第28話 相棒としての独占欲
駅の喧騒が、遠く背後へと遠ざかっていく。
一ノ瀬さんが雑貨屋の向こう側へと消えてから、俺たちの間には、言葉にできない奇妙な沈黙が流れていた。
どちらからともなく足は、いつもの駅前通りを外れ、街外れを流れる川の河川敷へと向かっていた。
「……ふぅ。やっと、静かになったね」
堤防へと続く階段を登りきったところで、東雲さんが大きく伸びをした。
五月の夕暮れ。西の空は燃えるようなオレンジ色から、深い紫へとグラデーションを描いている。
川面はその光を反射して、まるで無数の金貨をぶちまけたようにキラキラと輝いていた。
「……。……そうだな。一ノ瀬さん、最後の方は完全に俺たちのこと、おもちゃにして楽しんでただろ」
「にひひ。あの子はそういうところあるからね。……でも、悪い気はしなかったでしょ? さとうくん」
彼女がわざとらしく、学校での呼び方を口にする。
俺は苦笑いして、土手の斜面に腰を下ろした。
「……やめてくれ。その呼び方、一日中聞いてて耳が痛いわ。……。……なぁ、ハル」
『ハル』。
その呼び名を口にした瞬間、俺の中の強張っていた何かが、すーっと溶けていくのを感じた。
東雲さんは、俺の隣に少しだけ間を開けて座ると、膝を抱えて川を見つめた。
「……。……なあに、カズ」
返ってきたのは、ボイチェンなしの、凛とした、けれど最高に心地よい彼女の地声。
俺は深呼吸をして、ずっと胸の奥に刺さっていた刺を抜く決意をした。
「……悪かった。改めて、謝らせてくれ」
「えっ? なにが?」
「月曜日のことだよ。……双葉と買い物に行くって嘘をついて、一ノ瀬さんと会ってたこと。……お前に隠し事をしたまま、相棒面してゲームしてたのが、ずっと……。なんていうか、苦しかったんだわ」
俺が視線を落としてそう告げると、隣で凛が「……。……。……」と、わずかに息を呑む気配がした。
「……。……。バカだなぁ、カズは。……そんなの、もう許してあげたでしょ。……火曜日の夜に、あんなに必死に謝られた時にさ」
「……。……でも、お前、あの時すごく静かだったろ。……本当に、俺のこと軽蔑したんじゃないかって……怖かったんだよ」
あの日の夜の沈黙。そして『バカ』の二文字。
俺はあの日の棘をまだ胸から抜けないでいた。
俺の不器用な本音。
学校での「東雲凛」は、遠い世界の太陽だ。
でも、俺の隣に座っている「ハル」は、三年間、俺がどんなマヌケな失敗をしても笑って隣にいてくれた、唯一無二の存在。
あいつを失うことは、俺にとって、学校での平穏を失うことよりも、ずっとずっと恐ろしいことだった。
「…………軽蔑なんて、するわけないじゃん」
東雲さんの声が、少しだけ震えていた。
彼女は自分のサンダルを履いた足をパタパタと動かし、照れ隠しをするように強く言い放った。
「……ただ、寂しかっただけだよ。……カズは、私の相棒なのに。……一番に頼ってほしかったのに。……咲希に、先を越されちゃったみたいで……。……それが、なんか……。……面白くなかったの。……。……。にひひ、相棒としての独占欲ってやつ?」
「……。……独占欲、か。……悪かったよ。お前の特等席、誰にも譲る気なんてねーからさ」
「…………っ!!」
彼女が顔を真っ赤にして、ぷいっと横を向いた。
「……。……。……バカ。……そういうこと、さらっと言うの、反則なんだからね」
「わ、わりぃ、今のはなんかそういう深い意味がある訳ではなく……」
「わかった、わかったからぁ」
そんなやり取りをしているうちに、空の色はさらに深みを増し、一番星が静かに瞬き始めていた。
三年前。画面の向こう側の、ノイズ混じりの声で始まった関係。
それが今、こうして、体温を感じる距離で、同じ夕焼けを眺めている。
その事実は、どんな最高難易度のレイドボスを倒した時よりも、俺の胸に強く、深く、刻まれていた。
******
川のせせらぎと、時折遠くで響く電車のガタンゴトンという音。
隣に座る佐藤くん――カズの、少しだけ速い鼓動が伝わってきそうな静寂。
(……。……。……何だろうな。この、甘くて、少しだけ苦しい感じ)
カズが謝ってくれた時。
「お前の特等席、誰にも譲る気なんてない」って言われた時。
私の胸の奥で、小さな火が灯ったみたいに、じわーっと熱が広がっていった。
三年間。
私は、ボイスチャットのヘッドセット越しに、この人の声を聞き続けてきた。
