4.おしゃべりなアンティークたち
「それで、野村さん」
玄関の表札に書かれていた苗字を思い出しながら夕樹が口を開いた。
その玄関では相変わらず西王母の人形が怒り狂っており、渦巻く負のオーラが玄関の外からひしひしと伝わってくる。
一方、マリー・アントワネット風の人形はその人形のために作られたとしか思えないぴったりサイズの揺り椅子に腰掛け、大切に大切にキャビネットの上に飾られている。
友香の目には、西王母VSマリー・アントワネットの図が見えるような……いや、見えはしないが、脳裏に浮かんでしまう。
今回の依頼主、野村祥子は、三人に椅子を勧めると、自分もテーブルを挟んで座った。
三人の前にはアンティーク食器に注がれた紅茶と、やはりアンティーク食器に乗せられたクッキーが出されている。
クッキーは摘まめても、紅茶を頂く勇気が友香にはなかった。だって、いかにも高そうなカップだ。割ってしまったら大変すぎる!
(それにしても……)
友香は、そろりと辺りを見渡した。
アンティーク! きゃあ、素敵! 素敵! という段階が終わり、アンティーク家具に囲まれた空間に慣れてしまえば、とたん気になるのは、ざわめきだ。
このざわめき、聞こえる者にしか聞こえないという厄介なやつ。
そう、つまり、それ。
おそらく祥子には聞こえていないが、友香や夢月たちには、十人か、十五人か、あるいはもっと大勢がぶつぶつ独り言を呟き続けていたり、ぺちゃくちゃと一方的にこちらに向かって話し掛けてきたり、そうかと思えば、こちらの気を引こうと叫んだり、こちらとは関係なく叫んだりしている声が聞こえている。
声だけならば、このリビングは人だらけでぎゅうぎゅうの満員電車状態だ。
「すごくうるさいね」
声を潜めて隣に座る夢月に言えば、夢月も祥子の耳に届かないように小声で答えた。
「アンティークせいだよ」
アンティークの定義に、製造されてから百年以上経っている物とある。その百年の間まったく使われていなかったとは考えがたい。
もちろん未使用の物がないわけではない。だが、多くの場合、アンティークが今の所有者の手に渡る以前には他の所有者がいた。
物には人の念が籠ることがある。その物に対する愛着や執着が強ければ尚更、物に想いが宿るのだ。
であるなら、アンティークという価値のある物に以前の所有者の念が宿っていてもなんらおかしいことではない。
友香と夢月がひそひそ話している様子から祥子の気をそらせるように、夕樹が祥子に話し掛ける。
「ご家族は、ご主人様とお嬢さんであっていますか? 今、お嬢さんは?」
「子供部屋で眠っています。比較的、朝はゆっくり起きる子なので」
「おいくつですか?」
「二歳です」
「ご主人様は、お仕事ですか?」
「主人は……」
祥子の顔が曇る。
「主人は今、入院をしていて……」
「入院?」
「あの人形のせいです!」
語気を強めてキッパリと言い切る。それから、バツの悪い顔をして視線を漂わせた。人形のせいにしつつも、何らかのやましいことがある様子である。
「何かあったんですか?」
「……」
「人形に関することでよね? 聞かせてください」
「……じつは、あの……恥ずかしい話なのですが、あの人形が捨てても捨てても帰ってくるという話を主人に話したところ、主人が骨董品店に売りに行ったのです」
「見たところ貴重な人形のようですもんね。高く売れたのでは?」
フランス製ではないが、あの西王母人形も古くて貴重な物といった意味では、アンティークのような物なのではないだろうか。いやいや、西洋の物ではない時点で、アンティークとは言えないことは分かる。
そして、祥子の好みではないこともよく分かった。とはいえ、価値の分かる者が見れば、ひょっとすると、祥子が集めたアンティークのどれよりも西王母人形の方が高価な品物かもしれない。あの人形にはかなりの値がついたはずだ。
「それで、売った後も人形は帰ってきたんですよね?」
「ええ。ですから、主人はまた別のところに人形を売りに出掛けたんです。そして、その日、事故に遭ってしまって」
