第15話 黒歴史は誰にでもある
火曜日。一週間のうちで最も集中力が切れると言われる魔の曜日だが、今日の俺、佐藤一真の集中力は、普段の三倍以上に研ぎ澄まされていた。
理由は単純だ。生命の危機を感じているからである。
昼休み。
教室の喧騒の中、俺は隣の席の海斗と購買の焼きそばパンを頬張っていた。海斗は相変わらず「今日の東雲さんもマジで女神だわ」と、斜め前方に座るクラスの女王に心酔している。
その時だった。
女子の輪の中心にいた一ノ瀬さんが、ふらりと席を立った。
彼女は自分のロッカーへ向かうフリをして、俺の席のすぐ横を通る。
そして――。
(――……っ!)
一ノ瀬さんは、俺と目が合うか合わないかという一瞬の隙に、人差し指を自分の唇に当てた。
そして、パチンと片目を瞑ってみせたのだ。
完璧な、秘密の合図。
昨日、体育館裏で交わした「秘密の相談役」という名のヤクザな契約を思い出させる、あまりにもあざとい動作だった。
「……? おい、一真。今、一ノ瀬さんがお前にウィンクしなかったか? いや、見間違いか。俺の目がついに幻覚を見るようになったのか」
海斗がパンを口に詰め込んだまま、目を皿のようにして固まっている。
「……気のせいだろ。ゴミでも入ったんじゃないのか」
俺は冷や汗を拭いながら、必死に平静を装った。
だが、恐ろしいのは隣の友人の視線ではない。
教室の対角線。
一ノ瀬さんの親友である東雲さんが、こちらをじっと見つめていた。
彼女の瞳は、学校で見せる「天使」のそれではない。獲物の急所を正確に射抜こうとする、ネトゲの最上位ランカーとしての鋭利な光を宿している。
東雲さんは、一ノ瀬さんが俺に送った合図を、間違いなく見ていた。
――その夜。
帰宅して風呂を済ませた俺は、逃げ場のない戦場へと足を踏み入れた。
パソコンの電源を入れ、ヘッドセットを装着する。
ログインと同時に、聞き慣れた、けれど今は少しだけ低く響く「地声」の相棒の声が届いた。
『――おつかれ、カズ。おかえり。今日もログイン早くて助かるわ』
声だけを聞けば、いつものハルだ。
だが、俺は知っている。彼女がこういう時に限って、わざとらしく明るいトーンで入ってくることを。
「……おう。ハルもお疲れ様。部活、大変だっただろ」
『んー、まあね。今日は咲希がやけに絶好調で、パス回しもキレキレだったし。……ねえ、カズ』
不意に、会話の温度が数度下がった……ような気がした。
ディスプレイの向こう側で、彼女がどんな顔をしているか容易に想像できてしまう。
『今日の咲希さ。なんか朝からずっと楽しそうだったんだよね。昼休みなんて、鼻歌歌いながらスキップしてたし。……一真、心当たりある?』
直球。回避不能の160キロのストレートだ。
俺はキーボードを叩く指が震えないよう、膝の上で一度拳を握った。
ここで「何も知らない」と白を切るのは得策じゃない。あの鋭すぎる一ノ瀬さんのウィンクを見られている以上、完璧な嘘は逆に綻びを生む。
「……。……ああ、それな。実は、昼休みにちょっと話しかけられたんだよ」
『へぇ? なんて?』
「いや、昨日さ……放課後、海斗と別れた後に、たまたま一ノ瀬さんが体育館裏で告白されてるのを見かけちゃったんだよ。それで目が合っちゃって」
俺は、半分だけ真実を混ぜた。
「『絶対に誰にも言わないでね』って、今日口止めされたんだ。あのウィンクは、その念押しだと思う。……あいつ、意外とそういうの気にするタイプなんだな」
よし、完璧だ。
一ノ瀬さんが上機嫌なのは「秘密を共有したスリル」であり、ウィンクの意味も通る。何より、告白されていたという事実は、東雲さんならいずれ一ノ瀬さん本人から聞き出すだろうから、整合性は取れる。
