第36話 決戦前夜
六月、大会前夜。
窓の外では、湿り気を帯びた夜風が木々を揺らし、時折遠くで雨の予兆のような湿った匂いが立ち込めていた。
もうそろそろ梅雨の時期かと、俺――佐藤一真は、自室の電気を消し、ディスプレイの青白い光だけに包まれながら、使い古したヘッドセットを装着した。
カチリ、とマイクのスイッチを入れる。
「――よお、ハル。もう来てるか?」
『……遅いよ、カズ。あと三分で「置いてけぼりの刑」に処すところだったんだから』
レシーバーから響いたのは、凛とした、けれどどこか眠たげな、心地よい彼女の地声。
学校で見せる「東雲さん」の完璧な笑顔でも、かつてボイチェンを通して聞いていたハスキーな少年の声でもない。
三年間、俺がこの場所で守り続けてきた、一人の女の子としての『ハル』の声だ。
「悪い。……。明日使うバドミントンのラケット、ガットの調子見てたら遅くなった」
『ふーん。……。気合入ってるねぇ。……あの咲希が言ってた「燃えるシャトル」の伝説、明日再現してくれるの?』
「……。やめろ。あれは一ノ瀬さんの大げさな表現だろ。……。ただ、お前に『不戦敗(笑)』って言われるのだけは、何としても阻止しなきゃいけないからな」
俺が皮肉っぽく返すと、スピーカーの向こうで彼女がクスクスと笑う気配がした。
衣擦れの音、そして彼女がベッドの上で体勢を変えたような微かな振動が、マイクを通じて俺の耳元まで届いてくる。
『あはは。……。まあ、カズなら大丈夫だよ。……。練習の時の動き、私も咲希も見てたし。……。……あんなにカッコいいスマッシュ打てるなら、クラスの女の子たち、みんな惚れ直しちゃうんじゃない?』
「……。んなわけねーだろ。俺はただの、東雲さんのパシリの一員だと思われてるよ」
『パシリじゃないよ。……私の、「相棒」でしょ?』
不意にトーンが落ちる。
ディスプレイの中のアバターは、ただ焚き火の横で座り込んでいるだけなのに、今の彼女の言葉には、心臓の奥を直接指先でなぞられるような熱があった。
「…………。ああ。お前こそ、バスケの方はどうなんだ。……プレッシャーで手が震えてるんじゃないか?」
『……バレた? ……。実は今は寝転がってるだけだけどさ、さっきとか、コントローラー握る手が、ちょっとだけ汗ばんでるんだよね。……。学校じゃ「凛りんなら絶対大丈夫!」ってみんなに期待されてるから……弱音なんて吐けないし』
それが、彼女の抱える「偶像」の重さ。
学園の天使、東雲凛。彼女はいつだって強く、美しく、完璧でいなければならない。
けれど、今、この閉ざされたボイスチャットの中だけは、彼女は震える手を隠さず、俺にだけその「弱さ」を預けてくれる。
「……お前がミスったところで、俺は笑わないよ。……。三年間、お前のどんくさいプレイを何回見てきたと思ってるんだよ。……。ハルはハルだろ。コートの上でも、ゲームの中でもな」
『…………にひひ。……。ありがと、カズ。……。やっぱりカズにそう言われると、一番効くわ。……。最高のバフ、いただきました』
凛の声に、いつもの明るさが戻る。
彼女のアバターが、焚き火の周りを嬉しそうにくるくると走り回った。
寝転がりながらも嬉しさを表現するためにわざわざアバターを動かしているのだろうか。
『――よし! じゃあさ、カズ。……明日、賭けをしない?』
「賭け? ……。どうせまた俺に不利なやつだろ」
『そんなことないよ。……。明日、お互いに「いい結果」を出せたら……一つずつ、相手に「ワガママ」を聞いてもらえる権利! ……。どう?』
「……。いい結果って、具体的には」