「事故?! 大丈夫なんですか?」
「右腕と右脚を骨折してしまって……」
後ろめたそうに祥子は視線を伏せながら言う。それはそうだ。売った人形を別のところに売ったなんて顔を上げて言えたものではない。
それに、おそらく事故にさえ遭わなければ、あと一度、いや、もう何度か、帰ってきた人形を別のところに売りに行っていたはずだ。そうと人に思わせる行いをしたのだ。後ろめたくないわけがない。
「下り坂で自転車を走らせていると、目の前を何かが横切ったそうです。猫か犬かと思って避けようとしたらバランスを崩してしまい、派手に転んでしまったそうで。――主人が言うんです。事故に遭った時にあの人形を見たと。いえ、はっきり見たというより、人形くらいの大きさの影……といいますか、気配を、ええ、気配を感じたと」
「だから人形のせいだと言うんですね?」
「ええ、そうとしか考えられません」
夢月が、つと視線を友香に向ける。そうとしか思えない祥子に反して、夢月は人形のせいだとは思っていないという顔をしている。
友香もあの西王母の人形が人を傷付けるようなことをするとは思えなかった。だって、あの人形は、めちゃくちゃ怒っていて怖いけど、なんていうか、『お母さん』なのだ。
その一方で、祥子が言っているように、祥子の夫の行いを考えれば、あの人形が怒り狂い、祥子の夫に制裁を加えたということもあり得る。
―― ぎゃああああああ!! ――
突然、泣き声が響いた。
何かのサイレンかと思うほどの声量で、友香たちは何事かと目を見張る。とにかくどうにかしなくてはと焦らせるような、責め立てられるような泣き声だ。
そのまま泣き続ければ力尽きてしまうのではと思うほど全力で泣いている。それは、とにかく普通の泣き声ではない。
「すみません。娘が起きたようです」
祥子は席を立つと、リビングの奥の扉へと向かう。扉は二つ並んでいて、祥子は右側の扉を開いた。そこが子供部屋なのだろう。
三人は瞬時に目を交わし、祥子の後に続いて席を立った。そして、祥子が子供部屋の扉を開こうと、ドアノブに手を書けた時、三人は同時に息をのんだ。
ぞわっ。
悪寒が全身を駆け巡る。肌が粟立つのを感じて友香は両腕を擦った。
(――何か、いる)
待って、開けちゃダメ! と制止の言葉が脳裏をよぎったが、その言葉が声になる前に、ガチャリと異様なほど音が響いて扉が開かれた。
友香は恐る恐る祥子の背中越しに子供部屋を覗き込んだ。
「うわぁ」
一瞬で悪寒が消え、驚きと感嘆が友香の口から漏れてしまう。
いると思ったモノの姿はどこにもなく、子供部屋はまるでアニメで見るようなプリンセスの部屋の内装をしていた。
薄桃色の壁紙にピンク色のカーテンとラグ。クリーム色の勉強机と椅子、薄紫色の衣装タンス、子供用の化粧台もある。
そして、何より目を引くのは、天蓋付きの大きなベッドだ。上から下に流れるように白いレースカーテンが天蓋から下がっており、レースカーテンの中を覗き込めば、ふわふわの薄ピンク色の布団と大きな枕が三つ重ねられて置かれている。
しかし、泣き声は、まさにその天蓋付きベッドから響いていた。
「乃愛ちゃん、起きたのね。おはよう」
「ぎゃあああああー。いやぁああああああー」
泣き叫び、手足をバタつかせている娘を抱き上げ、祥子は優しい言葉をかけてあやす。
「ママはここよ。ここにいるからね」
一見すると、目覚めた時に母親の姿がなく、不安で泣いている幼子をあやす母親の姿のように見える光景なのだが、友香たちは首をかしげる。
「娘さん、寝起きはいつもこんなに泣くんですか?」
「ええ、まあ、泣きますけど。これくらいの幼児って、こんな感じですよね?」
「泣き方がなんていうか」
「不安で泣いているというよりも、何かを嫌がっているみたい」
「娘さん……乃愛ちゃんって、そのベッドで寝るの、嫌いなんじゃないですか?」
天蓋ベッドを指し示しながら夢月が言うと、祥子の顔色が明らかに変わった。表情を強張らせ、彼女は声を震わせる。