『…………ふーん。告白ね。まあ、咲希なら珍しくないけど』
ボイスチャットから、コトッ、とグラスを置くような音が聞こえた。
数秒の沈黙。俺は、自分の心臓の音がマイクに拾われていないか不安で仕方がなかった。
なんで、なんでこの二人の美少女は、揃いも揃ってこんなに勘が鋭いんだ。
一ノ瀬さんの「無自覚な爆弾投下」も怖いが、東雲さんの「相棒ゆえの嘘の見抜き」は、もはや恐怖でしかない。
『……まあ、いいわ。そういうことにしておいてあげる。カズは口が堅いのが長所だもんね?』
マイクの向こうの声が、少しだけ試すような響きを帯びた。
確かに、俺は彼女に「性癖」という名の致命的な弱みを握られている。だが、俺が一方的に搾取されるだけの存在だと思ったら大間違いだ。
三年前、ネトゲを始めたばかりでまだキャラが定まっていなかった頃――。
彼女には、今思い出しても身悶えするような『厨二病全開の暗黒期』があったのだ。
深夜のテンションで、彼女が俺に送りつけてきた自作ポエムの数々。
『深淵に呑まれし片翼の記憶』
『刻印された紅き月への鎮魂歌』
……などなど、タイトルを聞くだけでこっちの古傷まで痛み出しそうな代物だ。
彼女は当時、俺を完全に「遠くの街に住む、一生リアルで会うことのない男の友人」だと信じ切っていた。だからこそ、誰にも見せられない心の闇(笑)を俺にだけ吐き出していたのである。
俺はこのパソコンの、二重三重にパスワードをかけた隠しフォルダに、それらを一字一句漏らさず保存している。
俺が変態として通報されるのが先か、学園の天使が「深淵の堕天使」として晒されるのが先か。
俺たちの関係は、そんなお互いに核のボタンを指にかけているような、危うい均衡の上に成り立っているのだ。
「……。……。……ああ。お前のあの暗黒ポエム集だって、墓まで持っていく覚悟だしな」
俺がそう告げると、スピーカーの向こうで「うぐっ……」と息を呑む音が聞こえた。
『……それ、今すぐ削除しなさいよ。消去、抹消! 一文字でも残ってたら、明日から学校でカズの性癖をスピーカー放送してやるんだから!』
「できるもんならやってみろ。……まあ、お前が大人しくしてる限りは、俺だってこんなもん読み返したくないしな。共倒れは御免だわ」
『っ……。……ふん、まあいいや。その言葉、信じてあげる。……でも』
東雲さんの声が、最後だけ少し、棘を帯びた。
『……咲希は、私にとっても大切な親友なの。変なことしたり、泣かせたりしたら……ハルくん(私)が許さないからね? ……わかった、相棒?』
「……わかってるよ。お前の親友なんて、怖くて手も出せねーわ」
『にひひ。よろしい。……じゃあ、今日のアプデ内容、確認しよっか!』
ようやく、いつもの明るい「ハル」に戻った。
俺は背もたれに体を預け、大きく溜息をついた。
なんとか切り抜けた……はずだ。
声だけのやり取りだからこそ、表情の動揺を悟られずに済んだが、もしこれが対面だったら、俺は今頃一ノ瀬さんの胸元への視線の件までゲロしていたに違いない。
だが、俺の安堵は一瞬で吹き飛んだ。
スマホに、一通の通知。
それは、夜のログイン中には来ないはずの、一ノ瀬咲希さんからのLIMEだった。
【咲希:カズッチくん! 来週の月曜日、放課後あけておいてね! 二人きりで、大事な「相談」があるんだから!(๑>◡<๑)】
「…………」
スマホを握りしめたまま、俺はディスプレイの中の「ハル」のキャラクターを呆然と見つめた。
東雲さんにクギを刺された直後に、これである。
俺のポーカーフェイスが、文字通り「物理的」に崩壊するまで、残り時間はそう長くはなさそうだった。




