第40話 熱い余韻の中、二人
凛視点
体育館の空気は、もはや酸素よりも熱気の方が濃いのではないかと思えるほどに、重く、昂ぶっていた。
女子バスケ決勝戦。スコアは38対40。
試合終了まで、残り時間は一分を切っている。
(……あ、つい。……。……肩が、重い)
呼吸が火を噴くように熱い。バッシュの底と床が擦れる摩擦音が、鼓膜の奥でキンキンと鳴り響いている。
対戦相手は、三年の選抜チーム。体格も経験も上回る彼女たちの、組織的なディフェンスに、私たちは何度も阻まれてきた。
一ノ瀬咲希が、汗を飛び散らせながら必死にボールを運んでいるのが見える。
「凛! まだいけるよ!!」
咲希の叫び。けれど、私の足は鉛のように重く、意識が遠のきそうになる。
周囲の観客席からは、クラスメイトたちの「凛ちゃーん!」「東雲さん頑張って!」という期待に満ちた声が降り注いでいる。
……怖い。
もしここで負けたら。期待に応えられなかったら。
完璧な「学園の天使」としての私の居場所が、音を立てて崩れてしまうのではないか。
そんな、黒く濁った不安が心臓を掴もうとした、その時。
(――――っ)
右手の掌に、微かな、けれど確かな「熱」が蘇った。
ほんの少し前。屋上で。
カズが私の手を握り締め、胸に引き寄せてくれた。
『お前が最強なことくらい、相棒の俺が一番よく知ってる』
あの不器用で、デリカシーがなくて、最高に頼もしい騎士の声が。
私の右手に残る、カズの大きな手の感触が。
冷え切っていた私の魂に、一気にガソリンを注ぎ込んだ。
(……。……。……負けない。……。……相棒の前で、カッコ悪いところ……見せられないもん)
私は大きく息を吐き出すと、一気にギアを上げた。
視界がクリアになる。
相手選手の重心。パスカットの軌道。ゴールまでの最短距離。
それは、三年間ネトゲの最前線で、カズと一緒に強大な敵を攻略し続けてきた「ハル」の目だった。
「咲希! こっち!!」
私は鋭いドライブでディフェンスを一人抜き去り、フリースローライン付近で咲希のパスを呼び込んだ。
ボールを手にした瞬間、三人の三年生が私を囲む。
逃げ場はない。けれど、私の目には見えていた。
(……。……カズ。……。見てて)
観客席の最前列。
他の誰よりも真剣な目で、私のことだけを見つめているカズの姿を。
私はあえて強引にゴール下へ突っ込むと見せかけ、空中で体勢を捻った。
ネトゲで、ボスを翻弄するためにカズと編み出した「囮」の動き。
「なっ……!?」
相手が翻弄された一瞬。
私は三人の間をすり抜け、誰もいない3ポイントラインの外側へバックステップで飛び出した。
「凛りん!? そこから打つの!?」
咲希の驚きの声。
普通なら、この局面で選ぶ選択肢じゃない。
けれど、私には分かっていた。
屋上でカズからもらった「バフ」の効果が、まだ、私の指先に残っている。
高く。
誰の手も届かない高みへ、私は跳躍した。
放たれたボールは、鮮やかな放物線を描き――。
――スパッ!!
ネットを揺らす快音が、体育館の静寂を切り裂いた。
41対40。逆転。
同時に、試合終了を告げるブザーが響き渡った。
「…………え?」
一瞬の、空白。
そして――。
「「「うわあああああああああああああああ!!!」」」
鼓膜が破れるかと思うほどの大歓声が、床を震わせた。
二組のクラスメイトたちが、雪崩を打ってコートへと駆け寄ってくる。
「やった! やったよ凛りん!! 優勝だよーっ!!」
咲希が飛びついてくる。クラスの男子たちが狂喜乱舞している。
けれど、私は荒い息を吐きながら、その歓喜の輪を抜けて、真っ直ぐに観客席を見上げた。
(――……)
目が合う。
カズは、周りがお祭り騒ぎになっている中で、一人だけ、静かに口角を上げていた。
『ナイスシュート。ハル』
声は聞こえない。けれど、その唇の動きが、はっきりと私には伝わった。
「…………にひひ。……。……バカ一真」
私は、誰にも見られないように、自分の右手を胸に当てた。
そこにあるのは、カズの残り香。
そして、それはこれまで三年間で一度も感じたことのない、心臓を甘く締め付けるような「勝利の味」だった。
******
閉会式が始まっても、私の頭の中は、これから訪れる「報酬の時間」のことでいっぱいだった。
表彰状を受け取る私の手は、もう震えていなかった。
けれど、カズのことを考えるだけで、頬が火照って、いつもの「完璧な笑顔」を作るのが、少しだけ難しかった。
「凛りん、ニヤニヤしすぎだよー?」
隣で咲希がクスクスと笑う。
私は「暑いのよ」と適当にごまかしたけれど、自分の胸の奥に芽生えた、この名前のつかない熱だけは、誤魔化すことができなかった。
――そして、放課後。
私は、誰もいない夕暮れの教室へと、足を踏み入れた。
待っているのは、私の最強の相棒。
そして、私の、たった一つのワガママ。
******
一真視点
狂乱の閉会式が幕を閉じ、体育館に溜まっていた熱狂がゆっくりと校舎の影に吸い込まれていく。
