第29話 相棒なら
五月の夕暮れが、ゆっくりと夜の帳に溶けていく。
河川敷の土手に並んで座る俺たちの前を、一羽の鳥が水面をかすめて飛び去っていった。
風は少しずつ冷たさを増しているはずなのに、東雲さんの――ハルの隣に座っている右側だけが、やけに熱を帯びているように感じられた。
「……ねえ、カズ。静かだね」
東雲さんが、膝を抱えたままポツリと呟いた。
その声は、かつてボイスチャットのノイズ混じりに聞いていた少年の設定の声でもなく、学校の教室で何十人もの視線を浴びながら響く「天使」の声でもない。
ただの、どこにでもいる、けれど俺にとっては世界で一番聞き慣れた、一人の女の子の声だった。
「……。……そうだな。……。駅前があんなに騒がしかったのが、嘘みたいだわ」
「ふふ。咲希がいなくなったからかな。あの子がいると、そこだけお祭りの会場みたいになるもんね」
東雲さんは小さく笑って、俺の横顔を盗むように覗き込んできた。
「……。……。……何だよ」
「ううん。……カズの顔、久しぶりにじっくり見たなーって思って。……。……あ、違う。変な意味じゃないよ!? ほら、学校じゃ他人のふりしてるし、さっきまでは咲希がずっとカズをいじってたから」
「……。……俺もお前の顔、今日は一日中見てた気がするよ。……。……いや、監視してたって意味だけどな。お前がいつ『カズ』って呼び間違えるかヒヤヒヤしてたし」
「ひっどーい! 私、完璧だったでしょ!? ……。……でも、確かに。……。……今日は、すごく『東雲凛』を頑張った気がする」
そういうと東雲さんは空を見上げ、深く、深いため息を吐き出した。
その肩から力が抜ける瞬間。俺は、彼女が背負っている「偶像」の重さを、改めて肌で感じたような気がした。
学園の太陽。完璧な美少女。誰もが憧れ、遠巻きに眺める存在。
けれど、今ここにいるのは、三年間、電子の海で俺と一緒に泥にまみれてレベル上げをしていた、最高に口の悪い「相棒」なのだ。
「……。……。……なぁ、ハル」
「んー?」
「……。……。三年前、お前が初めて俺にフレンド申請送ってきた時のこと、覚えてるか?」
俺の問いに、彼女は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから懐かしそうに目を細めた。
「覚えてるよ。……カズが、初期装備のまま格上のボスに突っ込んで、ボコボコにされて死んでた時でしょ? 『なんだこのマヌケな前衛』って思って、つい手伝っちゃったんだよね」
「……。……。マヌケ言うな。俺はあの時、必死だったんだよ。……。……でも、あの時からだったな。……。……俺の世界に、お前の『声』が入ってきたのは」
俺は、自分の手を見つめた。
三年間。
俺たちは、ディスプレイという壁を隔てて生きてきた。
あいつがどんな表情で笑っているのか。どんな匂いのシャンプーを使っているのか。怒った時にどんな風に肩を震わせるのか。
そんな情報は、何一つなかった。
あったのは、安物のヘッドセットから流れてくる、デジタル化された波形だけ。
けれど、俺はその波形だけを頼りに、誰よりも東雲凛という人間の「中身」を理解してきたつもりだった。
「……。……。……不思議だよな。……。……今までは、お前の声を聞くには、電源を入れて、ログインして、チャンネルを合わせなきゃいけなかったのに。……。……今は、横を向けば、お前がいる」
「…………うん」
「ログインしなくても、ボイチェンを通さなくても。……お前が、そこにいる。……。……風が吹いたら、お前の髪が揺れるのが見えるし、お前が息を吐いたら、その音が聞こえる。……。……三年間も一緒にいたのに、こういうのが全部……。……。……何て言うか、すごく『新鮮』だわ」
俺の不器用な独白。
学校での「佐藤一真」なら、絶対に口にしない言葉だ。海斗が聞いたら「一真、ポエムモードかよ!」と大笑いするだろう。
けれど、隣に座る凛は、笑わなかった。
彼女は、そっと手を伸ばし、土手の草を指先で弄んだ。
「…………。私もね、同じこと考えてた」
東雲さん――ハルの声は、夜の静寂に染み渡るように優しかった。
「……。……ボイスチャット越しに聞くカズの声も、大好きだったよ。……。……でもね、こうして隣にいると……。……カズが、ただのデータじゃなくて、ちゃんと『人間』なんだって……。……あったかくて、少しだけ不器用で、一生懸命私のことを守ろうとしてくれる……。……そういうのが、空気を通じて伝わってくるの」
