第30話 中庭でお昼ご飯
月曜日、朝。
教室のドアを開けた瞬間、俺――佐藤一真は、自分を取り巻く「空気」が昨日までとは決定的に変わっていることを悟った。
(……。……。……。……視線が、痛い。死ぬほど痛い)
いつもなら、俺みたいな「その他大勢」の男子が教室に入ったところで、誰も見向きもしない。だが、今日は違う。
クラス中の視線が、まるで未知のUMAを発見したかのような驚きと、隠しきれない嫉妬の色を孕んで俺に突き刺さっている。
理由は、昨日の夜に一ノ瀬さんが投下した特大の時限爆弾だ。
『にひひ☆3人のひみつ』
一ノ瀬さんが勝手に作ったそのグループトーク。そして、そこにアップされた「俺の顔だけスタンプで隠された、けれど服装でバレバレな三人プリクラ」。
おそらくその写真がSNSを通じて、女子のネットワークを通じて、瞬く間にクラス中に知れ渡ってしまったらしい。
「――よお、一真。お前、ちょっと面貸せよ」
隣の席の海斗が、かつてないほど低い声で俺を呼び止めた。
バスケ部のエース候補で、東雲凛信者であるこいつの目は、もはや親友に向けるそれではない。異端審問官の目だ。
「……海斗。……。おはよう」
「おはようじゃねーよ! 説明しろ! なんでお前が、あの凛りんと咲希ちゃんと三人で遊んでんだよ!? 『恋愛相談役』? そんなの嘘だろ! どんな卑怯な手を使ったんだ!!」
海斗が俺の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄ってくる。
その時だった。
「――おっはよー! カズッチくん、海斗!」
教室の重苦しい空気を一瞬で塗り替える、弾けるような声。
一ノ瀬咲希が、元気いっぱいに教室に入ってきた。
そして、そのすぐ後ろ。
さらさらと流れる黒髪を揺らし、圧倒的なオーラを纏いながらも、親しみやすい笑顔を浮かべた東雲凛が続いていた。
「一ノ瀬さん……朝から元気すぎだろ」
「えへへ、だって昨日が楽しすぎたんだもん! あ、カズッチくん。昨日のプリクラ、咲希の宝物になっちゃった! ね、凛りんもそう思うよね?」
一ノ瀬さんが、隣を歩く凛の腕にぎゅっと抱きつく。
すると、凛は困ったように眉を下げ、けれど最高に魅力的な――男子なら誰でも一瞬で落ちるような完璧な笑顔を俺に向けた。
「おはよ、佐藤くん。……もう、咲希ったら朝からそればっかり。佐藤くん、困ってるじゃない」
「――っ!?」
凛の口調は、よそよそしい敬語じゃない。
クラスの誰もが憧れる、明るくて、気さくで、それでいて適度な距離感を保った「完璧な東雲さん」のトーン。
けれど、その瞳の奥。俺だけが見える角度で、彼女はにひひと悪戯っぽく目を細めてみせた。
「……。……。あ、おはよう、東雲さん。……。……昨日は、その、お疲れ様」
お疲れ様ってなんだ、仕事でもしたんか。
「ふふ、お疲れ様。……。咲希のワガママに付き合わせて、ちょっと悪かったかなって思ってたんだけど……佐藤くん、意外と楽しそうだったよね?」
東雲さんは俺の机に指先をちょん、と置くと、少しだけ顔を近づけてきた。
ふわっと、昨日も嗅いだあの石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。
「……。……。……まあ、貴重な経験だったよ」
「にひひ! 『貴重』だって! 良かったね凛りん! あ、海斗も、佐藤くんが心配なら今度一緒に遊ぶ?」
一ノ瀬さんが、海斗を巻き込む。
海斗は「えっ、俺も!? いいのか!?」と一瞬で骨抜きにされ、処刑人の顔からただの信者の顔に戻った。
……恐ろしい。
周りから見れば、一ノ瀬さんが「面白いお気に入り」として俺を連れ回し、東雲凛もそれに付き合ってあげている……という、平和で納得感のある構図が出来上がっていた。
これこそが、一ノ瀬咲希という軍師による、俺と凛を「公式」にするための完璧なカモフラージュだったのだろうか。
それは一ノ瀬のみぞ知る。
******
昼休み。
海斗と学食へ向かおうとした俺を、一ノ瀬さんが逃がさなかった。
「カズッチくーん! お昼、一緒に食べよ! 凛りんも『佐藤くんの話、もっと聞きたい』って言ってるし!」
「えっ、佐藤くんの話!? 凛りんが!?」
海斗が再び絶叫する。凛は、自分の弁当箱を抱えて、少しだけ照れたように笑いながら歩み寄ってきた。
