第23話 お出かけ前、妹
日曜日、午前十時。
俺――佐藤一真は、自室の姿見の前で、人生最大級の葛藤に身を投じていた。
「……これ、やりすぎか?」
手に持っているのは、昨日悩みに悩んで購入してしまったカッターシャツだ。
下は無難な黒のワイドパンツ。
派手すぎもしない、だけど清潔感のある服装。
普段なら適当なTシャツに色褪せたジーンズで済ませるところだが、今日は相手が悪い。
東雲凛――ネトゲの相棒であり、俺の黒歴史をすべて掌握している『ハル』。
そして一ノ瀬咲希――学園の天使の一角にして、俺を「えっちな目線」の現行犯で脅迫している最強の爆弾娘。
この実質学園トップ2を相手に、適当な格好で行こうものなら、今夜のログイン時間に何を言われるか分かったもんじゃない。
特にハルからは、昨夜の会議で『ダサい服できたら絶縁する』という、親友らしからぬ非情な宣告を受けているのだ。
「……よし。これでいい。これ以上頑張ると、逆に意識してるみたいでキモいしな」
自分に声を出し言い聞かせ、髪を軽く整える。
鏡の中にいるのは、どこにでもいる平凡な男子高校生だ。隣にあの二人が並ぶことを考えると、胃のあたりがキュッと鳴った。
「……何やってんの、お兄。キモいんだけど」
「……!」
不意に背後から、氷点下の声が降ってきた。
振り返ると、そこには部屋の入り口に寄りかかり、腕を組んで俺を凝視している妹の双葉がいた。
「双葉……。お前、ノックくらいしろよ」
「したし。お兄が自分の世界に入りすぎて聞こえてなかっただけでしょ。……何その服。これから誰かのオーディションでも受けるわけ?」
双葉はポニーテールを揺らしながら、俺を頭の先からつま先まで、まるで不法投棄されたゴミを検分するような目でスキャンした。
彼女は中学の女子バスケ部員で、俺に対しては常に反抗期全開だ。だが、その観察眼だけは無駄に鋭い。
「……いや、ちょっと友達と出かけるだけだ。ほら、今日は部活休みだしな」
「友達? あー……東雲凛さんのこと?」
双葉の瞳が、一瞬だけ鋭く光った。
先週の土曜日、凛が「変装(隠せていない)」をして我が家にやってきたあの日以来、双葉の中での俺の評価は「冴えないオタクの兄」から「学園の女神を何らかの卑怯な手で支配している邪教の教祖」へと変貌を遂げていた。
「な、なんで知ってるんだ……」
「……違うの?」
「……。……まあ、そうだけど」
なんでそんな怖いの。お兄ちゃん泣いちゃうよ?
「…………信じられない」
双葉は深く、深いため息をつき、頭を抱えた。
「東雲凛さん。……あの、美しくて、バスケも上手くて、後輩の女子からも『様』付けで呼ばれるような聖域。そんな人が、よりによって、休日までお兄と過ごすなんて。……東雲さん、前世でどんな大罪を犯したっていうの?」
東雲さんってそんなしたわれてるのか。まぁ俺が知らないだけでファンクラブとかもあるんだろうな。
「お前、実の兄貴をなんだと思ってるんだよ」
「歩く汚物。生きる黒歴史。……ねえ、お兄。正直に言って。あんた、東雲さんにいくら払ってるの? それとも、やっぱりあのドラゴンのシールを使って、何かヤバい催眠術でもかけてるの?」
「かけるか!! ただのゲーム仲間だって言ってるだろ!お金も払ってない!」
「ゲーム仲間が、あんなに甘い空気で部屋に二人きりでいるわけないでしょ。……お母さんだって、昨日から『一真、凛ちゃんにプロポーズするならお赤飯炊かなきゃ!』とか言ってるんだよ? ちゃんと責任とってよね」
「母さんにはあとで俺がしっかり言っておく……!!」
冷や汗が止まらない。
家族の認識が「親友」を通り越して「許嫁」に近いレベルまで暴走している。
これを東雲さん知ったら、間違いなく『カズ、あの日のログ読み返してやろっか?』と煽り倒されるに決まっている。
