第38話 広い体育館、二人きり
午後からの体育館は、午前中を遥かに凌ぐ熱気に包まれていた。
三面並んだコートの至る所で、勝利の歓声と敗北の呻きが交差し、空気はさらに湿り気を帯びて重くなっている。
「……信じらんねえ。一真、お前本当に準決勝まで残っちまったのかよ」
観客席の最前列で、海斗が呆然とした声を漏らした。
俺――佐藤一真は、予選に続き準々決勝もストレートで勝利を収めていた。中学時代の貯金と、ネトゲで鍛えた『予測能力』の組み合わせは、想像以上に現役の部活生たちを翻弄したらしい。
「……。まあ、運が良かっただけだ。それより、クラスの戦績はどうなんだ?」
「最高だよ!卓球はダメだったみたいだけど、 男子バスケも俺たちが勝ち進んでるし、サッカーも決勝トーナメント入りだ。……そして今、目の前で始まろうとしてるのが、本日のメインイベントだぞ」
海斗が熱っぽい視線を送る先。
体育館の中央、第二コートでは女子バスケの準決勝が始まろうとしていた。
二組、つまり俺たちのクラスの相手は、優勝候補の一角である五組。コート上には、ポニーテールを揺らしながら軽くシュート練習をする東雲凛と、その周りでぴょんぴょんと跳ねている一ノ瀬咲希の姿があった。
「凛も咲希も、今日は一段と気合入ってるな……。特に凛、さっきからシュート一本も外してねーぞ。あんな凛々しい姿見せられたら、またファンが増えちまうぜ」
海斗の言う通りだった。
ユニフォーム姿の東雲さんは、まさに「学園の太陽」そのものだった。高く跳躍し、しなやかなスナップで放たれるシュート。そのフォームの美しさに、観客席のあちこちから「凛さんー!!」という黄色い声援が飛んでいる。
(……。……。……すげーな、やっぱり)
俺は手元のスポーツドリンクを一口飲み、柵に身を乗り出した。
学校での「完璧な東雲さん」。
けれど、俺には見える。シュートを決めた後、彼女がほんの一瞬だけ、自分の右手首を気にするように振った。それは彼女がネトゲで集中しすぎた時に出る、癖だ。
前の話にはなるが、俺のくせなんだよなぁ〜と話していたのを思い出した。
(ハル。……。……飛ばしすぎだ。後半、バテるぞ)
心の中でだけ、相棒への忠告を送る。
試合開始のホイッスルが鳴り響くと、第二コートは一瞬で戦場へと変わった。
東雲さんの動きは、練習の時以上にキレていた。
鋭いドライブで敵陣を切り裂き、マークを二人引き連れながらも、正確無比なパスを一ノ瀬さんへと通す。
一ノ瀬さんもまた、天真爛漫な笑顔を浮かべながら、コート上では冷徹なまでに正確なポイントガードとしての仕事をこなしていく。
「凛、こっち!」
「いいよ、咲希!」
二人の連携は、まさに芸術。
けれど、俺が一番目を奪われたのは、東雲さんが見せる『真剣な瞳』だった。
汗が頬を伝い、前髪が額に張り付くのも構わず、彼女はボールを追う。
三年前。画面の向こう側で、ノイズ混じりの声で俺を叱咤激励していたあの情熱が。
今は「東雲凛」という美しい姿を持って、目の前で躍動している。
その神々しさに、俺は海斗と一緒に叫ぶことも忘れ、ただただ息を呑んで彼女を凝視していた。
前半戦終了。
二組の大幅リードで、選手たちがベンチへと戻っていく。
俺たちがいる観客席は、ちょうどベンチの真上のあたりだった。
「凛ー!! 咲希ー!! 最高だぞお前ら!!」
海斗が身を乗り出して、喉が枯れんばかりの声で叫ぶ。
一ノ瀬さんが気づいて、俺たちの方を向いて満面の笑顔で手を振った。
「にひひ! 海斗、声デカすぎー! カズッチくんも見ててくれたー!?」
その声に、タオルで顔を拭いていた東雲さんが顔を上げた。
彼女の視線が、海斗を通り過ぎ――真っ直ぐに俺を捉えた。
(――……)
目が合う。
周囲にはたくさんの生徒がいる。海斗も隣で叫んでいる。
けれど、その一瞬。
世界には俺と彼女の二人しかいないような、そんな錯覚に陥った。
東雲さんは、首にかけていたタオルを少しだけずらした。
そして、誰にも気づかれないほどの、けれど俺にははっきりとわかる「いたずらっ子のハル」の笑みを浮かべると――。
パチン、と。
俺に向けて、最高に鮮やかなウインクをしてみせた。
「………………っ!!」
心臓が、今日一番の――いや、人生最大級の音を立てて跳ねた。
ドクン、ドクンと、耳の奥まで血潮が駆け巡る。
顔が沸騰しそうに熱くなり、俺は思わずその場にしゃがみ込みそうになった。
「……? おい一真、どうした? 暑さにやられたか?」
「……。……。……なんでも、ない。……。……ちょっと、心拍数が上がっただけだ」
「ははっ、バドの連戦だもんな! 無理すんなよ! ……あ、凛のやつ、今こっち向いて笑ったよな!? うおぉぉぉ! 俺への応援か!? 俺へのエールなのか!?」
勘違いして狂喜乱舞する海斗。
けれど、俺は知っている。
今のウインクは、海斗でも、クラスの連中でも、あの熱狂的なファンたちでもない。
夜のボイスチャットで、明日への約束を交わした……俺だけに向けられた『バフ』だったのだということを。
(……。……。反則だろ、ハル)
俺は手のひらで顔を覆い、荒ぶる鼓動を必死に鎮めようとした。
けれど、まぶたの裏には、さっきの彼女の、汗で輝く笑顔と、悪戯っぽく閉ざされた片目の残像が、焼き付いて離れなかった。
「――後半戦、開始します!」
審判の声。
東雲さんは再び、何事もなかったかのように「学園の天使」の顔に戻ってコートへと戻っていく。
学校での、人気者の女子と、地味な俺。
けれど、この大観衆の中で、俺たちだけが共有している「秘密の信号」。
その優越感と、抗えないときめきが、俺の足を、再びコートへと向かわせた。
「……。……ベスト4で満足してる場合じゃねーな」
俺は、彼女からもらった『バフ』の効果を全身で感じながら、ラケットを強く握り直した。
午後。
俺のシャトルが、彼女のシュートと同じくらい熱く、コートを切り裂くことになる。
勝利のワガママ権。
俺は、自分の中に湧き上がったかつてないほどの闘志を、六月の熱風に乗せて解き放った。




