第35話 隣のコートからの視線
中間テストという名の嵐が過ぎ去り、教室には結果に一喜一憂する叫び声と溜息が充満していた。
俺は、教壇に貼り出された物理の平均点と、手元に戻ってきた答案用紙を交互に眺め、小さく安堵の息を漏らした。
(……68点。赤点は……回避した。これなら補習送りはないか)
あの「地獄の勉強会」がなければ、おそらく今頃俺の心臓は止まっていただろう。
隣の席では、海斗が天を仰ぎながら、震える手で答案用紙を掲げていた。
「……生き、残った……。一真、見てくれ。42点だ。平均点マイナス15点だが、赤点は40点……。俺は、俺はついに神の領域に辿り着いたぞ……!」
「……。お前、よくその点数でそこまでドヤ顔できるな」
「うるせえ! これであの地獄の居残り補習から解放されたんだ。球技大会、コートの上で暴れ回ってやるぜ!」
海斗がゾンビのような顔から一転、バスケ部特有のバイタリティを取り戻して叫ぶ。
その時、華やかな風と共に二人の天使がやってきた。
「にひひ! 海斗、その顔は合格だったみたいだね!」
一ノ瀬さんが、海斗の背中をバシッと叩く。
そしてその隣には、いつも通り涼やかな、けれど俺の顔を見てふっと柔らかく目を細めた東雲凛がいた。
「海斗くん、おめでとう。これでバスケ部も全員揃って練習できるね」
東雲さんの声は、クラスの誰もが憧れる「東雲さん」としてのものだ。けれど、彼女は俺の机の端を指先でトントンと叩きながら、俺の点数を覗き込んできた。
「佐藤くんはどうだった? ……あ、結構いいじゃない。私の教え方が良かったのかな?」
「……。……ああ。おかげさまで、不戦敗は免れたよ。ありがとう、東雲さん」
俺が少しだけ照れながら答えると、彼女はにひひとハル特有の笑みを一瞬だけ漏らした。
その時、海斗が俺たちの間に割って入る。
「凛、咲希! 今日はマジで俺の命の恩人だわ! お礼に放課後の練習、俺がゴール下のリバウンド全部取ってやるからな!」
「あはは、頼もしいねぇ海斗! でも、咲希も今日はシュートの調子いいから、ちゃんとパス回してよね!」
「いや、男女練習別でしょ」
東雲さんの鋭いツッコミが入る。
……。
……そうか。
海斗と彼女たちは、同じバスケ部の「チームメイト」なのだ。
学校というオモテの世界では、俺はただの「地味な佐藤くん」であり、海斗は凛や咲希を名前で呼び捨てにできる、数少ない『選ばれた側』の人間。
まぁ裏では謎の信仰心でさん付けしている訳だが……。
その事実は分かっていたはずなのに、実際に目の前で海斗が「凛」と呼ぶのを聞くと、胸の奥が少しだけチクリとした。
(……。いや、俺だって、あいつのことは『ハル』って呼んでるし、向こうだって俺を『カズ』って呼んでる。二人きりの時の呼び方は、俺だけの特等席なんだから)
必死に自分に言い聞かせるが、どうしても意識してしまう。
東雲さんは、海斗に対して「海斗くん」と親しげに接しつつも、あくまで部活の仲間としての距離を保っている。
そんな俺の心の揺れを、一ノ瀬さんが逃さず察知した……のだろうか。彼女はニヤリと軍師の笑みを浮かべ、俺の腕をぐいっと引っ張った。
「カズッチくん、何ぼーっとしてるの! テストも終わったんだし、今日から球技大会の練習、本格始動だよ! 海斗、凛りん、準備いい!?」
「おうよ! ……。あ、一真、お前はバドミントンだもんな。体育館の端っこで寂しく羽ついてろよw」
「……。うるせーよ」
海斗の冗談を受け流し、俺たちは放課後の体育館へと向かった。
……一ノ瀬さんどこまでわかってるんだろう。
******
――体育館。
この時間はクラス毎の球技大会練習の時間だ。
この学校の体育館は広く、フロアの3分の1を男子バスケ、もう3分の1を女子バスケ、残りをバドミントンが分けて使っている。
俺はクラスのバドミントン代表として、まずはコートの隅でラケットを握った。
すぐ隣のバスケコートでは、女子バスケの練習が始まっている。
「凛! パス!」
「了解、咲希! ――そこっ!!」
バッシュが床を鳴らす鋭い音と、飛び交う声。
コートを駆ける二人の姿は、まさに芸術品だった。
制服姿もいいが、バスケ用のタンクトップにショートパンツ姿の東雲さんは、一段としなやかで、力強かった。
さらさらとした黒髪を高い位置でポニーテールにまとめ、汗を輝かせながら跳躍するその姿に、ギャラリーの男子たちから「おお……っ」と吐息が漏れる。
俺がシャトルを打つ手を止め、思わず彼女を見惚れていると。
シュートを決めた凛が、ふとこちらを振り返った。
(――……)
目が合う。
東雲さんは、タオルで汗を拭きながら、誰にも気づかれないような速さで、自分のうなじを指差し、俺に向かってパチンとウインクした。
……っ!!
