第37話 私だけの相棒
六月の湿り気を帯びた熱気が、体育館の高い天井の下に溜まっていた。
三面取れる巨大なフロア。左側では海斗たちが暴れ回る男子バスケ、中央では東雲さんと一ノ瀬さんが躍動する女子バスケ、そして右側のコートでは、俺がエントリーしたバドミントンの予選が始まろうとしていた。
校内中から響く歓声、バッシュが床を鳴らす鋭い音、飛び交う怒号に近い声援。
ついに始まった球技大会当日。
俺――佐藤一真は、体育館の端で、一人静かにガットの感触を確かめていた。
「おい佐藤、ガチガチだぞ? そんなんじゃ俺のスパイク……じゃなくて、スマッシュの餌食だぜ」
声をかけてきたのは、対戦相手の三組・高木だ。
高木はバレー部のレギュラー。バレー部特有の驚異的な跳躍力と、長いリーチを活かした守備範囲の広さが自慢の陽キャだ。
「……。いや、別に。……よろしく、高木」
「ははっ、相変わらずテンション低いな。悪いけど、俺は運動に関しては天才なんだわ。バドは素人だけど、バレーで鍛えたこの肩があるからな。さっさと終わらせて、隣のコートの凛りんと咲希ちゃんの応援に行かせてもらうわ」
高木はニヤニヤしながら、中央のコートでアップをしている東雲さんたちに視線を送った。
俺は何も答えず、ただ感情を押し殺した「ポーカーフェイス」でポジションについた。
(……ベスト4。それが、ハルとの『ワガママ権』を賭けた最低ラインだ)
昨夜のボイスチャットでの、彼女の少し震えた、けれど熱を孕んだ声を思い出す。
『もっと違うことだよ、バカ』。
その言葉の真意を考えるだけで、俺の胸の奥には静かな、けれど消えない火が灯っていた。
「――第三コート、男子バドミントン予選。二組・佐藤くん対三組・高木くん、始めてください」
審判のホイッスルが鳴る。
高木が「おらよっ!」と、バレーのサーブのように力任せのロングサービスを放つ。
(――……。……遅い)
その瞬間、俺の意識は「現実」から切り離された。
視界に入るのは、高木の肩の開き、手首の角度、そしてシャトルの回転。
ネトゲ『エターナル・レジェンド』の最前線で、ミリ秒単位の判断を三年間繰り返してきた俺の脳が、高木の動きを「ただの予備動作」として解析し始める。
最短距離で踏み込み、手首の返しだけでシャトルを捉える。
――シュッ!!
鋭く低い弾道で放たれたシャトルは、高木の足元を掠めるようにして、コート奥のラインぎりぎりに突き刺さった。
「…………え?」
高木が呆然と立ち尽くす。
周囲で見ていたクラスメイトたちも、何が起きたか分からず一瞬静まり返った。
「……イ、イン! 1-0!」
それが、独壇場の始まりだった。
高木が「今の、まぐれだろ!」と顔を真っ赤にして、バレーのスパイクさながらの重いスマッシュを打ち込んでくる。
けれど、俺は一歩も動かずに、まるで散歩でもしているような手つきでそれをレシーブする。
シャトルは常に相手が「一番嫌がるコース」へと正確に吸い込まれていく。
ネトゲで培った『相手の心理を読み、裏をかく』戦術。
そして、中学時代に叩き込んだ技術の「貯金」。
それらが噛み合った時、俺の目はいつの間にか、夜のボイスチャットで相棒を守る時の、「騎士」の真剣な瞳に変わっていた。
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凛視点
「――ナイスシュート、凛りん!」
咲希のパスをゴール下で受け取り、レイアップを決める。
私たちのクラスの女子バスケは、予選を圧倒的なペースで勝ち進んでいた。
本来なら、自分の試合に集中すべき時間。
けれど、私はタイムアウトの笛が鳴るたびに、無意識にある方向を探してしまっていた。
(……。カズ。……ちゃんと戦えてる?)