「カズ」という男の子が、どんな時に笑い、どんな時に不機嫌になり、どんな時に私を助けてくれるのか。
その全てを、私は音だけで知っていた。
でも。
今の私は、それ以上のものを知っている。
カズの、少しだけ照れくさそうに頭を掻く癖。
私を「東雲さん」と呼ぶ時の、少しだけ切なそうな瞳の色。
そして――。
今、私のすぐ隣にある、彼の大きな肩のライン。
ヘッドセットからは、石鹸みたいな清潔な香りなんてしなかった。
画面越しでは、風に揺れる彼の髪の柔らかさなんて分からなかった。
(……。……。……リアルって、こんなに情報量が多いんだ。……。……こんなに、なにもかも、近くに感じちゃうんだ……)
学校での私は、いつだって「東雲凛」という仮面を被っている。
明るくて、優しくて、隙のない女の子。
でも、今、こうしてカズの隣にいる私は、ただの「ハル」だ。
わがままを言ってもいい。
口を尖らせて怒ってもいい。
「寂しかった」なんていう、恥ずかしい本音を漏らしてもいい。
この人は、その全てを「相棒だから」っていう最強の免罪符で、当たり前のように受け止めてくれる。
(……。……好き、なのかな)
不意に脳裏をよぎった言葉を、私は慌てて打ち消した。
(……いや、違う。……これは、三年間の絆。……魂の相棒だからだ。……。……そうだよ。カズと私だもん。恋愛なんて、そんな生易しいものじゃないんだから……っ)
自分に言い聞かせないと、今すぐ彼の肩に頭を預けてしまいそうになる。
彼の大きな手を取って、「どこにも行かないで」って言いたくなってしまう。
カズは、きっと気づいていない。
自分がどれだけ、私にとって特別な存在になっているか。
あの子――咲希が言っていた。「カズッチくんは、凛りんの『中身』を知ってる」って。
それは本当だ。
世界中でたった一人、私が一番カッコ悪いところを見せられるのは、カズだけ。
夕日に照らされた彼の横顔を、私は盗むように眺めた。
少しだけ無愛想で、でも誰よりも優しい、私の相棒。
(……。……。……まだ、名前はつけなくていい。……この「親友」っていう防波堤を、壊したくないから。……今は、ただ……この風の音と、彼の声だけを感じていたい)
私は小さく息を吐き、もう一度、膝を抱える腕に力を込めた。
******
「……。……なぁ、ハル」
「ん? なに?」
東雲さんが、少しだけ潤んだような瞳で、俺の方を向いた。
その瞬間、心臓が跳ねた。
……ダメだ。
今のこいつは、学園一の美少女としてのオーラなんて一ミリも放っていない。
ただの、どこにでもいるような、けれど世界で一番愛おしい表情をした、一人の女の子だ。
「……。……今日、一日中『東雲さん』って呼んでて、改めて思ったんだけどさ」
「……。……なに?」
「……やっぱり、俺にとっては、お前は『ハル』だわ。……どんなに綺麗でも、どんなに人気者でも。……こうやって、隣で文句垂れながらゲームの話したりしてるお前が、俺の一番の相棒だ」
「…………っ!!」
そういうと彼女は真っ赤になって、顔を膝に埋めた。
「……。……。……。……カズの、バカ。……。……バカ一真。……。……そんなこと、今ここで言うこと?」
「……。……思ったから言っただけだ」
「…………にひひ。……。……でもありがと、カズ」
彼女は顔を上げないまま、片手だけを伸ばして、俺のシャツの袖をぎゅっと握った。
「……。……私も、カズじゃなきゃ……。……オフ会なんて、行かなかったんだからね。……。……。カズが私の『カズ』で、本当に良かったわ」
夕闇が、俺たちの姿をゆっくりと塗りつぶしていく。
けれど、袖を掴む彼女の手の温もりだけは、どんな夜の冷気も通さないほど、熱く、確かなものとしてそこにあった。
「……。……さあ、暗くなる前に帰るぞ。……夜のログイン、遅れるなよ」
「わかってるって! ……あ。……でもその前に。……もう数分だけ、このままでいてもいい?」
「……。……。……ああ。……お前の気が済むまでな、相棒」
俺たちは、並んで座ったまま、夜が降りてくる川を眺め続けた。
これが恋なのか、それとも友情の進化系なのか。
今の俺たちには、まだ分からない。
ただ、この五月の風の中で共有した「沈黙」が。
これまで三年間積み上げてきた文字のチャットログよりもずっと重く、俺たちの心を繋ぎ止めていた。