昨日の勉強会で、俺が彼女の肩に頭を預けられた時のこと。
あるいは、俺がボイチャで熱弁した「ポニーテールのうなじフェチ」のこと。
あいつ、絶対にわざと思い出させようとしてやがる。
「……。……ハル……!!」
俺が赤面してシャトルを空振りすると、彼女は満足げににひひと笑い、再びコートへと戻っていった。
「おい佐藤! 集中しろ! お前、中学の時は凄かったんだろ!?」
練習相手のクラスメイトに発破をかけられ、俺はラケットを握り直した。
……そうだ。
俺だって、いつまでも「見惚れる側」でいるつもりはない。
三年間、あいつの背中を守り続けてきた「カズ」の意地を見せてやる。
俺はコートの端に立ち、サービスを打つ。
シュッ、と空気を切り裂くような鋭い音。
落下地点へと吸い込まれるように落ちるシャトル。
「……。……。へぇ」
体育館の反対側、男子コートの方から練習の合間にこちらを見ていた海斗が、目を見開いた。
「一真、お前……。その足さばき、ガチじゃねーか」
「……。昔の貯金だよ」
俺は無造作に答え、相手の返球をバックハンドで鋭く弾き返した。
自分でも驚くほど、身体が軽い。
東雲凛に見られているという意識が、俺の中に眠っていた「勝ちたい」という本能を呼び覚ましていた。
ネトゲで培った『相手の動きの先読み』。それが、バドミントンというリアルな戦場でもリンクしていく。
俺の目は、シャトルの軌道だけでなく、体育館全体の空気の流れを感じ取っているようだった。
練習の休憩中。
ドリンクを飲んでいた俺の元に、タオルを首にかけた一ノ瀬さんが、東雲さんを連れてやってきた。
女子バスケ部のコートとバドミントンコートは隣り合わせなので、合流するのは自然なことだ。
「にひひ! カズッチくん、すっごーい! さっきのスマッシュ、咲希でも見えなかったよ!」
「……一ノ瀬さん。大げさだよ」
「そんなことないよ、佐藤くん」
東雲さんが、スポーツドリンクのペットボトルを俺に差し出しながら言った。
彼女の瞳は、学校での「東雲さん」の優しさを保ちつつも、どこか凛とした、相棒ハルの熱を帯びていた。
「……。いい動き、してたね。……正直、びっくりしたわ」
「……。東雲さんのバスケこそ、すごかったよ。反対側のコートから海斗が『凛、ナイス!』って叫びすぎてて、耳が痛かったわ」
俺が少しだけ毒を吐くと、彼女は一瞬ポカンとして、それからいたずらっぽく笑った。
「海斗くん? ……ふふ。海斗くんはいつも熱心だもんね。……。でもね、佐藤くん」
彼女は一歩踏み込み、俺の耳元で囁いた。
「(……。海斗くんに『凛』って呼ばれるより。……。カズに『ハル』って呼ばれる方が……私は、何百倍も嬉しいんだからね。……バカ一真)」
「…………っ!!」
彼女はそのまま、一ノ瀬さんに呼ばれて「あ、次、練習試合始まるから行くね!」と軽やかにコートへ戻っていった。
一人残された俺は、しばらく動けなかった。
海斗がどれだけ彼女を名前で呼ぼうと。
クラスの連中がどれだけ彼女を天使と崇めようと。
彼女が俺にだけ見せる、この「特別」な独占欲。
俺と彼女の、ただの「親友」という嘘。
それは、この熱気を帯びた体育館の中で、もう誰にも隠しきれないほどの熱を持って、俺の心臓を叩き続けていた。
「……。……やってやるよ、球技大会」
俺はドリンクを一気に飲み干し、再びラケットを握った。
体育館の窓から吹き抜ける六月の風が、俺の火照った顔を優しく撫でていった。
隣のコートから聞こえる彼女の気合の入った声が、俺にとって最高に頼もしい『バフ』になっていた。