彼女は、俺の方を向いた。
一番星の光を反射した瞳が、潤んでいるように見えて、俺の心臓が不規則なビートを刻む。
「三年前は、まさか自分がクラスの男の子と、こうやって夕焼けを見るなんて思ってもみなかった。……。……。カズ。……私ね、今日改めて思ったよ。……。……私にとって、カズは……。……誰にも代わりが務まらない、世界で一人の『相棒』なんだって」
「…………」
「……。……。……親友、だからね? ……。……。変な勘違い、しないでよ?」
彼女は真っ赤になった顔を隠すように、慌てて視線を逸らした。
親友。
彼女が差し出した、その便利な言葉を、俺は迷わず受け取った。
今の俺には、それが一番心地よかった。
東雲凛という、学園一の美少女。
俺みたいな、地味で、これといった長所もない帰宅部のモブが、彼女の隣に並ぶには、あまりに格が違いすぎる。
けれど、「相棒」なら。
「三年間、生死を共にしてきた親友」という肩書きなら。
この贅沢な特等席に、俺はずっと座り続けていられる気がしたから。
「……。……ああ。分かってるよ。……。……お前みたいなわがままな奴、相棒以外お断りだわ」
「…………ふん! カズこそ、私がいなかったら、今でも初期装備のまま野垂れ死んでるんだからね!」
いつもの。
いつもの、ハルとカズのやり取り。
けれど、俺は自覚していた。
「親友だから」「相棒だから」と言い聞かせている胸の奥で、もう抑えきれない熱が、どろりと溶け出していることに。
隣で笑う彼女の、オフショルの隙間から覗く白い肩。
不意に流れてくる、彼女の吐息。
それが、単なる友情の産物でないことくらい、本当は分かっている。
けれど、まだ名前はつけない。
この幸せな「嘘」を、一日でも長く続けていたいから。
「……。……。……。……。……。なぁ、ハル」
「ん?」
「……。……。……今日は、ありがとな。……一ノ瀬さんには、あとで俺からも礼を言っておくわ」
「…………にひひ。……。……。……いいよ。……私からも言っておくから。……。……。……ねえ、カズ」
「……なに」
「……。……。……。今夜のログイン、絶対遅れないでよね? ……。……。リアルの『東雲凛』もいいけど、ゲームの中の『ハル』も……たっぷり構ってほしいんだから」
彼女はそう言うと、俺のシャツの袖をぎゅっと握り締めた。
「……。……。……言われなくても、分かってるよ。……。……さっさと帰って、ログイン準備するぞ」
「うん! ……。……あ、お腹すいた。帰り、コンビニ寄っていい?」
「……。お前、さっきパンケーキ食ったばっかりだろ」
「いいの! 今日は特別! ほら、行くよ、カズ!」
彼女は俺の手を……繋ぐ代わりに、俺の腕を強引に引っ張って立ち上がらせた。
土手を駆け下りる彼女の背中。
夕闇の中で、彼女の黒髪が踊る。
俺は、その背中を追いかけながら、夜空に浮かび始めた月を見上げた。
(……三年の残像、か。……。……。いや、違うな)
俺が今、追いかけているのは。
俺が今、その熱を感じているのは。
画面の向こう側の幻影なんかじゃない。
最高にわがままで、最高に可愛くて、そして世界で一番大切な……俺の隣にいる、東雲凛なんだ。
駅の改札。
一ノ瀬さんから届いた『二人でイチャイチャしてないで、ちゃんと凛りんを送ってあげてね!(笑)』というLIMEを見て、俺たちは同時に顔を赤くして笑い合った。
「……。……ほんとに、あの子には勝てないわね」
「……。……。……ああ。……。……。でも、明日からは、少しだけ……。……。……学校も、楽しくなりそうだな」
「…………ふふ。……。……うん。……そうだね、佐藤くん」
東雲さんは、最後だけ「佐藤くん」と俺を呼び、最高の「ハル」の顔で笑った。
俺と彼女の「親友以上恋人未満」な日曜日。
五月の風は、二人の不器用な歩幅を合わせるように、いつまでも優しく、俺たちの背中を包み込んでいた。
明日。
教室で目が合った時、俺たちはまた他人のふりをするだろうか。
いや、少しは距離の縮まった関係性を演じるのだろう。
その視線の裏側にある「秘密」は、今日の夕焼けの色に染まって、もう二度と消えることはないのだ。