「娘のために捜して、あちらこちら捜し歩いて、やっと見付けたアンティークのベッドなんです。このベッドを見付けた時、夢で思い描いたベッドだと嬉しくて、それはもう嬉しくて、どんなに高くても絶対に買おう! 何がなんでも買いたい! と思いました。娘のために捜していたベッドでしたが、私が使いたいくらいで。これは私が子供の頃に夢見ていたベッドなんです!」
彼女の丁寧だが、荒々しい口調から心の距離が一気に開いてしまったことを知る。
ついさっきまでアンティークの食器でお茶するまでの距離感にあったのに残念だ。夢月の失言を恨めしく思う反面、夢月の言う通りであることは否めない。
夢月が言わなければ、友香か夕樹が言っていただろう。
天蓋付きベッドは、娘のためにと言いつつ、祥子の夢と憧れと自己満足の産物であるのは、今の彼女の発言で明らかだ。
「いつも夜ひとりでここで眠らせているんですか?」
「ええ、そうよ。お昼寝もここ。乃愛のためのベッドですもの」
「プリンセスのベッドみたいで、すごく素敵だと思います」
「でしょ!」
「でも、乃愛ちゃんはまだ小さいし、この部屋で独りで寝させるのは早いんじゃないですか?」
「……」
言葉を選びつつ夕樹が言うと、祥子は押し黙った。もしかすると、同じようなことを夫か母親か身近な誰かに言われたことがあるのかもしれない。罰の悪そうな、そんな表情をしている。
「だけど、海外では……」
祥子が反論しようとしたその時、それまで硬く目蓋を閉ざし、泣きわめいていた乃愛が、ふっと目を開く。
祥子の姿を確認して、とたん泣き方が代わる。しゃくり上げるようにして母親を呼び、小さな身体を母親に押し付けるようにすがった。
「ママ、ママ、ママー!」
「乃愛。大丈夫よ、乃愛」
祥子は娘を小さな背中を擦り、抱き締める。その様子を眺めながら友香は夢月に小声で話し掛けた。
「ねえ、夢月。この部屋、いるよね?」
扉を開ける前は、はっきりとした気配を感じたのだが、不可解なことに今はその気配が掻き消えている。
じゃあ、いないのだ。さっきのは勘違いだったのだと思いたいところだが、夢月と夕樹の様子を見る限り勘違いではなさそうだ。
いるのだ。だけど、今は気配がない。
「乃愛ちゃん。何か怖いモノ、見た?」
祥子に抱かれている乃愛の顔を覗き込むようにして夢月が話しかける。
「何が嫌だったのかなぁ?」
「やめてください。幼い子は寝起きに泣くものなんです。それに乃愛はまだそんなに話せません」
娘を抱き抱えて夢月から隠そうとする祥子に反して乃愛が涙で塗れてうるうるした大きな瞳を夢月に向ける。
その瞳は不可解な物を見るかのように夢月の顔をじぃーっと見つめ、小さな指を突き出して高い声を上げた。
「へびー!」
「うっ」
言葉に詰まったのは夢月で、夕樹はおやおやという表情を浮かべている。
「乃愛ちゃん、見える子なんだね。……っていうことは、聞こえてるのかな?」
「聞こえてるかもね」
娘のこととなると、敏感にならざるえないものだ。祥子は不安げな顔で問い質して三人を順に見やる。
「聞こえているとは、どういう意味ですか? 乃愛に何が聞こえてるんですか?」
「声ですよ。アンティークから様々な声が聞こえます。日本語ではないようなので、何を言っているのかは分かりませんが、怒っていたり、泣いていたり、優しそうな声だったり、子供の声だったり、叫んでたり、笑っていたり、まあ、本当にいろいろな声です」
「たぶん前の持ち主の想いが物に残っているのだと思いますけど」
「それって、良くないことですよね?」
「良いか、悪いかって言ったら、良くはないですね」
「ぶっちゃけ、かなりうるさいし」
「そんな声が聞こえていて、この子、大丈夫なんですか?」
祥子は顔を青ざめ、不安げに腕の中の娘を抱き締めた。
「乃愛ちゃんくらい小さい子の中には、霊的なものに敏感な子がいるんです。でも、成長していくにつれて、きっと脳が現実的になっていくんでしょうね、見えるはずのないモノは見ようとしなくなり、見えなくなります。聞こえるはずのない声も同様です。聞こえないものだと脳が判断するようになれば、いずれ聞こえなくなります」
