第33話 ボロ出し合戦
「……。よし。ここの公式、やっと理解できたわ」
俺の部屋の学習机に広げられた物理の教科書。
隣に座る東雲さんが、シャープペンシルの先で数式を指し示しながら、満足そうに頷いた。
「よかった。佐藤くん、基礎はできてるんだから、あとは応用問題を数こなせば補習は回避できると思うよ」
「……。ああ。ありがとう、東雲さん」
俺は、努めて冷静に、けれど心臓のバクバクを悟られないように答えた。
視界の端には、さらさらと流れる彼女の黒髪。すぐ隣からは、五月の爽やかな風に混じって、彼女特有の甘く清潔な香りが漂ってくる。
そんな俺たちの様子を、床に座って海斗に数学を教えていた一ノ瀬さんが、ニヤニヤしながら見上げてきた。
「にひひ! なんか二人とも、先生と生徒みたいだねぇ! 凛りん、教えるの上手でしょ?」
「……。まあ、分かりやすいよ。海斗の方はどうなんだ」
俺が話題を逸らすと、海斗はノートに突っ伏したまま「死ぬ……。サイン、コサイン、死神……」と、もはや言語ではない呻き声を漏らしていた。
「海斗、しっかりして! これが解けないと球技大会で凛りんの勇姿が見られないんだよ!?」
「……っ!! やる、俺はやるぞ!!」
一ノ瀬さんの「凛りん」という単語に反応して、海斗がゾンビのように復活する。
……恐ろしいまでの単純さだ。
おかげで、一ノ瀬さんの注意が海斗に向いてくれた。俺は一安心し、喉の渇きを癒すために立ち上がった。
「……。ちょっと、一階から飲み物持ってくるわ。東雲さんも、何か飲むか?」
「あ、じゃあ冷たいお茶を――」
東雲さんはそう言いかけて、不意に俺のデスクの脇にある「ある物」に目を止めた。
「あ、佐藤くん。……。その棚の奥にある、あの青いコースター使えば? 水滴で机が汚れちゃうし」
「…………え?」
俺の動きが、凍りついたように止まった。
……。
……やってしまったな、おい。
東雲さんが指差したそのコースターは、普段は本棚の影に隠れていて、この部屋を初めて訪れた人間が気づけるような場所にはない。
……そう、先週彼女がうちに来た際、母さんが出した「お気に入り」を俺が適当に片付けた場所だった。
「……凛りん?」
一ノ瀬さんの声が、一オクターブ低くなった。
彼女はペンを置き、じーっと東雲さんの顔を覗き込んでいる。
「なんで凛りん、あんな奥にあるコースターの場所を知ってるの? ……。佐藤くんの部屋、初めてだよね?」
「――っ!!」
俺の背中を嫌な汗が伝う。
横を見ると、東雲さんも顔を引き攣らせていた。けれど、そこはさすが学園のトップに君臨するヒロインだ。彼女は「完璧な誤魔化し」を瞬時に発動させた。
「あ、あはは! 違うわよ咲希、ほら、あそこの隙間からチラッと見えたのよ。私、視力だけはいいから。……ね、佐藤くん?」
「そ、そうなんだよ! 東雲さん、さっきから俺の部屋のフィギュアとか、すっごく観察してたからな! きっとその時に見えたんだよ!」
俺も必死に加勢する。海斗も「さすが東雲さん、観察眼まで女神レベルか……」と勝手に納得してくれた。
……だが、一ノ瀬さんはまだ疑わしそうな目を細めていた。
「ふーん……。……。ま、いっか! あ、佐藤くん! 咲希はコーラがいいなっ!」
「……。わかった。持ってくる」
俺は逃げるように部屋を出た。
階段を下りながら、激しく打つ鼓動を鎮める。危なすぎる。この「他人のふり」というミッション、難易度がルナティックを超えている。
リビングへ行くと、そこには「母親を近づけさせない見張り」のために待機していたはずの双葉が、キッチンで鼻歌を歌いながらクッキーを焼いていた。
「……双葉。お前、見張りはどうした」
「……。あ、お兄。……。一ノ瀬さんに『双葉ちゃんのポニーテール、結び直してあげよっか?』って言われて、もうどうでもよくなった。一ノ瀬先輩、マジで天使。お兄に洗脳されてなくて本当によかったわ」
まぁ、まだお母さんは来ていないからセーフだが。
