にいる神官達は知識で知っていても、誰もそれを見た事は無い。
神官ならば誰でも≪神降ろし≫の領域まで信仰を高める事を目指すが、到達出来る者など五十年に一人現れるか否かという程に困難だ。
まして魔人族が行えるなどと神官が言ったら、正気を疑われて無期限の療養を勧められる。
しかしミートから発せられる、慣れ親しんだ神殿で感じる神聖さを上回る、神気としか言えない圧倒的な重圧と近寄る事すら憚られる存在感を否定する事は無理だった。
「勿論あの娘の信仰では全然届かないから、『愛と憎しみの女神』縁の短剣を貸して、さらに本物の神器の杯に宿った神威で補強して、ようやく成功したわ」
「ええミトラさんには感謝の言葉も無いです。おかげで姉さんを殺した男にこの手で復讐出来ます」
ミートが憎悪で凝り固まった視線をヤトへと向けた。
彼女が目を向けただけで、ヤトの左腕がボロボロと崩れ落ちて骨を晒した。
「なっ!?これは――――」
「まだこの程度で済ませないわよ。姉さんの目を貫いた時の痛みと恐怖を肉の一片にまで刻み付けてから殺してやる!!」
ヤトは即座に残った右手で鬼灯の短剣を抜いて――――剣を握れず砂に落とした。右手も左腕と同様にカラカラに乾いて崩れ落ちてしまった。
如何に剣鬼とて両手が使えなければ剣を握れない。
ミートは勝ち誇るような陰湿で嗜虐的な笑みをヤトに向ける。それだけで神殿にいる者の大半は失神した。
数少ない正気を保ったままのサロインは娘に事実か問いただす。
「ミートよ、本当にお前の姉……ニートが死んだのか?それもヤト殿が殺したとなぜ言い切れる」
「ニート姉さんの額の三番目の瞳を通して見てたの。誰にも言わなかったけど、姉さんと私はどんなに離れていても額の目が開いている間は見る物を共有出来たから」
サロインは真実の衝撃を受け止めきれずに押し黙る。
クシナはニートという名を聞いて、フロディスの城にいた三つ目の女だと思い出した。
確かにあの女はヤトと戦い死んだ。だから復讐は間違いではない。
ヤトが苦境に立たされていているのは見て分かる。それでも番が助けを求めない以上は自分は手を出すつもりはない。
本当に死にそうになったら助けるかもしれないが、これしきの危機を自力で覆してより強くなって欲しいと願った。
嫁の願いが通じたかは分からないまでも、闘志を失っていないヤトは二人が話している隙に、取り落とした短剣を足で蹴り飛ばした。
短剣は真っすぐミートの顔目がけて飛ぶが、突き刺さる前に持ち主の腕と同様に跡形も無く崩れ落ちて砂と混じり合う。
「『愛と憎しみの女神』は『生と豊穣の神』と相性が悪いから、本来の≪神降ろし≫に比べて三割ぐらいしか権能を行使出来ないけど、人が女神に勝てはしないわよ」
ミトラが嘲りや謗りを含まない純粋たる事実を突き付けても、ヤトはただただ笑う。
こんな辺鄙な砂漠で、全盛ではないものの神の一片と戦えるとは思わなかった。
望外の幸運の前で両腕が使えないぐらいなんだ。鬼気迫る笑みと衰えるどころかおぞましい程に高まった殺気が全身から立ち昇る。
ヤトは靴を脱ぎ、腰から器用に脇差を落として、両足の指に挟んで鞘から引き抜いた。
そのままミートへと肉薄。蹴り技の如く足指に挟んだ脇差で背後から首を切り裂く。
反応すら叶わない速さによる背後からの急襲は、しかし先程と同様にミートに触れる前に剣が崩れ落ちる結果で終わった。
「ちぃ!―――がっ!?」
ヤトはミートの埃を払うかのように払った手に触れて数十メートルも弾き飛ばされた。おまけに手が触れた腹の一部がザラザラと零れ落ちて、内臓を晒している。
これは何だ、毒や凍傷でも無いのに肉が削れて落ちる。まるで風に削れらて砂になる砂漠の岩のようではないか。
片肺を砂にされて息を吸っても空気が抜ける。呼吸もままならない。
必死で立ち上がろうと足に力を入れた瞬間に片膝が落ちた。
よく見れば脇差を挟んでいた右足が足首から全て無くなっている。これで手足で無事なのは左足だけだ。
クシナと戦った時よりも状況は悪い。これでは戦いにすらならない。
「ちょっ!アニキ!!」
カイルが叫んで、弓に矢を二本番えて同時に射る。
二本の矢は左右に弧を描いて飛翔してミートを挟み込むように射抜いたと思われたが、やはり百年の歳月を経たように乾いて崩れてしまう。
「無駄。神の前では何物も朽ちて風と共に去るのみよ」
女神と一体化したミートにただ見られただけでカイルは膝を折って屈してしまう。主を守るためにロスタが前に立ちはだかる。