「もー、咲希、言い方! ……。まあ、佐藤くんのゲームの話は面白いから、いいけど。……海斗くんも、一緒にどう?」
「行く! どこまでも付いていく!!」
結局、俺たちは四人で中庭のベンチに座ることになった。
俺と海斗は購買でパンを買い、女子二人はお弁当を準備していた。
海斗と一ノ瀬さんが「あのパンケーキ、実は咲希がプロデュースしたんだよー!」なんて盛り上がっている横で、俺と東雲さんは少しだけ間を空けて隣り合った。
周囲の連中は、海斗という「男子側の代表者(?)」が混ざっていることで、俺と一ノ瀬さん、そして東雲さんの関係を深く疑うことをやめていた。
まさに一ノ瀬さんの計算通り。俺たちは今、学園中の注目のど真ん中で、一番安全な「秘密の共有」を謳歌していた。
……思惑通りなのかな。
「……。……。……ハル。お前、やりすぎ」
俺が、海斗たちの会話に紛れるくらいの小声で呟いた。
東雲さんは、おにぎりを口に運ぶ動作の途中でピタリと止まり、俺にだけ聞こえる音量で「にひひ」と笑った。
「(……いいじゃん。こうでもしないと、学校でカズと喋れないんだもん)」
「(……。お前、学校でのキャラクター忘れてるぞ。もっとお淑やかにしろよ)」
「(……やだ。カズの前でだけは、我慢したくない。……あ、そうだ。はい、これ)」
東雲さんは、自分のお弁当箱の中から、ひょいと一つのおかずを箸で摘まんだ。
「佐藤くん。これ、多めに作っちゃったから……一個、食べる?」
「――っ!? え、いや、それは……」
「いいから、はい! ほら、自分のお箸出して?」
東雲さんはそう言って、弁当箱の蓋の上に、ポンとその卵焼きを置いて、俺の膝の上に置いた。
「うわあああ! 東雲さんの手作り! 一真、貴様ぁぁぁ!!」
案の定、海斗が荒れ狂う。
けれど一ノ瀬さんは、それを「あはは! 仲良しだねぇ!」と笑い飛ばし、周りにいる人達全体への『ただの友達アピール』に変えてしまった。
「……。……。いただきます」
俺が一口食べると、東雲さんは期待に満ちた目で俺をじっと見てきた。
その顔は自信満々で、けれど心のどこかでは俺の反応を何よりも気にしている……そんな、最高に無自覚であざとい相棒の顔だった。
「(……どう? 美味しい?)」
「(……。……。……おう。世界一だ)」
素直な感想を静かに述べると、彼女の顔が、一瞬で真っ赤になった。
彼女は慌てて顔を逸らし、「……。ふん、当たり前でしょ」と不自然なほど大きな声で言った。
――五月の光。
俺と彼女の、ただの「相棒」という嘘。
それを、一ノ瀬咲希という共犯者が、最高に賑やかで、最高にバレにくい「日常」へと塗り替えていく。
******
お昼ご飯を食べ終わり、カズッチくんと海斗が「飲み物買ってくる!」と購買へ走っていくのを見送ってから。
私は、隣で真っ赤な顔をしてお茶を飲んでいる親友の肩を、ぽんと叩いた。
「凛りん。今の、何点?」
「……なによ、バカ咲希。いきなり喋りかけたと思ったらご飯まで一緒に食べだして……」
凛りんはそう言って、唇を尖らせた。
でも、その瞳は、さっきまでカズッチくんが座っていた場所を、名残惜しそうに追っていた。
(にひひ。凛りん、本当に分かりやすすぎ!)
凛りんは、自分がどれだけ「佐藤一真」っていう男の子に依存してるか、まだ全然気づいてない。
学校っていう息苦しい場所で、彼が隣にいるだけで、あの子の表情がこんなに柔らかくなるなんて。
あの子が、「完璧な東雲凛」の鎧を少しだけ緩めて、ただの「一人の女の子」として呼吸できる場所。
私が今日、海斗を混ぜて四人の場を作ったのは、ただの気まぐれじゃない。
こうすることで、「佐藤くんは一ノ瀬咲希と門倉海斗の共通の友人」っていう最強のカモフラージュができる。そうすれば、凛りんが堂々とカズッチくんの隣にいても、誰も怪しまない。
(凛りんにとって、カズッチくんはきっと、唯一の『対等な相棒』なんだろうな)
私は二人がいつか、自分たちの「特別」に気づく日を楽しみにしながら。
掌の上で転がり始めた、この賑やかで甘い日常を、もっともっとかき混ぜてあげようと心に決めた。
「あ、おっかえりー! カズッチくん、咲希のコーラは!?」
戻ってきた二人に、私は全力の笑顔で手を振った。
五月の風は、私たちの秘密の笑い声を乗せて、どこまでも高く、青い空へと溶けていった。




