第39話 一分だけ
体育館の片隅、男子バドミントンの準決勝。
最後の一打がコートに突き刺さった瞬間、審判のホイッスルが鳴り響いた。
「――そこまで! 21対19。勝者、一組・河野!」
膝をつき、大きく肩で息をする。滴る汗が、床に小さな水溜まりを作っていた。
結果は、惜敗。中学時代の県大会ランカーだった経験、そしてネトゲで培った予測能力を全開にしても、現役バド部部長の壁は厚かった。
「……っ、くそ。あと、一歩だったのに」
悔しさが込み上げる。けれど、顔を上げた俺を待っていたのは、予想だにしないクラスメイトたちの「熱」だった。
「佐藤! 惜しかったぞ! マジで凄かった!」
「おい一真、お前あんなに動けるなんて聞いてねーよ! 最高にかっこよかったぜ!」
海斗が真っ先に駆け寄り、俺の背中をバシバシと叩く。クラスの女子たちからも「佐藤くん、お疲れ様!」という、温かい拍手が送られていた。
モブとして生きてきた俺の人生で、これほど多くの人間に「佐藤一真」という個人を認められたのは、初めてのことだった。
(……ベスト4。……約束は、守ったからな。ハル)
俺は心の中でそう呟き、タオルで顔を拭った。
優勝はできなかった。けれど、自分の中では確かな手応えがあった。やり切ったという充実感。
そして、何より――あいつとの「ワガママ権」を賭けた勝負の土俵に、ちゃんと踏み止まれたという安心感。
そんな余韻に浸っていた時、ポケットの中でスマホが短く震えた。
【凛:屋上。……今すぐ、一人で来て。お願い】
……。
心臓が、試合中よりも大きく跳ねた。
次は女子バスケの決勝戦だ。エースである彼女が、こんな直前に俺を呼び出すなんて。
文面から伝わってくる、切羽詰まった空気。
俺は海斗の誘いを「トイレに行ってくる」と適当にかわすと、熱狂の体育館を飛び出した。
誰もいない校舎。
生徒たちは皆、グラウンドのサッカーか、体育館のバスケに集まっている。しんとした廊下を駆け抜け、俺は最上階の重い扉を押し開けた。
――バタン。
六月の突き抜けるような青空。
新緑を揺らす風が吹き抜ける屋上の真ん中に、ポニーテールを揺らす背中があった。
「……東雲さん」
俺が呼びかけると、彼女は肩をビクッと震わせ、ゆっくりと振り返った。
その表情を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
学校での完璧な「天使」の微笑みは、どこにもなかった。
唇はわずかに震え、膝の上に乗せた彼女の両手は、隠そうとしても隠しきれないほどガタガタと震えていた。
「……カズ。……来ないかと思った」
「行くに決まってるだろ。……。……どうしたんだよ。もうすぐ決勝だろ」
「……。……。怖いんだよ。……。相手、三年生で、現役の県選抜がいるんだって。……。みんな、私が『エースだから』って期待してる。クラスのみんなも……負けるわけないって。……。……でも、足がすくんじゃって、動けないんだ」
それが、彼女の正体。
誰よりも努力家で、誰よりも繊細で。
ハルとして、三年間俺の隣で戦い続けてきた、一人の不器用な女の子。
俺は彼女の元へ歩み寄り、フェンスの前に並んで立った。
「……。……ハル。お前、さっきの俺の試合、見てたか?」
「……。……。うん。……。最後まで、ずっと見てたよ」
「俺、負けたよ。……。最後、自分のミスでな。……。でも、誰も俺のこと笑わなかった。……。お前だって、そうだろ。……。誰のために戦ってるんだよ。お前を『東雲凛』っていう偶像として見てる連中のためか?」
俺は、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「違うだろ。……。お前は、三年間、俺の隣でボロボロになりながらレイドボスを殴り続けてきたハルだ。……。いつも通り、最前線で暴れ回ればいいんだよ。……。お前が最強なことくらい、相棒の俺が一番よく知ってる」