祥子を落ち着かせようと、夕樹が穏やかな口調で説明をする。
「それなら乃愛もそのうち大丈夫になりますよね?」
「この部屋には声で溢れています。そして、おそらく子供部屋には姿を現す何かがいます。その声やその姿を見続けていれば、『聞こえるはずのない声』『見えるはずのないモノ』という認識を脳ができません」
「つまり、今どうにかしないと、乃愛ちゃんは将来、霊能力者になっちゃうかもってこと」
「そんなっ。困ります! 霊なんか見えたら可哀想!」
可哀想……。
祥子の言葉が胸に刺さる。
まさに可哀想な子である友香は、幼い頃に夢月たちと出会い、霊的なものにたくさん囲まれて育ったため、成長しても未だに霊も妖怪も見えている。
おそらく大人になっても見え続けるだろう。友香くらいの年齢になってしまうと、『そんなモノ、いるわけがない』と脳が信じてくれないのだ。『いる』ということを知ってしまっているから、今さら脳を誤魔化すことはできなくなっている。
(たしかにね、乃愛ちゃんが私みたいになったら可哀想だよね)
友香には夢月たちがいる。霊は霊が見える者に寄ってきがちである。
友香とは異なり、凶悪な霊と遭遇した時にどうにかしてくれる彼らのような存在が乃愛にはいないのだ。
「野村さん、ご依頼された人形の件も抜かりなくやらせて頂きますが、今ご説明した通り、娘さんのためにもまずリビングの声をどうにかしましょう。それから子供部屋ですが、はっきり言います、よくないモノがいます」
「よくないモノ……?」
「おそらく娘さんはそのことが原因で泣かれているのだと思いますし、このままこの部屋で娘さんを独りで寝かせ続けていれば、ソレが娘に悪さをする可能性があります」
「そんな、どうしたら……。あのう、どうにかしてください。もちろん追加料金はお払いします」
「承知致しました。それでは一度リビングの方にお願いします」
言って、夕樹は乃亜を抱いた祥子をリビングへと促し、子供部屋の扉をしっかりと閉めた。その扉を夢月と友香はじっと見つめ、扉の奥から何の気配も感じられないと分かると、祥子を追ってリビングに向かった。
乃亜を抱いた祥子には先程のアンティーク椅子に座って貰い、夕樹と夢月は目線を交わす。
「俺が祓う。抵抗するヤツがいたら」
「私が喰う」
「じゃあ、それで」
友香も祥子とテーブルを挟んで椅子に腰掛けると、夢月が友香の隣に座る。
「友香、私の体をよろしく。ちょこっと抜けるから」
「分かった」
何度か経験があるから大丈夫。友香は夢月に向かって深く頷いた。
とは言え、友香ができることは特にない。夢月が『抜けた』後のぐったりした体の隣に座っているだけだ。そして、ぐったりし過ぎて倒れそうになったら、すっと手を差し出して支えるのみ。
夕樹が囁くように何かを唱え始めた。お経のように聞こえるが、お寺のお坊さんが聞けば眉を潜めて『違う』と言うだろう。
では、神道の祝詞なのか?
たぶん、こちらの方が近い親戚みたいなんだものだと思う。だが、もちろん神社の神主さんが聞けば眉を潜めるだろう。
では、いったい夕樹は何を唱えているのか。
夢月や夕樹たち一族が扱う術の系譜を追うと、一番近いものは陰陽道である。というのも、彼らの先祖である大伴泰成が陰陽師だからだ。
だが、この人の不幸は安倍晴明というスーパースターと同じ時代に生きたということで、まだ幼子だった安倍晴明に完敗し、彼の才能に大いに嫉妬した。
そして、大伴泰成は陰陽師としてより強い力を求めるようになり、やがて一匹の妖狼と出会った。
力と半妖の娘を手に入れた彼は陰陽師として栄光を極めた……かと思いきや、そうはならず、彼の夢と欲は子孫たちに託されたのだが、彼の子孫たちは妖怪との交配を繰り返すうちに、大伴泰成の思惑とは異なり、陰陽師とは異なるものになっていった。
陰陽師と名乗っていたのは、大伴泰成とその娘の小夜だけであり、小夜を最後に彼の子孫たちは陰陽寮から去っている。
とはいえ、大伴泰成の子孫が陰陽道を元にしていることは確かだ。
さて、陰陽道。
そもそも陰陽道とは何か?