俺――佐藤一真は、一人先に教室へ戻り、自分の机の横に立てかけたバドミントンの「第3位」の賞状を眺めていた。
(……。……。終わったんだな、本当に)
指先にはまだ、ラケットを握りしめていた感覚が残っている。そして、それ以上に重く、熱く、屋上で東雲さんの小さな手を握り締めた時の感触が、掌にこびり付いて離れなかった。
夕方の教室。
西日が窓ガラスを透かし、無数の埃がオレンジ色の光の中でダンスを踊っている。
ガタン、と静まり返った廊下でドアが開く音がした。
「――。……。なんだ。……カズ、もういたの」
振り返ると、そこには東雲凛が立っていた。
ポニーテールは少し崩れ、体操着の上から適当にジャージを羽織ったその姿は、学校中の男子が拝む「天使」のそれではなく、完全に俺の知っている「ハル」だった。
「……。……。お疲れ。……。ナイスシュートだったぞ、ハル」
「にひひ。……。……見てたでしょ? ……。私、カズが一番前で見てるの分かったから、あんなに飛べたんだよ」
東雲さんは照れくさそうに鼻の頭をかくと、俺の隣の席――海斗の椅子を反対向きにして座り、俺の方をじっと見つめてきた。
「……。……。佐藤くん。……。……私の勝ちだよね?」
「……。……ああ。お前は優勝、俺はベスト4。……文句なしで、お前の勝ちだわ」
俺が潔く認めると、彼女は満足そうに口角を上げた。その瞳には、勝利の余韻だけではない、何かを期待するような熱い光が宿っている。
「……。……。じゃあ。……。……使うよ。……私の、ワガママ権」
「……。……ああ。……ポエムの音読以外なら、何でも聞いてやるよ」
俺は覚悟を決めて、背筋を伸ばした。
彼女は少しだけ視線を泳がせ、耳たぶを赤く染めると、小さな声で呟いた。
「……。……。ちょっと、椅子……寄せて」
言われるがまま、俺は自分の椅子を彼女の方へ数センチずらす。
彼女はふぅ、と深い溜息を吐き出すと、そのまま、こてん、と俺の右肩に自分の頭を預けてきた。
「――――っ!?」
心臓が、今日行われたどの試合よりも激しく、耳の奥まで届くほどの音を立てて跳ねた。
ふわりと、彼女の髪から漂う汗と石鹸の混じった、切なくて甘い香りが鼻腔を突く。
「……。……。ハ、ハル……?」
「いいの。……。……これ、私のワガママなんだから。……。……。今日一日、ずっと『東雲凛』でいるの、本当に疲れたんだもん。……。……。足、まだ震えてるんだよ?」
確かに彼女の細い肩が、微かに震えているのが伝わってくる。
あんなに神懸かったプレーを連発して、クラスを優勝に導いた英雄の、これが本当の姿だ。
俺は、何も言えなくなった。ただ、自分の肩にかかる彼女の頭の心地よい重みを感じながら、夕暮れの空を見つめた。
「……。……お疲れ様。……。お前が一番、頑張ってたよ」
「……。……。ありがと、カズ。……。……。ねえ、もう一分。……。このままでいさせて。……。親友なんだから、これくらい減るもんじゃないでしょ?」
「…………ああ。そうだな。親友だもんな」
俺は心の中で、自分自身に強く言い聞かせた。
これは、友情だ。
三年間、電子の海で魂を削り合ってきた相棒に対する、戦士の休息だ。
けれど。
肩を通じて伝わってくる、彼女の規則正しい呼吸。
時折、俺の腕に触れる彼女の柔らかな肌の感触。
そのすべてが、これまで築き上げてきた「親友」という名の防波堤を、容赦なく削り取っていく。
これが恋なのか、それとも依存なのか。
その答えに名前をつけるのが、怖かった。もし名前をつけてしまったら、この心地よい特等席が、二度と手に入らなくなるような気がしたから。
「…………にひひ。カズ、心臓うるさい」
「……。うるせー。動いた後なんだから当たり前だろ」
「……。嘘つき。……。……でも、そういうとこも、好きだよ。……相棒としてね」
彼女の声は、今にも消えてしまいそうなほど優しかった。
俺たちは、どちらからともなく沈黙を選んだ。
オレンジ色の光がゆっくりと紫に変わり、誰もいない教室の影が長く伸びていく。
この数分間だけは、世界で俺たち二人だけが、本当の姿で呼吸できる聖域だった。
「――おーい! 凛りん! カズッチくーん!」
不意に廊下から響いた爆弾娘の声に、俺たちは弾かれたように距離を取った。
すこしして、ドアが勢いよく開き、一ノ瀬咲希と、スマホにクラスの打ち上げ会場の地図を持った海斗がなだれ込んでくる。
「凛、一真! 探したぞ! さっさと駅前の焼肉屋行くぞ! 今日はクラス全員、東雲凛様の奢り……じゃなくて、クラス費で食べ放題だ!!」
海斗が興奮気味に叫ぶ。
そう言って彼はまたどこかへ行ってしまった。ほんとに忙しいやつだな……。
「にひひ! 二人とも、お取り込み中だったかな? ……。ま、いいや! 今日の主役は凛りんなんだから! ほら、行くよーっ!」
一方、一ノ瀬さんはというと、俺と東雲さんの「不自然なほど真っ赤な顔」を見て、すべてを察したようにニヤリと笑ったのだった。
これにて球技大会編は終了です!
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