俺がいつものボイスチャットのような不遜な口調で告げると、凛は一瞬ポカンとして俺を見つめ、それから「……。……。にひひ」と、消え入りそうな小さな声で笑った。
「……。……。相変わらず、口が悪いんだから。……。……でも、ありがと。……少しだけ、落ち着いたかも」
凛はそう言って、前を向こうとした。
けれど、まだ指先の震えは止まっていない。
「……。……ねえ、カズ」
「なんだよ」
「……。……一分だけでいいから。……。……ワガママ、言ってもいい?」
凛はそう言うと、俺の方を向き――。
おずおずと伸ばされた彼女の細い手が、俺の右手を包み込んだ。
「――――っ!?」
熱い。
汗ばんだ彼女の掌から、激しく打つ心臓の鼓動が、ダイレクトに伝わってくる。
凛は俺の手をぎゅっと握り締めると、そのまま指を絡ませ、恋人繋ぎのような形にして、自分の胸元に引き寄せた。
「……。……。何、して……っ」
「……。……一分だけ。……このままでいさせて。……。今、私のMP、ゼロなんだもん。……。……カズから直接、バフもらわないと……。……私、勝てないから」
彼女は俺の胸板に、こてんと自分の額を預けた。
ふわりと、コートの上で嗅いだのと同じ、汗と石鹸が混ざり合った甘くて切ない香りが鼻をくすぐる。
……近い。
あまりに近すぎて、どちらの心臓がこんなにうるさく鳴っているのか、もう分からなかった。
「……。……。カズの手、おっきいね。……。……あったかい」
「……。……。お前が冷えすぎなんだよ。……。ほら、深呼吸しろ」
「…………うん。……。……すぅ……はぁ……」
俺の胸元で、彼女が規則正しく呼吸を繰り返す。
繋いだ指先から、彼女の「弱さ」が流れ込んでくる。
そして、俺の「熱」が、彼女の中へと溶けていく。
三年前。
画面越しに『頑張れ』とタイピングしていたあの時間は。
この一瞬の「体温」のためにあったのではないか。
そんなことすら思えてくるほど、この沈黙は深く、甘かった。
「……。……ねえ、カズ。……。……もう、大丈夫」
彼女はゆっくりと俺から離れた。
けれど、繋いだ手だけは、まだ離してくれない。
彼女が顔を上げると、そこにはもう「震える女の子」はいなかった。
頬を少し赤く染め、瞳には見たこともないほどの輝きを宿した――俺だけの最強の相棒、ハルの顔があった。
「…………。……。一分、経ったぞ」
「にひひ。……。……ありがと! 最高のバフ、いただきました!」
彼女は俺の手を最後にぎゅっと握り返すと、今度こそ名残惜しそうに指を離した。
自由になった俺の右手には、まだ彼女の汗の感触と、熱い熱がこびり付いている。
「カズ! ……見てなさいよ。……今の私なら、誰にも負けない。……。……優勝してくるから。……。佐藤くんは、ちゃんと一番前で見ててよね!」
「……。……ああ。……。……瞬きしないで見ててやるよ。……。……行け、ハル」
「うん! ……。行ってきます!」
凛は最高の笑顔を俺に残すと、弾かれるように屋上を後にした。
扉が閉まる音。
一人残された屋上で、俺は自分の右手をじっと見つめた。
(……。……。心臓、壊れるかと思った……)
今さらになって、全身から力が抜ける。
けれど、胸の奥には、さっき彼女がくれた「信頼」という名の重みが、心地よく残っていた。
これが親友としての行為なのか。
それとも、もうそんな言い訳が通用しない場所に俺たちは立っているのか。
その答えは、彼女がコートで最高のシュートを決めた瞬間に、きっと分かるはずだ。
階下から、女子バスケ決勝戦の開始を告げる大歓声が聞こえてきた。
俺は熱くなった頬を風に晒しながら、愛おしい相棒の待つコートへと、ゆっくりと歩き出した。
六月の初夏の空は、どこまでも高く、俺たちの未来を祝福するように透き通っていた。