『カズはバドミントンでベスト4以上! 私はバスケで優勝! ……。ハードルは高いけど、私たち相棒ならいけるでしょ?』
凛の声は、弾むような期待に満ちていた。
ワガママ権。
その言葉の響きに、俺の脳内には過去の苦い記憶がフラッシュバックする。
「……お前、また俺に「黒歴史ポエム」を全校放送させようとか、そういうこと考えてるんだろ」
『あはは! それも面白そうだけど……。今回は、もっと違うことだよ、バカ』
凛の声が、急に囁くような低音に変わった。
耳元で、彼女の体温が伝わってくるような錯覚。
「……違うこと?」
『……。……うん。……。教えない。……勝ってからのお楽しみだもん。……。あ。でも、変な期待はしないでよね? ……。あくまで、親友としてのワガママなんだから』
「…………。……。わかってるよ。俺の方のワガママだって、決まってるからな。……。お前が負けたら、あの『深淵の堕天使』ポエム、俺のスマホの着信音に設定させてもらうわ」
『絶対イヤ!! 死んでも勝ってやるんだから!!』
凛の叫び声に、俺は思わず吹き出した。
いつもの。
いつもの、相棒としてのやり取り。
でも。
笑い声が止んだ後の沈黙は、三年前とは比べ物にならないほど、重くて甘かった。
「……。……なあ、ハル」
『んー?』
「……。……明日、ちゃんと見てるからな。……。コートの端っこからだけど。……。俺の視線が届くところには、お前がいなきゃダメだからな」
……。
…………。
スピーカーの向こう側で、彼女が息を呑む音が聞こえた。
数秒の。
けれど、宇宙の誕生から終焉までを見守るほどに長く感じられた沈黙。
『………………うん。……。私も、見てるよ。……。カズが戦ってる間……。私、カズにしか届かない「魔法」、ずっとかけてあげるから』
彼女の声は、震えていた。
けれど、それは恐怖の震えじゃない。
明日。
学校というパブリックな戦場で。
俺たちは「佐藤くん」と「東雲さん」として、決して公には交わらない。
けれど、その視線の裏側では。
この六畳の部屋の空気さえも熱くさせるような、二人だけの「約束」が交わされている。
『……。……じゃあ、今日はもう寝よっか。……。睡眠不足で足がもつれたら、ワガママ権没収だよ?』
「……。ああ。……。おやすみ、ハル。……明日、頑張れよ」
『うん。……。おやすみ、カズ。……明日、私のカッコいいところ……瞬きしないで見ててよね?』
プツン、という電子音と共に、通信が切れた。
静まり返った部屋。
耳を外した後のヘッドセットからは、もう何も聞こえない。
けれど、彼女が最後に残した『もっと違うことだよ』という言葉が、呪文のように俺の脳裏を回り続けていた。
俺は、スマホの裏側に貼られたドラゴンのシールをそっと指先でなぞった。
一ノ瀬さんがいて、海斗がいて、クラスの連中がいて。
そのすべての喧騒の、さらに深い場所で。
俺と彼女は、三年間積み上げてきた「相棒」という絆を武器に、明日の戦場へと足を踏み出す。
(……。ワガママ、か。……。が本当に願いたいことなんて……一つしかないんだけどな)
俺は電気をつけず、月明かりが差し込むベッドに横たわった。
明日。
俺のシャトルがコートを切り裂く時。
彼女のシュートがゴールを揺らす時。
俺たちの「親友」という言い訳は、また一歩、その完成された形へと近づいていく。
それが、どれほど不器用で、どれほど甘酸っぱい結末を連れてくるのかを、俺はまだ知らない。
「…………。負けられねーな、マジで」
俺は、彼女の温もりがまだ残っているような耳元を掌で押さえ、ゆっくりと目を閉じた。
六月の風が、カーテンを優しく揺らし、明日へのカウントダウンを刻んでいた。