視線の先。体育館の右端。
バドミントンのコートで、体操着を着た一真が、バレー部の高木くんを相手に戦っていた。
高木くんは背も高いし動けるから、一真は苦戦してるんじゃないかって……実はずっと心配だったんだけど。
「…………っ」
コートを駆ける一真の姿を見た瞬間、私の喉の奥がキュッと熱くなった。
そこにいたのは、教室で海斗くんにいじられている、冴えない「佐藤くん」じゃなかった。
一切の無駄を省いたフットワーク。
獲物を狙う鷹のような、冷徹で、けれど熱い眼差し。
それは、三年間。
画面越しに、私が何度も惚れ直してきた「最高の相棒」そのものだった。
「……あ、凛りんも見てるね? カズッチくん、ヤバいよあれ。咲希の親戚の言ってたこと、本当だったじゃん」
隣でドリンクを飲んでいた咲希が、ニヤニヤしながら私の肩を小突いてきた。
「……別に、見てないよ。ただ、佐藤くんが不戦敗(笑)になっちゃうとって思っちゃって」
「にひひ、素直じゃないなぁ。……ほら、周りの女子たちの声、聞いてみなよ」
咲希に言われて、私はコートの周りに集まり始めた女子たちの会話に耳を澄ませた。
カズの試合が進むにつれ、他クラスの女子たちが「あのかっこいい子、誰?」とざわつき始めている。
『ねえ、あの二組の佐藤くん……あんなにかっこよかったっけ?』
『今まで全然目立たなかったのに……あの真剣な目、反則じゃない!?』
『動きがすごくスマート……あんな子、クラスにいたんだね』
…………。
……………………。
その瞬間。私の胸の奥で、どろりとした「正体不明の不快感」が広がった。
心臓が、まるで誰かに強く握りしめられたみたいに、重苦しく疼く。
(な、なんなんだ。……みんな。……今さら気づいたって遅いんだから)
カズの、集中した時のあの凛々しい眉根も。
シャツの裾で汗を拭う時の、無防備な仕草も。
三年前から、画面越しに彼の声を聞き、彼の優しさに甘えてきた私だけの特等席。
それを、何も知らない外野の人たちが「見つけた」気になって品評しているのが、どうしようもなく我慢ならなかった。
まるで、自分だけの大切な秘密基地に、土足で踏み込まれたような――いや、もっとずっと言葉にできない、強烈な独占欲。
「……咲希。次の試合、もっと点数引き離すよ」
「えっ? 凛りん、急にやる気満々!?」
「……なんか、イライラするの。……。カズが目立ちすぎてて……。……。……バカ。……あんなの、私だけが知ってればいいのに」
「んー?凛りんなんか言ったー?」
「……何も言ってない!」
つい取り乱してしまった。
私はタオルの端をギュッと握り締めた。
カズが強烈なジャンピングスマッシュを叩き込み、シャトルが「火を噴くような」音を立てて高木くんのコートを貫いた瞬間。
体育館の右端から、黄色い歓声が上がった。
彼はは相変わらずのポーカーフェイスで、負けた高木くんに軽く会釈をしている。
その姿に、また女子たちの「佐藤くん、クールで素敵……」という声が響く。
(………………っ!!)
「(……。カズのバカ。……あんなにカッコよく戦わなくていいってば……)」
私の知らないところで、私の相棒がどんどん「みんなの佐藤くん」になっていく。
それが、どうしようもなく……胸を締め付けるように苦しかった。
******
一真視点
「――試合終了。勝者、佐藤くん!」
審判の声を聞きながら、俺は大きく肩で息をした。
全身から汗が噴き出している。けれど、身体は驚くほど軽い。
バレー部のエースだったはずの高木は、「ありえねぇだろ……」とコートに膝をついて震えていた。
「おい佐藤! マジかよお前!!」
「一真、今の動き、バド部のレギュラー以上だったぞ!?」
クラスの男子たちが興奮気味に駆け寄ってくる。
さらに、今まで名前すら呼ばれたことのないような他クラスの女子からも、「佐藤くん、お疲れ様!」なんて声が聞こえ、俺は戸惑うしかなかった。
(……。目立ちたくなかったんだけどな。……まあ、ベスト4のためには仕方ないか)
俺はタオルで顔を拭い、ベンチでポカリスエットを口にした。
ふと視線を感じて、中央の第ニコート――女子バスケの方を向く。
そこには、次の試合の準備をしている東雲凛がいた。
彼女は俺と目が合った瞬間――。
(――…………)
いつもの「お疲れ、相棒!」という笑顔ではない。
唇をぎゅっと結び、頬を少しだけ膨らませて、まるで「お前のせいなんだからね」とでも言いたげな、ひどく「重い」瞳で俺を射抜いてきた。
(……え、何。……。俺、なんか悪いことしたか?)
隣の海斗も「……凛りん、なんか機嫌悪そうじゃないか? あ、もしかして一真が目立ちすぎて嫉妬してるのか!? さすが一真、罪作りな男だぜ!!」なんて茶化してくるが、俺の心臓は別の意味で騒がしかった。
彼女が俺にだけ向けてくる、あの視線。
学校のアイドルとしての仮面が少しだけ剥がれ落ちた、ハルとしての剥き出しの感情。
その正体が「独占欲」だなんて、モブを自称する俺にはまだ、信じることすらおこがましいけれど。
少なくとも、今の彼女の瞳には。
体育館を埋め尽くす生徒の中で、俺一人だけを「特別な相棒」として捕らえ、誰にも渡さないと宣言するような、強烈な磁力があった。
「………………。負けられねーな、マジで」
俺はラケットを握り直し、午後からの準々決勝に向けて精神を研ぎ澄ませた。
その背後で、東雲凛が強烈なドライブで敵陣を切り裂き、今までで一番気合の入った「はっ!」という掛け声を体育館中に響かせていた。




