第34話 触れ合う肩を通じて
「――よし! 海斗、ここまでの公式はバッチリだね!」
一ノ瀬さんの明るい声が、熱気の籠もった俺の部屋に響いた。
時計の針は午後五時を回っている。開始から数時間、一ノ瀬さんのスパルタ(?)指導のおかげで、海斗もなんとか「補習送り」だけは回避できそうなところまで漕ぎ着けていた。
「死ぬ……。一真、お前の部屋、酸素が足りないぞ……」
「……。お前が騒ぎすぎなんだよ」
俺――佐藤一真が呆れ顔で答えると、隣に座っていた東雲さんが、ふふっと肩を揺らして笑った。
「でも、海斗くんがこんなに集中するなんて珍しいね。……。佐藤くんも、お疲れ様。もう大丈夫そう?」
「……。ああ。東雲さんの教え方が良かったからな。……ありがと」
俺が素直に礼を言うと、東雲さんは少しだけ照れたように視線を逸らした。
そんな俺たちの空気を、一ノ瀬さんが逃さず捉える。彼女はニヤリと、すべてを見透かしたような軍師の笑みを浮かべた。
「あ、そうだ! 飲み物とクッキー、全部なくなっちゃったね! 海斗、ちょっと下のコンビニまで買い出し行かない?」
「えっ? 飲み物なら母さんに言えば、クッキーだって――」
「ダメダメ! 咲希、新作のアイスが食べたいの! ほら、海斗、荷物持ちして! はい、立って!」
「うわっ、ちょっ、一ノ瀬さん!? 引っ張るなって!!」
一ノ瀬さんは強引に海斗の腕を掴むと、俺と東雲さんに向かってパチンとウインクをしてみせた。
「二人は、今のうちに今日の復習しててね! ゆっくりでいいから! ……。じゃ、行ってきまーす!」
嵐のように二人が部屋を出ていき、バタバタと階段を下りる音が響く。
やがて、一階の玄関が開閉する音が聞こえ……。
俺の部屋には、一気にしんとした静寂が訪れた。
「…………行っちゃったね、二人とも」
東雲さん――ハルが、ぽつりと呟いた。
その声は、さっきまでの「学校の東雲さん」としてのハキハキしたものではなく、少しだけ熱を孕んだ、相棒ハルの地声に近いトーンだった。
「……。……。ああ。……。あいつ、絶対にわざとやったろ」
「……。……。にひひ。……バレた? 咲希なりに気を遣ってくれたのかもね」
ハルはそう言うと、机に肘をついて、自分の頬を手のひらで包み込んだ。
第一ボタンを外した制服の間から細い鎖骨が覗く。窓から差し込む西日が、彼女の白い肌をオレンジ色に染め上げていた。
「……。……。ねえ、カズ」
「……。……なんだよ」
「……。……さっきの『モブ』とか『メリットがない』ってやつ。……。……本気で言ったわけじゃないよね?」
彼女は、上目遣いで俺をじっと見つめた。
勉強会の最中、一ノ瀬さんの追及をかわすために俺が口にした、あの自虐。
「……当たり前だろ。……お前との関係がどれだけ『特別』か。……俺が一番分かってるよ」
「………………」
東雲さんは、顔を真っ赤にして、持っていたシャーペンを机の上に転がした。
「……。……バカ。……さらっとそういうこと言うんだもん。……ねえ、ちょっとこっち来て?」
「……え?」
彼女は自分の隣――俺がさっきまで座っていた椅子ではなく、ベッドの縁をポンポンと叩いた。
「いいから。……一分だけでいいからさ」
俺は心臓の鼓動が耳元まで響くのを感じながら、彼女の隣に腰を下ろした。
一階からは、お母さんがテレビを見ている微かな音や、双葉が部屋で音楽を聴いているらしい低い重低音が聞こえてくる。
同じ家の中に家族がいる。
なのに、この六畳の空間だけが、まるで世界から切り離された秘密の聖域のように感じられた。
「……ふぅ」
東雲さんは、深いため息を吐くと。
あろうことか、俺の肩に、こてんと自分の頭を預けてきた。
「…………っ!! お、おい……ハル!?」
「いいの。……。……。今日は一日中、ずっと『東雲凛』と『佐藤くん』のふりしてて……。すっごく、疲れたんだもん。……こうしてないと、私、また仮面が外れなくなっちゃう」
彼女の黒髪から、五月の風の香りと、彼女自身の甘い匂いが混ざって漂ってくる。
預けられた頭の重みが、俺の肩を通じて心臓に直接伝わってくるようだった。
「……お疲れ様。……よく頑張ったよ。お前の演技、完璧だったしな」
「……ありがと、カズ。……ねえ、もう一つ、ワガママ言ってもいい?」
「……なんだよ。ポエムの音読以外なら聞いてやるよ」
「にひひ。……テスト、頑張ってね。……佐藤くんが赤点で不戦敗なんてことになったら……私、寂しいから」
わざと『佐藤くん』と呼ぶと、彼女は俺のシャツの袖を、指先でぎゅっと握り締めた。
「………わかってるよ。……お前に『不戦敗(笑)』って言われる権利は、俺だけの特等席だからな。……絶対、負けないわ」
「……うん。……期待してるよ、相棒」
俺たちは、どちらからともなく沈黙を選んだ。
西日がさらに深くなり、部屋の影が長く伸びていく。
一階にお母さんが、二階の部屋に双葉がいることなんて、もう忘れていた。
ただ、この肩にかかる重みと、袖を握る指先の温もりだけが、俺の「現実」のすべてだった。
三年前。
画面越しの声に救われていた俺たち。
今。
こうして隣り合い、体温を感じ合っている俺たち。
これが友情なのか、それとももっと別の、名前のつかない感情なのか。
その答えを出すには、俺たちはまだ……少しだけ、この「秘密」を楽しみすぎていたのかもしれない。
「あーっ! カズッチくん、お待たせーっ!!」
一階の玄関が開く音が響き、一ノ瀬さんの元気な声が階段を駆け上がってくる。
「――っ!?」
東雲さんは電光石火の速さで俺の肩から離れ、何事もなかったかのようにノートを広げた。
その顔は、湯気が立ちそうなくらい真っ赤だった。
「お待たせしましたぁ! アイス、溶けちゃう前に食べよ!」
ドアが勢いよく開き、一ノ瀬さんと、両手に袋を抱えた海斗が戻ってくる。
一ノ瀬さんは、俺と東雲さんの「不自然なほど真っ直ぐな背中」を見て、ニヤリと……今日一番の、すべてを悟ったような笑顔を見せた。
「凛りん、佐藤くん。……。お勉強、捗った?」
「……ええ、とっても。……。ね、佐藤くん?」
「……ああ。……最高の『バフ』をもらったからな」
俺がそう答えると、東雲さんは慌てて消しゴムを動かし始めた。……。何も書いていない場所に。
一ノ瀬咲希という軍師に転がされながら。
俺と彼女の「親友以上恋人未満」なテスト週間は、夕暮れの空と同じくらい、熱く、甘く、深まっていく。
(……。……。絶対に、赤点だけは回避しねーとな)
俺は、彼女が最後にぎゅっと握った袖の感覚を確かめるようにして、もう一度、物理の勉強に打ち込むのであった。