陰陽道とは、中国の陰陽五行説を由来する。陰陽五行説は、万物は陰と陽に分けられるという考えと、万物は木、火、土、金、水の五つの元素から成り立つという考えが合わさった思想のことだ。
この陰陽五行説が日本に伝わり、日本の神道や仏教、修験道などの影響を受けて独自に発展したものが陰陽道である。
神道や仏教? ――であるのなら、夕樹が唱えているものが素人の耳にお経や祝詞に聞こえても、なんらおかしくない。
というわけで、友香には夕樹が何を唱えているのか分からないが、その内容を要約すると、彷徨っている念やら何やらに対して、『いつまでもここにいても仕方がないですよ、あの世はとっても良いところだから早くあの世に行ってください』と言ってるらしい。
その言葉で納得したモノは去るが、聞く耳を持たないモノもいるので、夢月の出番となる。
夕樹が唱え始めてすぐに夢月の体がぐったりと力なく友香の肩に寄りかかってきた。
夢月の体から白いもやのようなものが、ゆらりと出てきて、それが夢月の頭上で集まり、太い縄のように捩れながら上へ上へと伸びていく。
やがて気付く。その白く太い縄のように見えていたモノは、白い蛇なのだと。
蛇は白く発光しながらどんどん長く大きくなっていき、リビングをぐるりととぐろを巻いた。
普通、でかい蛇がリビングの天井付近でとぐろを巻いていたら大声で叫ぶところだが、あいにく友香は蛇に慣れていた。
そして、この蛇は普通の人間には見えない。よって、祥子は叫ばない。
乃愛は見えているようだが、蛇に怖いという認識がないようだ。大きいものがぐるぐるしてて面白いとでも思ってくれているのだろうか。とにかく叫ばない。むしろ、きゃらきゃら笑っている。ありがたい、
白蛇がぐるりぐるりとリビングを泳ぐように空を移動し、裂けたように大きく開く口をパクリパクリと動かしている。喰っているのだ。
え? 何を? って、それ聞いちゃう? 友香はなるべく考えないようにしているのに。
夢月に食べられたモノはどうなってしまうのだろか。夢月はソレを食べて大丈夫なのだろうか。とかとか、とにかく考えれば考えるほど謎なので、あれこれ深く考えることが好きな人ほど、考えてはいけない。
やがて夕樹が唇を結び、注意深く辺りを見渡す。友香の隣で夢月が身動ぎ、ゆっくりと目蓋を開いた。白蛇の姿は消え、夢月の人間の体に意識が戻ったのだ。
「……終わったの?」
あれほどうるさかった声が聞こえなくなっている。それは却って不気味な静けさだ。
友香の問いに夕樹が首を横に振りながら言った。
「とりあえず。――だが、これからだ。俺は西王母と一緒に先詠神社に戻ろうと思う。戻って、早季と美月さんに状況を報告しておく。夢月、お前は?」
「お腹いっぱい。もう喰えない」
一拍の間を置いてから夕樹は夢月に向かって続けた。
「お前はここに残って、子供部屋にいるヤツの様子を見ていてくれ」
「見るって、いつまで?」
「何かしでかすまでだよ。或いは、西王母がこの家に帰ってくるまで、か」
「西王母はまた帰ってくると思う?」
友香が尋ねると、夕樹は首を傾げる。
「今夜は俺がずっと見張っているつもりだけど……分からない。友香はどうするんだ? 夢月とここに残るか? 帰るのなら、悪いが、送ってやることができないから電車で帰ってくれ」
夕樹がすまなそうに言うので、友香は頭を振った。すると、夕樹は僅か頬を緩ませて続けた。
「けど、できれば、夢月とここに残って欲しい。その方がいいかげんな夢月が本気になる」
「え」
「やばい状況の時、友香が一緒なら、頑張るしかないだろ、ってこと」
友香はつと夢月に視線だけを向ける。夢月は唇を結んで何も言わない。
果たして夕樹の言葉は正しいだろうか。
数ヶ月前に雪女と遭遇した時のことを思い出す。その時、夢月は絶体絶命な状況で蛇になり、ぐーすか寝てしまったではない。
「夕樹くん、夢月はどんな時でも夢月だよ」
「……そうか」
「でも、帰る時は夢月と帰るね」
ナニかいる。
それはあまり良くないモノだ。
そうと分かっていながら親友をひとり置いて自分だけ帰るなんて友香にはできない。
夕樹の考えとは逆に友香がいることで夢月の足手まといになるかもしれないが、それでも猫の手くらいには役に立てるかもしれない。
いや、猫の手にもなれないかもだけど、ただいるだけで夢月が心細い想いをせずに済むかも。
もっとも、夢月が心細いだなんて想像つかないけど。
夕樹は祥子に状況を説明し、夢月と友香が一晩、子供部屋に張り込む許可を得ると、玄関に向かう。
玄関の外では、西王母がどんと仁王立ちして待っていた。