「……。お前の忠誠心はチョコ菓子並みに脆いな」
俺は冷蔵庫から飲み物を取り出し、トレイに乗せた。
そこへ、双葉が焼き上がったばかりのクッキーを勝手に乗せてくる。
「東雲さんには一番大きいのをあげてね。……。あと、ボロ出さないように気をつけなよ。お兄、さっきから顔が『隠し事してます』って書いてあるから」
「……うるさい。わかってるよ」
俺は飲み物とクッキーを抱えて、再び二階へと戻った。
ドアを開けると、そこにはなぜか、先ほどよりもさらに「奇妙な空気」が流れていた。
東雲さんが俺の机でノートに何かを書き込み、一ノ瀬さんはそれを背後から抱きしめるようにして眺めている。
……そして海斗は、なぜか俺のベッドの下を覗き込もうとして、東雲さんに冷たい目(ご褒美)で睨まれていた。
何してんだおいコラ。
「佐藤くん、おかえり。……。あ、クッキー? お母様が焼いてくださったの?」
東雲さんの「お母様」という言葉。
……。
…………。
「…………凛りん?」
一ノ瀬さんが、再び動きを止めた。
今度は、東雲さん自身が自分の言葉にハッとして、口元を押さえる。
「……。なんで『お母様』が焼いたって思ったの? 双葉ちゃんが焼いたかもしれないし、買ってきたものかもしれないじゃん」
「えっ……。あ、いや! キッチンからいい匂いがしてたから、きっとお母様……佐藤くんのお母さんが焼いてるんだろうなって思っただけよ!」
「凛りん。……。さっきから敬語も変だし、なんか……。もしかして、本当に佐藤くんと前から仲良しだったりする?」
一ノ瀬さんの追及が、ついに本質に迫る。
海斗も流石に顔を上げ、「……。まさかな。一真と東雲さんが? そんなの、太陽とミミズが友達になるようなもんだろ」と笑っているが、一ノ瀬さんの目は笑っていない。
「(……カズ、助けて……っ!)」
東雲さんが目で救難信号を送ってくる。
俺はクッキーのトレイをテーブルにドスンと置き、精一杯の「呆れ顔」を作った。
「……一ノ瀬さん。東雲さんは、ただ俺の家の家族構成を知ってるから、常識的な推測をしただけだろ。……。それに、東雲凛様が俺みたいなモブと仲良くするメリット、一個でもあると思うか?」
「メリット……?」
「ないだろ。俺はただの、東雲さんにとって『クラスのちょっとゲームに詳しい奴』でしかないんだよ。……なあ、東雲さん」
俺は自分を徹底的に貶めることで、彼女との境界線を強調した。
東雲さんは、一瞬だけ悲しそうな……けれどすぐに「ハル」としての強気な光を宿して、俺に合わせる。
「……。ええ、そうよ。佐藤くんは、ただの『便利な解説役』なんだから。……ね、咲希。そんなに疑うなら、今から佐藤くんのテスト勉強、もっとスパルタにしてあげましょうか?」
えぇ……。それはいいすぎでは……。へこむ。
「えーっ!? それはカズッチくんが可哀想だよー!」
しかし、東雲さんの言葉に一ノ瀬さんはようやく毒気を抜かれたように笑い、クッキーに手を伸ばした。
「……。……。助かった……」
俺は心の中で、何度目かわからない安堵の溜息を吐いた。
東雲さんも、誰にも見えないように机の下で、俺の足の甲を自分の足で「ツン」と叩いてきた。
(――ありがと、カズ。あとで『解説役』の分、お礼してあげる)
そんな声が聞こえてきそうな、柔らかな感触。
一ノ瀬咲希という名探偵。
東雲凛という最高の嘘つき。
そして、その間で寿命を削り続ける俺。
中間テストへの戦いは、勉強以外の意味で、俺の理性をギリギリまで追い詰めていた。
「よし! エネルギー補給完了! 後半戦、いくよーっ!」
一ノ瀬さんの元気な声が、嵐の去った後の部屋に響く。
……けれど。
彼女がクッキーを頬張りながら、一瞬だけ俺と東雲さんの「距離感」を測るように目を細めたのを、俺は見逃さなかった。
どうやら、この「名探偵」を完全に欺くには、俺たちはまだ……少しだけ、お互いのことを知りすぎていたらしい。