「……ま、いいや。東雲さんの慈悲深さに感謝しなよ。……あ、そうだ」
双葉がふと思い出したように、ポケットからスマホを取り出した。
「今日のお出かけ。一ノ瀬咲希さんも一緒なんでしょ?」
「――っ!? ……。……。なんでそれを知ってるんだよ」
「昨日、お兄のスマホに『日曜日のカフェ、楽しみだね!』って通知が出てるの、偶然見ちゃったから」
「お前……。プライバシーって言葉、知ってるか?」
「犯罪者のスマホにプライバシーなんてない。……それより、どういうこと? 東雲凛さんだけじゃなくて、一ノ瀬咲希さんまで? ……お兄、ついに学園のトップ2を同時に毒牙にかけたわけ? これ、月曜日には学校中にニュース流れるよ。お兄の葬儀のニュース」
どうやら一ノ瀬さんも有名人らしい。まぁ、そりゃそうか。
双葉の目は、もはや軽蔑を超えて、一種の畏怖すら感じさせていた。
「違うんだって!! 一ノ瀬さんとは、その、恋愛相談役……みたいな、腐れ縁っていうか……」
腐れ縁?そんなものはない。苦し紛れの言い訳。
容赦なく妹はそんな俺を責め立ててくる。
「……はぁ? 一ノ瀬さんが、お兄に恋愛相談? ……ギャグのセンスまで汚染されてる。……ま、いいよ。東雲さんに嫌われないように、せいぜい頑張れば」
そう言い捨てて双葉は背中を向け、部屋を出て行こうとした。
……だが、ドアを閉める直前。彼女は顔だけをこちらに向け、少しだけトーンを落として言った。
「……東雲さん、あの日、お兄の部屋から出てきた時。……すっごく、嬉しそうな顔してたよ」
「……え?」
「……咲希さんと三人で遊ぶのもいいけど。……東雲さんを悲しませたら、私、本当にお巡りさん呼ぶから。……じゃあね、汚物」
バタン、と勢いよくドアが閉まる。
「…………」
部屋に残された静寂。
最後に双葉が漏らした一言が、やけに重く心に響いた。
あの日。俺の部屋で、二人でゲームの攻略会議をしていた時。
凛は「カズといると、自分がただのハルでいられる」と言って笑った。
あれは、俺がハルに対して抱いている「相棒としての安心感」と同じものだと思っていた。
けれど。
第三者の、それも冷徹な妹の目から見て、彼女が「嬉しそうだった」と言うのなら。
それは、ただのゲーム仲間の域を、もう超え始めているのではないだろうか。
(……いや、考えすぎだ。あいつはただ、俺をからかうのが楽しいだけだろ)
俺は首を振り、雑念を払った。
時計を見ると、待ち合わせまであと三十分。
スマホを確認すると、LIMEのトークに一通の通知。
【凛:佐藤くん、おはよ。寝坊してないよね?】
わざとらしく「佐藤くん」と呼びつつも、なんだかそれが彼女の緊張と、そして期待が見え隠れしている気がした。
【一真:ああ、今から出る。東雲さんも、忘れ物するなよ】
【凛:にひひ。了解、相棒。……あ、ちなみに今日。私、気合入れてるから。……歩道橋の上から私を見つけたとしても、私に見惚れて歩道橋から落ちないようにねっ!】
……。
…………。
「……ほんとに、あいつは」
俺は苦笑いしながらスマホをポケットにしまい、カバンを掴んだ。
凛は、ただの親友だ。
三年間、背中を預け合ってきた最高の相棒。
だから、今日のこの胸のザワつきも、きっと「秘密がバレるかもしれない」というスリルから来るものに過ぎない。
自分に何度もそう言い聞かせながら、俺は部屋を出た。
リビングでは母さんが「一真、ハンカチ持った!? ガム持った!? 凛ちゃんに失礼のないようにね!!」と騒いでいたが、それを適当にいなし、俺は玄関のドアを開けた。
外の空気は、少し冷たいけれど、どこか甘い予感を孕んでいる。
学園一の美少女、東雲凛。
爆弾娘、一ノ瀬咲希。
そして、その二人の間に挟まれる、ただの相棒――佐藤一真。
俺たちの「親友以上恋人未満」な日曜日が、今、幕を開けようとしていた。