近付くのも怖い彼女の背中に夕樹は右手を触れさせ、夢月と友香に視線を向けると、ひとつ頷いてから、パッと姿を消した。
今頃きっと先詠神社のどこかで夕樹の姿がパッと現れているはずである。
「そしたら、とりあえず」
夕樹と西王母が消えた場所を見つめていると、夢月が友香に振り返る。
「どっかでお昼を食べて、コンビニで夕食を確保する?」
「駅の近くにいろいろお店があったよね。コンビニも」
「なに食べようかなぁ……って、私、お腹いっぱいだった! いや、待て。大丈夫。別腹だから! まだ食べられる!」
「……」
(別腹とはいかに……)
蛇型のお腹と人型のお腹という意味だろうか。追求はやめよう。
「それから少し寝とく? 長い夜になりそうじゃん?」
「そうだね」
頷きながら友香は思う。
夜が長いのは構わない。ナニかいるのは分かっているのだから、何か起きるのも覚悟している。だけど、雪女の時みたいに夢月が寝ちゃうのだけは勘弁してほしいなぁ……。
▲▽
日が暮れた。
乃愛を寝かせるために祥子が寝室に移動したのは、二十時のことだ。
普段、乃愛は寝かせつけようとすると、大いに泣いて、泣き疲れて気を失うように寝入るまでに三時間ほどかかるのだそうだ。
ところが、今夜は泣き声がまったく聞こえない。
二人が寝室に入ってから十五分ほど経って、祥子が寝室から出てくると、彼女は狐に化かされたような顔をして言った。
「乃愛が寝ました。信じられません」
「子供部屋のあのベッドで寝かせられるのがイヤってことですよ」
「ちょっと夢月」
祥子のベッドへの思い入れを踏みにじるような言い方をする夢月を嗜めてから友香は祥子に言った。
「きっとママのベッドで、ママの匂いに包まれて安心したんですよ」
言いながら友香も結局はベッドのせいだと言ってしまっていることに気が付いて、気まずい。
だが、祥子は昼間ほど苛立ちを見せなかった。落胆した表情を浮かべ、素直に夢月と友香の言葉を自分の胸の内に受け入れているように見えた。
もしかすると、リビングの声たちを祓ったことで憑き物が取れたように祥子を頑なにしていたアンティークへの想いも柔らかく解れたのかもしれない。
「きっとそうなんですね。乃愛はあのベッドが好きではないみたいです。それにきっと乃愛は子供部屋でひとりで寝たくないんです」
祥子の声があまりにも悲しそうで、友香は慰めの言葉を言ってあげたい気持ちになったが、何を言ってあげれば良いだろうか。
母親の『好き』が、娘の『好き』と必ずしも一致するとは限らないこと、一致していないにも関わらず母親がそれを強要するのは娘にとって毒でしかないこと。
そのことに祥子は気付き始めている。
祥子自身も自分の母親に西王母を押し付けられている。西王母とアンティークだらけな子供部屋という違いこそあれ、良かれと思って行う母親の気持ちに違いなどないのではなかろうか。
母親に押し付けられて嫌だという想いを自分の二歳の娘にもさせてしまっていることに祥子はショックを受けている様子だった。
「あのう、でも、祥子さんが集めたアンティーク、本当に素敵だと思います。だから、今はまだ分からなくてもいつか大きくなった時に乃愛ちゃんも好きになってくれるかもしれません。ほら、プリンセスに憧れる時期ってあるじゃないですか。そうなったら、あの子供部屋、きっと大喜びしますよ」
「けどさ、女の子だからってみんながみんなプリンセスに憧れるわけじゃないじゃん? 野球やサッカーに夢中になる女の子だっているわけだし、戦隊ヒーローに憧れる女の子だっているわけだ」
「ちょっと夢月」
「いえ、その通りだと思います。乃愛が何を好きになって、自分の身の回りに何を置きたいと思うかはまだ分からないですし、それを母親である私が勝手に決め付けてはいけないんですね。……なんて、物分かりの良いことを言っていますが、それでも、もし乃愛がこの先、私と同じようにアンティークを好きになってくれたら、すごく嬉しいのにって思ってしまいます。諦めが悪くてすみません」
「いえいえ、分かります。母と娘で同じ物を好きになれたら、すっごく楽しいと思います。いつか友達みたいに二人で一緒にアンティークショップに買い物に行けたら良いですね」
「それ、夢です!」
祥子は瞳をキラキラさせて笑顔を浮かべた。
「でも、もし乃愛が違う物を好きになって、子供部屋が乃愛の好きな物でいっぱいになって、私好みの部屋ではなくなってしまっても、残念と思いつつもそれが乃愛なのだ、乃愛の部屋になったのだと思って、乃愛のことを知ることのできるその日を楽しみにしようと思います」