「私の仇はその男だけだから邪魔しないで」
手をかざせばロスタがうつ伏せになって倒れてしまう。主以外には従わないゴーレムすら神の権能の前には無力だった。
さすがにこの惨状にはクシナも手を出すべきかと思い直して、旦那を見ると彼は伏したまま子供のように無邪気に笑ってた。
いかに古竜のクシナでも、この絶体絶命の場面で笑えるヤトの精神を理解するのは無理だった。
ミートは心底不快な想いで顔を醜く歪める。
神の絶対的な力を前にしてなぜ笑える?それも恐怖に負けて気が狂ったわけでもなく、あくまで理性的に笑顔になれる理解不能な生き物に嫌悪感すら抱く。
「あなたは何?」
つい素朴な疑問が口に出てしまった。
無様に這いつくばっている剣鬼はその問いを深く思考する。問われたのなら答えを返さねばなるまい。
(僕はなにかだって?――――剣士、傭兵、東人、竜人、兄殺し、剣狂い、剣鬼、修羅、悪鬼、皇の子………違う。僕はそんな言葉で括れるモノじゃない)
残った左足だけでノロノロと立ち上がる。胸を大きく削り取られ、骨だけになった両手右足をブラブラさせた様は、さながら腐るに任せた腐乱死体と見間違える醜悪な姿。 それでも己の征く道はこれだと雄弁に語るかのように、両の瞳は凪の湖面の如く澄み渡りながらも、鬼気迫る意思と喜悦を宿した狂貌を晒す。
壊れた気管から漏れ出る空気で酷く聞き取り辛がヤトは確かに己が何であるかを言葉にして紡ぐ。
「……ぼくは………ただ斬るために……この世にある…………ぼくは…‥大和彦は―――――――――剣なんだ」
呟いた瞬間、至高の頂へと指が触れた。
ヤトの周囲に黒曜石の如き黒い剣気が立ち昇り、空間が歪む。
剣気がミートの放つ神気とぶつかり合い、不可視の力の衝突で幾度も放電する。
「不完全でも神威を相殺するかっ!」
アジーダが瞠目して驚きの声を上げた。
ヤトは自分の事ながらどこか他人事のように驚くに値しないと思った。
切っ先を向けた先を断つ。ただそれだけを求めていた。相手がなんだろうが関係無い。己は剣、己は刃、ただ斬る事だけを追い求めて神域へと至った。今の己は剣そのもの。
神だろうが魔王だろうが竜だろうが、剣の先にあるのなら、ただ斬ればいいのだ。それが剣の本懐、存在意義だろう。
斬りたいから斬るだけで、動機や理由などどうでもいい。一振りの刃にモノの是非など関係無い。
剣に善も悪も無い。正も邪も知った事か。そんな小難しい問答は学者か哲人にでも解かせていろ。
剣とは万物を断ち切るために存在する。故に剣戟の極致たる己は最強なのだ。
ヤトは腰に差した翠刀を鞘から抜こうとして空振った。忘れていたが今の己には握るための動く指が無い。
それを見たミートは勝ち誇った顔をする。
馬鹿め。剣が握れない程度で斬られないとでも思ったのか。その浅はかな勘違いをすぐに改めさせてやろう。
左腕は肩から骨にされてまともに動かないが、右腕は肘から上が動くなら十分だ。
ヤトは全身から漏れ出す闘気を止める。そして右腕に一点集中して、腕そのものを黒い剣と化した。
使い物になる左足一本で立ち、黒剣と化した右腕を天へと掲げる。
ミートは一振りの剣と化したヤトを見て、震えて一歩後ずさりした。アレは神と一体化した自分すら斬ると本能的に理解してしまった。
「―――推して参るッ!」
振り下ろした剣気が『愛と憎しみの女神』の神威を断絶する。
ミートから発せられる圧倒的な重圧は微塵も感じられない。まるで最初からそんなものは無かったと、神気は消え失せていた。
神威を失ったミートと全てを出し切ったヤトは同時に倒れて、神殿に静寂が戻った。
静寂は拍手を以って破られた。ミトラとアジーダの惜しみない拍手と賞賛は倒れたままのヤトに注がれる。
「まさか不完全でも神を斬るなんて。私の想像を容易く超えてしまったわ。いえ、私の目は間違っていなかった」
「まったく、大した奴だよお前は。おっと素晴らしい物を見て忘れる所だった」
アジーダは儀式台に転がっていた銀の杯を手に取り、じっくり眺めて数度頷く。
「どうかしら?」
「問題ない。『豊穣神』の加護は消えて、抑えていた物が多少目減りしているだけだ」
何を言っているのか余人にはさっぱり分からない。
しばらくアジーダは杯を弄び、用が済んだとばかりに倒れたままのサロインの手に杯を押し付けて、二人は忽然と姿を消してしまった。
ただ一人自由に動けたクシナはとりあえず瀕死のヤトが死んでいない事を確認して、心の底から安堵した。




